このちっぽけな世界の端っこで
坂
第一章 変わらないものと、変わるもの。
第1話
書き綴った感情にはどこか稚拙さが垣間見える。
自由を孕んだ紙切れはいつか書かれたそれによって価値をなくす。
幼さと狂気性にまみれた文章は時に真理をつき、それがまた一層下らない文字の連なりを目も当てられないものへと変貌させる。
中学時代に書いたノートは私の溜息を誘うには十分すぎるほど重たく恥ずかしいものだった。
日記ではない。それは手記だ。
当時の私の感じ方、考え方を事細かく記し、一体誰に向けたのかは定かではないが、自分の生きる世界について書いたものだ。
馬糞がさらに何かをひりだして生まれたようなノートは、押入れの一番奥にあるダンボールの中から出てきた。こんなものを得るために掃除を行ったのではないというに。
燃やそうかとも思ったが、燃やせばこの言葉の羅列が煙と化すことで世に流れ出て、世間に何かしらよくない影響を及ぼす気がしてならなかった。
「なんだよ、辛気臭い顔して。何か嫌なものでも見つけたのか?」
部屋の入り口に立つ兄が悪戯っぽく笑みを浮かべて言う。
──知ってるくせに。
こう言う時の兄は大体なんでも察している。この兄に私の事で分からないことなんて多分ない。そんな兄妹関係。
私は黙って兄を睨むと、掘り出したノートを再びダンボールの中に戻した。次に開かれるのは一体いつ頃だろうか。数年先かもしれないし、何十年先かもしれない。はたまた何百年先かも。……それだけは避けたい。
私はカーテンレールに掛けていたコートを取ると、財布を持って兄の横をすり抜けた。
「おい、出かけるのか? 部屋散らかしっぱなしで」
そんなものは後でどうとでもなる。
「母さん、今日はご馳走にするって言ってたの覚えてるだろ? 早く帰れよ」
背後から投げかけられる兄の言葉にぷらぷらとやる気なく手を振って答えた。
玄関の扉を開くと鋭い冷気が皮膚を貫こうとして来た。私は体を震わせその中に突っ込んだ。門を抜け、狭い路地を歩く、歩く。坂を上り、狭苦しい世界を上へ上へと昇っていく。
コンビニでタバコとライターを買って近くの公園へと足を運んだ。坂の上にある小さな公園で、割と見晴らしは良い。この小さな街を一望するには十二分すぎる場所だ。
足を踏み入れてみると、人っ子一人見当たらない。どうやら真冬の夕暮れに公園で遊ぶ子供はいないらしい。私の頃はどうだったかなと考えたが、いまいち思い出せない。自分の時代と比較した時点で、随分と歳をとったんだなとなんとなく思ってしまう。
近くのベンチに座って、タバコを取り出して封を開けた。
「みやこちゃんじゃない。何やってんの、こんな所で」
夕日を遮るように、誰かが私の横に立った。背中に背負っているのはギターのギグケースか。幼い顔のショートカットヘアーな女の子。見た感じ二十歳手前。いずれにせよ私とは一回りくらい歳が離れて見える。
「覚えてない? ほら、高校時代の……」
言われて、何となくある人物の造型が重なる。あ、笹やん。
「そうそう、笹山。うれしいなぁ、こんな所で会えるなんて。何年ぶりくらい?」
五年ぶりだ。最後に会ったのは、成人式の時だった。あの時はお互い振袖を着ていて髪型もアップにしていた。当時の笹やんはもうちょっと髪が長かったし、それで随分と大人びて見えた。あの頃に比べると、今の彼女は随分若返った気すらする。
「人づてには聞いていたけど、戻ってきてたんだね、こっちに。仕事辞めたんだって?」
私はかつてここよりもずっと大きな街で働いていた。電車が沢山通り、夜中でも明るく、人通りが絶えない、そんな街だった。何もかもが早い場所だった。時間も、人の移り変わりも、生きる速度も。
「きっと色々あったんだね」
そう言って微笑む彼女には確かに昔の面影があった。よかった。ちゃんと本人だ。双子の妹とかではなかった。
「あはは、何それ。当たり前じゃない。私は私だよ」
彼女はギグケースを背中から取り外し、私の横に座る。何となく、彼女の横に置かれたそれに目がいく。どう見てもギターだが、高校時代の彼女はバドミントン部員であり、およそ音楽に精通はしていなかった。
「これ? 大学から始めたんだ。今も職場の人とバンド組んでるの。中に入ってるのはアコギ」
取り出されたのは黒く塗り染められたアコースティックギター。アンプとギターを繋ぐためのシールドを刺す部分がある。エレキアコースティックギターだ。通称エレアコ。寒い大気に冷やされ痛いくらいに弦が張って見えた。
「詳しいね、みやこちゃん。そういえば軽音学部だったよね? 高校の時とか大きなヘッドホンして登校してたの覚えてるよ。みやこちゃんクールキャラだったから、ああいうのもスッと決まっちゃって、なんか格好よかったなぁ」
彼女は適当にコードをチラつかせる。慣れた指使いは随分練習した事を物語っていた。
