第3話 

 実家に帰ってきて一週間が経とうとしていた。最初こそ気が楽だったが、今は少しだけ頭が痛い。


「みやこ、次の仕事はこっちで見つけるの?」


 その原因が母の放つ『これから』についての議題。


「仕事を辞めたことについては母さん何も言わないわよ。販売業なんて、長く勤める仕事じゃないって思ってたくらいなんだから。むしろ上京して三年、よく頑張ったと思うわ」


 そうは言うが母の顔は浮かない。


「だけど次にどうするか、そういう予定がないままフラフラするのはどうかと思うわよ。仕事が嫌で、辞めて実家でダラダラして……。それってただのニートじゃない。お願いだからそうなるのだけはやめてちょうだいね」


 母はそう言うとチラリと兄を見た。兄はソファで横になってテレビを見て笑っている。


 オープンキッチンと似た構造になっている我が家は、キッチンと食事するテーブルの間にカウンターが設けられている。そこから、冷蔵庫の稼動音が静かに鳴り響いていた。


 何となくその音に寄せられるように、私は立ち上がると生卵を取りに冷蔵庫へ足を運ぶ。


「母さんの分もお願い。あと小鉢とかつおぶしも」


 特に返事もせずに小鉢に入れた生卵を渡すと「どうも」と気取った返事が返ってくる。


 精神的にボロボロで家に帰ってきたのだ。もうしばらくはそっとしておいて欲しい。

 だけど父が十年前に病気で死んでから、母は優しさだけでなく、厳しさも兼ね備えるようになった。甘えた事は言えない。


 分かってはいるけれど、文句はつい袋から空気が漏れ出るようにぷすぷすと出てしまう。小言が飛んでくるかと思ったが母は何も言わず、生卵をご飯にかけるだけだった。言うだけ言っておいて実は許容しているのかもしれない。その姿が、私のなかに静かな後悔を沸き立たせる。


 どうしてこう甘ったれた性格になってしまったのだろうか。育ってきた環境や、誰かのせいにはしたくないけれども。ふと気付くと、文句と一緒に弱音と言うか、自分のダメな部分を責任転嫁するような発言が口から出てしまいそうになり、必死に飲み込む。これはただの今の自分の弱さから目を背け楽になろうとする行為でしかない。


 私はすぐ誰かや何かのせいにして言い訳をしてしまう。この自分の性分が殺してしまいたいほどに憎い。言い訳を飲み込むのは、否定的な考えの持ち主である私としては、まだポジティブな働きだ。


 他の人はどうやって自分の弱さと向き合っているのだろうか。

 誰もが当たり前に出来ている事を、私はちっとも出来ていない気がする。


 例え物事をそつなくこなす事が出来たとしても、人間性と言う面で、私はきっと酷く劣等生であり、出来損ないなのだ。


 お前みたいな奴はどこ言っても駄目だと、極めつけみたいに言われた上司の一言は今も私の中で暴れている。


 何だかんだ上手く理由付けして辞めた会社だったが、仕事が嫌いで、この現状がずっと続く事にゾッとしていたのも事実で、結局何もかもから逃げ出そうとしているだけで、周りは誤魔化せていても自分だけはその考えの浅はかさを見抜いていて、周囲の人間は転職だのニートだの好き放題やっていて、内心そんな彼らの姿に対する憧れもあって、何もかも投げ捨てて、ここ数年間の私は心の不安や悩みからひたすら逃げ出すことばかり考えていた。


 みやこちゃんは格好いいと笹やんは言ってくれた。


 だけど、違う。


 本当の私は目茶苦茶弱く、最低にダサく、自分に甘く、人として魅力もなく、陰気で、曲がっていて、生きていても仕方がなくて、ゲロ以下の豚より役に立たない肥溜めよりも存在意義が薄いただクソとションベンと排卵ばかりして毎日タバコを吸い食物と生活資金を浪費するだけのどんな言葉をもってしても表現できない馬糞みたいな若者でしかない。


 やっぱりこんな人間はどこに言ってもダメで、良い所なんか一つもない。早く死んでしまったほうが世の為になるのではないかとすら思えてくる。


 強くなるにはどうすればいいんだろう。

 何百回何千回と考えた問いは、未だ答えが出ないまま頭の中を巡り巡っている。


「東京で彼氏が出来たって聞いた時は、もう結婚の時期かって思ったものだけどね」


 テレビを細目で眺めながら、母はそっと溜息をついた。


「焦らせるつもりはないの。でも、何もしないまま毎日をダラッと過ごすのだけはやめてね」


 そんなのわかっている。


 仕事が嫌で辞めるなんて退職理由では絶対に退職なんてさせてもらえなかった。それは上司の思いやりでもあり、冷たさでもあり、厳しさでもあり、悪意と優しさでもあった。


 何か前向きな理由があったからこそ、私は仕事を辞める事が出来た。嫌味を飛ばされながら、罵倒されながらも上司を納得させる事が出来たのだ。


 だけど私はそれが何だったか、思い出せないでいる。


「ねぇ、みやこ。働くのが嫌だったら、このまま結婚って言う選択肢もあるんだからね」


 それだけはない。いつかは結婚したいという願望はあるが、すくなくともそれは今ではない。


 私が上京して付き合っていたのは、友達の紹介で会った、どこにでもいる普通の営業マンだ。食品メーカーに勤めていて、二つ年上で、穏やかな性格の優しい男性だった。お互い楽器が趣味で、彼もギターをしていた。一緒にいてそれなりに楽しかったし、自然と会う回数も増えて気がつけば付き合っていた。


 別れたのは、結婚を迫られたからだ。


 プロポーズされてすぐ断ったのではない。しばらく熟考した後、電話で別れ話を切り出した。プロポーズを断るのだから、これ以上の発展はない。マンネリ化した付き合いをこのまま続けるより、いっそのこと別れてしまったほうが良い。


 学生時代に抱えていた甘さや葛藤を捨てきる事が出来ておらず、まだまだ自分が学生となんら変わらない青臭さを抱えた子供である事を悟っていた。


 そんな私に結婚なんて無理だ。

 たとえしたとしても、その事実を受け入れる事なんて出来ない。

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