第2話
沈みきった夕日を背景に私と笹やんは家路につく。
「それじゃあ私、ここだから」
見慣れた別れ道で笹やんはこちらを振り向き、静かに手を振る。高校時代、時折笹やんと一緒に帰る事があった。別れるのはいつもここだった。そんなどうでもいい事を今更思い出す。
「みやこちゃんタバコ吸う姿も様になってるね。私も吸おうかな、タバコ」
止めようとした私を見て笹やんは朗らかに笑った。ああ、この顔。間違いなく笹やんだ。同級生だった笹山朋の笑顔だ。
「嘘。余計なお世話かもしれないけれど、体に悪いんだからさ。辞めなよ? タバコ」
去り行く彼女の背中を見て、近況らしい近況を話す事を求められない友人関係を築けていた事に深い感謝を覚える。久々に会った友達なんて近況報告をしなければすぐに話題が尽きてしまうものだ。それなのに、こうして同じ時間を過ごす事が出来る。私はその事実を愛しく思う。
「機嫌治った?」
振り返ったら濃緑のマウンテンパーカーを着た兄が立っていた。
「遅いから迎えに来たんだ。さ、帰ろうぜ」
兄は言うと手を差し出す。私はそっとその手を取る。
見つめる兄の後頭部は小さく、私はいつの間にか彼の背丈を追い越してしまっていた。兄は高校の頃からずっと変わらない。なんだかそれが私を酷く安心させる。
空は薄暗くなっていて、沈みきった夕日の名残がまだ残っていた。風が時折緩やかに吹き、それが兄と私の長い髪の毛を揺らす。今度、兄の髪の毛を切ってあげようかと提案すると兄は足を止めてきょとんとした顔でこちらを振り返った。
「なんだよ急に」
伸びすぎた前髪が目に入り、兄はそっと眼を細めてそれをつまむ。
「まぁ切るのも悪くないか。どうせ暇だしな。二人とも」
私は無職。兄も無職。親からしたら最悪だろう。ニート兄妹だ。
「ま、俺はやいのやいの言われないけどな。お前は大変だろ。次の仕事早く探さないと最悪、見合いでもさせられるんじゃないか? 勤めないならせめて結婚くらいしろって」
うちの親の性格上、十二分に有り得る話ではある。
「苦労してなった社会人はどうだった?」
悪戯っぽく兄は笑う。分かりきった答えをよくも聞いてくれる。
「最低だったって顔してるな。理不尽だったろう?」
私の仕事は販売職だった。家電製品の説明をしてお客さんに売るだけのアルバイトにでもできる簡単な仕事だ。商品に関する簡単な研修はあったが、基本的に分からない知識は全部ネットかサポートセンターへの電話で対処した。
年末の閉店間際、駅前にある私の職場はピークに忙しかった。人に触れていない時間が三十秒とない、そんな環境だった。そんな中で会計をしたら、若い客に態度が悪いと指摘を受けた。
レジから出ろと言われ、目の前で激昂する人の顔を眺めながらこの人は元気で良いなと心から思う。下唇のところに生えているあごひげが妙に気になったり、何度も鼻を掻いたりと目がいくのは仕草や身体的特徴ばかりだ。何を言われたか、仔細までは記憶していない。
会社に入ってから様々なクレームを受けた。自分の振る舞いに対する物もあれば、値段や店舗、他の販売員に対するものもあった。もちろん、言いがかりも多かった。
彼らからしたら、客として当然の権利を行使しているだけだ。それはもちろん、いけないことではない。
私の仕事は、そう言う悪意や怒りを受け止める事だった。
人に悪意を向けられる事に慣れてしまったのはいつからだろう。
知らない間に少しずつ、色んな事が私から色んなものを奪って行った気がする。
「分かるよ」
私の愚痴に同期が同調する。
「俺もここに入るまでは人の繋がりを結構大事にしてたんだよね。飲み会とか、遊びとか。楽しみたいって言うのはあるんだけど、そうじゃなくて人と交流して仲を深めて自分の知らない見識や話に触れたいって言うのが前提だった。だけどいつからだろうな、人と関わるのが面倒くさくなってきたのは」
