第3話
目の前に置かれたコーヒーが香ばしい豆の匂いを放っている。店内には僕ら以外に客はおらず、随分閑散とした雰囲気だった。よく経営できてるな、と少し感心する。
「みやこちゃん、ここで働いてたんだ」
「あ、うん。働き始めたのは最近だけど」
一体いつ戻ってきたのだ。
「二月だよ。仕事辞めたから」
何となく言ったその言葉が全てを物語っていた。朋も深く尋ねる気はないらしい。そう言った部分に一々触れなくても良い事を彼女は分かっている。当たり前の気遣いを当たり前にこなせる彼女だからこそ、僕は一緒にいる。
「もう接客業は二度としないって思ってたんだけど」
結構楽しいんだこれが、とみやこは笑顔を浮かべた。
「毎日ピザ伸ばしたりコーヒー淹れたり。店長と二人で小ぢんまりやってるから気軽なんだな」
長い髪を後ろで束ねる彼女の姿は、どことなく高校時代の面影が漂っている。ただ、随分と大人っぽくなったし、何より痩せていた。表情は明るくとも、どこか陰が射して見えるのは、彼女が上京してどれだけ心を疲弊させたのかを容易に想起させる。
彼女にとって今の生活は休憩時間なのだろう。僕が知る限り、櫻井みやこと言う人間はあまり感情を表に出さず飄々として見えるが、実はとても繊細だ。
高校時代の彼女は毎日の様にヘッドフォンで音楽を聴きながら、ボーっとした表情で色んな事を考えていた。人としては中々に面倒くさい考え方の持ち主で、彼女が抱える世の中への疑問をぶつけられる立場だった僕はよく戸惑ったものだ。
彼女の中の疑問を解決していたのは、彼女の兄、櫻井けいだった。
無意識にその名を口に出してしまっていたらしく、みやこはそっと目を細めた。
「すすむはお兄ちゃんと仲良かったよね」
「みやこちゃんのお兄さん?」朋が首をかしげる。
「笹やんは会ったことなかったっけ」
「あー、なんかそれっぽい人を見たような気が。すすむとみやこちゃんの三人で、よく一緒にいなかった?」
「そうそう、多分それ」
「お兄さんは実家に?」
朋が尋ねるのと店のドアが開くのはほぼ同時だった。視線をやると、茶髪の小柄な女性が大きな荷物を持っている。それを見てみやこは慌てた様子で入り口へ向かった。
「くしさん、またそんなに買ったの? 自分の持てる量ちゃんと把握してよ」
「ごめんね、みやこさん」
「ほらまたそうやって謝る」
「ごめんなさい」
「ほらぁ」
呆れたみやこの声は怒っている風でもあったが、どこか楽しそうだ。茶髪の女性は、さっき言っていた店長だろうか。小柄で、童顔で、線が細い顔立ちの人。一見しっかりしてそうな印象を受けるけれど、どこか危なっかしい。そこをみやこが補っている感じだ。
「みやこちゃんって、あんなに喋るんだ」意外そうに朋は言う。「以前公園で会った時は高校時代と同じで落ち着いた口調だったから」
確かに。言われてみると、彼女のああ言う口うるさい姿は今まで見た事がない。
「仕事して変わったのかなって思ったけど、多分違うよね」
無意識に、僕は頷いていた。そうだ、きっと違う。あの店長さんはみやこが普段見せない部分を引き出す魅力を持っているのだ。
「以前は何か欠けてしまったように見えたけど、なんだかみやこちゃん楽しそうだね」
朋の言葉は何故か僕を深く安堵させた。
しばらくすると、店内に他の客が増え始めた。頃合を見て、出ることにする。
「お二人とも、みやこさんの同級生なんですね」
会計をしてくれたのは先ほどの店長さんだった。胸元に『まきはら』と独特の癖字で書かれている。
「また是非来てください。よかったら、高校時代のみやこさんの事、教えてください」
彼女はそう言って人懐っこい笑みを浮かべた。
「いいお店だったね。また来ようよ」
店を出て朋が嬉しそうにこちらを見上げてきた。僕はそれに一体どう答えたのだろう。まるで記憶にない。
それは、違う事を考えていたからだった。
先ほど朋は櫻井みやこが何か欠けて見えた、と言った。
それはもしかしたら、僕も同じ事が言えるのかもしれない。
圧倒的な幸福の欠如……いや、幸福を感じ取る事が出来る感受性の欠如。
幸せは恒久的な物じゃない。感じ取る事が出来る期間なんて一瞬で、それはまるで流れ出る水をすくう様なものだ。
人生の割合で言えば、幸せよりも、辛かったりする事のほうが遥かに多い。だから人は、わずかに手にした幸福を大事にしようとする。
みやこはあの店で、失った感受性を取り戻そうとしている。
じゃあ僕は、果たして取り戻せるのだろうか。
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