「バンド練習じゃないんだけどね。街の方に用事があったから、ついでに弾き語りもしようかなって。ライブってなるといつも緊張してアがっちゃうから、その練習」
ギターの音色が小さな公園に広がる。私は何気なくタバコを口に咥えると火をつけた。口の中に独特の苦味が広がり、その後徐々に舌が馬鹿になって行く。そう言えば吸うのは久々だ。会社ではよく吸っていたが休みの日はとんと吸わなかった。だから仕事を辞めてからと言うもの、全く吸わなくなっていた。そのまま禁煙してしまっても良かったかもしれない。
「タバコ、吸うようになったんだね」
気を遣って消そうとしたら手で制された。
「いいよ。別に嫌じゃないよ」
その代わり、と彼女はギターを寄越してくる。
「弾いてみて? みやこちゃんのギター、久しぶりに聴いてみたいかも」
手渡されたそれを、私はじっくりと眺めてしまう。
何もかもが久しぶりの街だけれど、ギターに触るのだけは全然久しぶりなんかじゃなくて、社会に飲まれそうになっている私の人生の中、ずっとギターだけが支えだった気がする。
チリチリと焼けていくタバコを口に咥えたまま、私はギターを爪弾く。どこか夕景と重なるこのメロディはなんだったか。確かずっと前に見たアニメの曲だ。視聴していたわけでもないのにメロディだけはずっと脳裏にこびり付いていた。確か小学生の女の子が呪を解かれた魔物たちを再び封印する話。大雑把に知っているあらすじはそんなもので、仔細は知らない。
でもなんだか社会の縮図みたいだ。
社会と言う呪いから解放された私は、やがてまた社会に飲まれないと生きていけないだろう。
指をスライドさせ、弾き、コード弾きの間に主旋律のメロディを挟み込んでみる。
「すごいね……」
驚いたように目を見開く笹やんの呟きが耳に入り、私は少し得意気になって演奏を続ける。タバコの灰が冷えた地面に落ち、もう一吸い。吐き出すと独特の煙たさが私の顔を包んだ。
演奏が終わってギターを返すと、笹やんがパチパチと小さく拍手をする。
「みやこちゃんすごく上手くなってるね。練習したの?」
この曲において言えば練習した記憶などない。ほとんどアドリブだ。そのためメロディにばらつきがあるし、時々モタりもした。
「なんか悔しいな。私がギター始めたのは大学からだけど、随分練習したんだよ? だけどあっさり抜かして行っちゃうんだもん」
笹やんはギターをケースにしまいながら、そっと溜息をつく。白い吐息が大気にまみれ、静かに霧消する。
「でもなんか安心した。私にとってあの頃のみやこちゃんってすごい格好良い女の子だったからさ。今も格好良いままなんだってわかって」
彼女はヨイショと立ち上がると近くの手すりに体を預け、景色を眺める。街の向こう側に陽が落ち、山際が真っ赤に燃えている。空は茜色に染まり上がり、世界を変えていく。
「変わったものもたくさんあるけど、変わらないものもたくさんあるんだよね」
なんだか嬉しそうな笹やんの言葉を耳にしながら、私は新しいタバコに火をつけた。何を話せばいいのか分からなかった。
何故仕事を辞めたのか?
何故帰ってきたのか?
言いたいことはたくさんあり、言うべきこともたくさん抱えている。それらをどう扱うかは全部自分の選択次第で、何をするにも自由なのに。
広がる見慣れたはずの景色は、私を妙にノスタルジックな気分にさせる。
かつて私は自由だった。それが数限りないものに支えられ、守られている、制限された自由だという事にも気付かず、ただ自分の中に眠るであろう多大な可能性を信じていた。
にも関わらず私は私の人生を自由に生きて行けていない。
大学を卒業して社会に出た。私が働いたのは全国展開されている電気屋さんで、数多くの同期と共にアルバイトに毛の生えたような仕事を必死こいてこなしていた。
日々を重ねていくうちに、毎日をただ過ごす事に脅えるようになったのはいつからだろうか。何か成長なり、身につけたり、そう言った前に進んでいる証のようなものがない状況で時をただ漠然と持て余している事が怖くなっていた。
この腐りきった汚物はなんだろう? ある日鏡に映った自分を見てそう思った。
自分じゃない?
いいや。
自分の人生の結果だ、これ。
学生時代から今まで。
私がした事といえば自分の人生を酷く狭くした事くらいだ。
──それでもお前は世界を好きでいられるか?
誰の言葉だっけ。考えて、あぁと思い出す。兄がかつて私に言った言葉だ。
それに付け加えて彼はこうも言った。
──俺は大好きだ。
なんだかまた変な事を言っているなぁとあの時は何も考えずに聞き流したけれど、今になってその意味が持つ重みに気付く。
今の私は、自分の世界を好きだなんて声を大にして言えるだろうか。
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