同期が深いため息を吐き出す姿を今も鮮明に覚えている。入社時の彼はもっと目を輝かせていた気がする。一つの仕事に対して全力だったし、なにより一生懸命だった。
私も、彼も、いつしか毎日を生きるので精一杯になってしまっていた。
苦労してなった社会人は、理不尽の塊だった。納得できない事の連続で何度も頭を抱えた。それでも自分は成長していると信じ込んで、なんとか毎日をやっていた。時々誰かと遊んだり、飲んだり、スタジオに入って曲を作ったり、ライブをしたり。そんな日常の一片一片に支えられていると必死に言い聞かせていた。
「自分の催眠が解けてしまったから、お前は仕事を辞めてこっちに帰ってきた。違うか?」
ちっとも違わない。
「例えばの話だ」
兄は語り出す。
「ある男に生まれて初めて好きな人が出来たとする。心から愛して付き合った彼女だ。
そんな男の恋人が自分の一番信頼していた友人に犯され、ショックで自殺したとする。
自棄になった男は心を病み、何も手につかなくなる。当然会社をクビになり、両親も亡くなっていて頼れるものもない。
そして男はやがてホームレスになる。
ある日男は公園で寝ているところを若者の集団に襲われ、半身不随になる。
まともな治療もリハビリも受けられず、体を引きずりながら毎日カラスやイタチの様にゴミ箱をあさる日々だ。誰も助けちゃくれない。そんな理不尽だって世界的に見れば多分ゴロゴロしている」
兄は最低最悪に不愉快な例え話をして目を細める。何が言いたいのか何となく察しがつく。
「そうだよ。そんな理不尽があるんだからお前の体験している理不尽なんて大した事ない。だから我慢しなさいって言われるんだ。それが世界の常だ」
もっと大変な人がいるから君は大した事ない。君のしている苦労なんて苦労のうちにならない。そんな言葉は確かに何度も言われた。やって当然、やれて当然、出来なければ努力が足りないといわれる。明らかに他の人よりも扱いが悪かった気がしたが、みんな言わないだけでそんな物なのだろうと自分で勝手に納得していた。
私は多分気付いていた。自分の心の中に巣食う決定的な感情に。だけどそれに気付かないフリをしていた。
「自分より大変な人がいるからって、自分の遭っている理不尽を許容する理由にはならないよ。だけどそれを無理やり押し込めるからおかしい話になってくる。その時抱いた不満や怒りを吐き出す権利すら奪われるんだ。そして答えも提示されないから、何かがおかしくなってくる。おかしくなるのは世界じゃない。自分だ」
兄が私の手を強く引っ張り、私は彼の横に並んで歩いた。見つめ合う。兄の大きくてハッキリした目は深く、見るもの全てを包み込みそうな気すらした。
兄はそれでも世界が好きなんだろうか。
「好きだよ。大好きだ。愛していると言っても良い」
私にはそんなに世界を好きでいられる理由が分からなかった。
「それは自分で見つけんとな」
理不尽さを議題に出した兄は、自分なりの答えを持ち合わせているにも関わらず、それを一切提示しない。
理不尽な人間だ。
「こっちに帰ってきたんだからゆっくり考えたら良いじゃん。今のお前を襲う理不尽は、最低な仕事をどうにか辞めて実家で新しくやり直そうって決意したにも関わらず、そんなこっちの事情を一切配慮しない両親と隣近所の冷たい視線だけなんだから」
それは確かに最低だ。でも理不尽なのか。
「ま、お前一人じゃなくて俺もいるんだから。安心しろよ」
何が安心だ。気休めにすらならない。
だけどその適当さを妙に嬉しく、また懐かしく思う。
ああ、そうだ。
私は故郷に帰ってきたのだ。
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