第4話
みやこの兄、櫻井けいと会ったのは次の日の事だった。晩飯の買出しに近所のスーパーへ寄ったところ、偶然姿を見かけた。
高校の頃は、よくみやことけいと僕の三人で帰り道を一緒に歩いた。何を話していたかとんと覚えていない。主にけいがずっと話し、僕やみやこが時折返事をする。そんな感じだった。
けいが高校を卒業してからは、みやこと帰る機会もぐんと減り、結果的にけいと会うこともなくなった。けいは大学に進学して一人暮らしをしていると言う話も聞いたし、こちらに戻ってきているという真逆の噂もあった。みやこに尋ねれば早かったのだろうが、彼女は兄の事はあまり話さなかったし、僕ら二人の会話とくればみやこの泥にまみれた様な思考の独白が常だ。
そんな訳で卒業後の櫻井けいと言う人間は、僕にとってまるで煙のようにつかみどころがなく、実態がない存在だった。
そんな煙の様な人間が目の前にいた。
声をかけるべきか逡巡した。話せない仲ではない。むしろ仲が良かったのだから話さない方がおかしいくらいだ。だが何故か躊躇われ、もたもたしているうちに姿を見失った。
なんとなく内心で後悔し、会計を済ませて店を出た。
家の近所にあるこのスーパーではファーストフードショップを始め、いくつかテナントが入っている。
その中にある鯛焼き屋になぜか心惹かれ、気付けば足を止めていた。一つ百二十円。相場として高いのか安いのか分からないが、別に痛い出費ではない。
購入して近くのベンチに座った。駐輪場のすぐ目の前にあるベンチで、横に自動販売機が置かれている。たい焼きを食べながら何となく夕景に染まった空を見上げた。夕飯の準備をするために、子連れの母親がちらほら見受けられる。
車の走る音と、風が吹く声、自転車のベル、町の雑踏が、見慣れた景色を映画のワンシーンみたく染め上げている。
そっと溜息を吐いていると、どこからか櫻井けいがやってきて傍の自販機でコーヒーを買った。カシュッと缶を開けた彼はふとこちらに目を向ける。
「おう。会社帰りか?」
久々の第一声はまるで月日を感じさせないものだった。昨日会って今日も会った、そんな調子だ。
まるで家族に挨拶するような調子で、その言葉は一瞬で僕らの空いていた穴を埋める。
「もしかして休みか」
ジーパンに七部丈の青いボーダーシャツと言う僕の出で立ちは、仕事終わりには結びつかない。
「それともお前もニートか? 俺やみやこみたいに」
仲の良い友達の兄がニートをしている。何となく後頭部を打たれた様な感覚に襲われた。そうか、この人ニートなのか。
「働く気がないからな」
当たり前だといわんばかりの顔をしている。まぁニートと言う言葉が『働く気がない無職』を指すのだから自覚はあるのだろう。
「昨今、ニートの意味は拡大解釈されてきてるけどな。もう職がなかったら一元してニートって呼ばれているし」
この人は平気で自分を自分で否定する。
「にしても、同じ街に住んでるのに、会うのは随分と久しぶりだな」
こっちに戻ってきたのはつい最近ですから。そう言うとけいは「ま、俺もだけどな」と笑った。
「戻ってきたのはみやこが帰ってくる丁度一年前くらいだよ。友達とIT関連の会社を興そうって言ってたんだけど、資金持ち逃げされて終わっちまった。あれだけ貯金の為に必死こいて働いたのに、いざ見てみると一文無しで親のすね齧ったプーだからな。ま、悪い事だとは思ってないよ」
それを一体どうやって悪い事と考えずに済むのか、僕は問いたかった。
「人に話すには重い話になっちゃうけどな。でも、まぁ稀有な体験だろ。金を持ち逃げされたなんて経験、世の中には五万と溢れているけど、実際に体験した奴ってなかなかいないし。実情を話せばいくらでも同情はしてもらえる。
同情もされず、意思が弱いと笑われ、頑張ってきたのに全く認められてないみやこのほうがよっぽど残酷な目にあってるよ。緩やかなトラウマを抱えちまってる」
緩やかなトラウマ。
「そう。人と交流は出来ても、深層でビビッてしまったり、働く事に対して妙な抵抗と恐怖感が残ってるんだ。あいつの性格上、俺みたいに飄々として生きていくのは難しい。すぐ考え込むからな」
そしてけいはそっと笑みを浮かべながら僕の顔を覗き込む。
「まぁ働くって事は得たり失ったりの連続だ。お前だってそうだろ?」
僕は彼から視線を外すと静かに頷いた。
僕も失っている。
圧倒的な幸福感の欠如。
傍から見たら僕は十分に幸せな生活で、満たされた日々を送っている。
休日に恋人(に限りなく近い存在)とデートして、こうしてしっかりと休みも取れて。職場で妙な人間関係のトラブルに巻き込まれることもない。悩みらしい悩みがないのだ。
何で生きているのだろう。
ここのところ毎日自問自答する。自分は贅沢だって自覚しながら。
緩やかな温い風を頬に受ける。何故だか僕は、妙な安心感に満たされていた。それはきっと、僕の横に座るこの男に因る所が大きい。
「昔見た映画を思い出すな」
急に何の話だ。
「あっただろ。色んな物を欠如した大人が、少年と出会って心を取り戻す話」
ざっくりとした説明だったが、なんとなくそんな映画もあった気がする。
「子供にとって、いつだって悪者役だった大人。それが、その映画ではちゃんと共存して描かれてた。『常識や世間に縛られた大人のから逃げ出して冒険の旅に出る!』って映画が多かった中で、妙に新鮮だったよ」
なんとなく彼が何を言いたいのか分かる気がする。僕たちが昔見ていたような映画では、感情の欠落した大人がいつだって障害物のように立ちはだかっていた。
「俺たちはその『大人』だ。もちろん、『大人』の人からすればまだまだ子供だろうけどな。学生からしたらもう大人だよ。分かるだろ。見えているものがまるで変わってしまうって事に」
世間の理とか、社会の束縛とか、そんなものから目を背けて、自由がどうとかわめき散らしたって許されていた。
でも、今は違う。そうやって何かに抵抗する事すら億劫になるくらい毎日疲れているし、ただ生きる事ですら必死になってやっている。どうしてそこまでして必死になっているのか、時々自分でも分からなくなる。
「それは、あれだ。俺たちは生きていたいって強く思ってんだよ。きっと」
生きていたい、か。
そうかもしれない。
何で生きているんだろう。
生きていたいから。
ただ、生きていたいから。
「なんか辛気臭い話しちゃったな。せっかく久々の再会だってのに」
けいはそう言って立ち上がると、グッと伸びをした。春の風を全身に受けるけいの姿は、夕焼けに染まり妙に清々しかった。
「お前、せっかくこっちに帰って来てんならまた飲もうぜ。みやこも誘って、三人で。あ、みやことはもう会った?」
先日の喫茶店で会った事を思い出す。その事を話すと彼は随分驚いた顔をしていた。
「喫茶店? え、働いてんの?」
何故知らないのだ。
「最近よく行く喫茶店があるとは言ってたけどな。そっか、喫茶店か。場所とかって分かる?」
そう言ってにっとイタズラっぽく笑うけいの姿は、高校時代と全く変わってなくて、なんだか僕は無性に嬉しくなった。
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