第5話
けいと別れて家に帰ると、掛けたはずの鍵が開いていた。そろそろと足を踏み込んだ途端、聞きなれたアコースティックギターの音色。なんだかそれは、妙に僕を安堵させた。
「お帰り」
来てたのか、と言おうとしてやめた。なんだか彼女が家にいるのはもう当たり前みたいになっているから。今更そんな言葉で外の人扱いするのも悪い気がする。
響くギターの音色はいつも優しく、春と冬の空気が混ざり合う季節に静かに溶けていく。先ほどまで傾きかけていた陽はもう沈みかけていて、山際に触れた太陽の光は一層真っ赤に燃え上がり部屋の中に差し込んで来た。夜の気配は色濃くその存在を露わにしている。
買ってきたものを冷蔵庫に入れ、鞄を棚に置くと僕はソファに座った。窓際に座る彼女が、手元を見つめながらゆったりと弦を弾く。
いつも心地よいメロディを爪弾くだけだったが、今日は珍しく歌を入れていた。小さな声で、近所に遠慮してハミングするように緩やかなものだったけれど、同じ部屋にいる僕には十分届く歌声だ。
聴いた事がある歌だ。
それは彼女が作った曲だった。恋愛の心苦しさをテーマにしたとか言っていた気がする。そんなものをテーマにした曲なんて酷く陳腐になりそうな気がしたけれど、直接的な表現を避けた歌詞はそれを感じさせなかった。
日常に溶け込んだ感情が、時折酷く心を湿らせる。そう言う時自分が何求めているのか分からなくなる。静かに蠢き、自分の中で喘ぐその感情をギュッと抱いて共存してく。
自分のやっている事は正しいのだろうか。
自分のやろうとしている事は正しいのだろうか。
自分がどうすべきで、どうあるべきで、何がしたくて、どうなりたいのか、まるで分からなくなる。
ただ、理不尽な心の衝動と感情を出さないように噛み殺して、そのどこにでもある風景はまるでいつも通りで、残酷なまでに成長した感情をただ己が内で飼い殺すだけだ。
そんな歌の世界観。
大して意識していなかったが、歌詞に着目するとそっと浮かんでくる。
そうか、これは失恋を恨んだ曲だ。
彼女は怒っているのだ。
ずっと、怒っていたんだ。
誰に対してか分からないのに、腹を立てていたのだ。そしてずっと見せないでいた。ずっと笑っていた。自分に怒っていたのかもしれないし、僕に怒っていたのかもしれない。でもその怒りが随分と身勝手なもので、人にぶつけるとただの八つ当たりで、理不尽なものでしかないと気付いている。
だから彼女はどこまで自分を出していいか分からない。誤魔化すように、笑顔でいるしかない。
この曲に秘められている彼女の胸の内は、果たして今も生きているのだろうか。それとも過去の物としてもう消えてしまっているのだろうか。
「どうしたの、真面目な顔して」
演奏を止めた朋は不思議そうにこちらを見てくる。僕はゆっくりと首を振った。別に何でもない。少し懐かしさを覚えただけだ。
「あぁ、この曲歌うの久々だっけ。前は良く歌ってたよね」
何故歌うのを辞めたのか。僕は少し探るようにして尋ねた。
「何でだろう。よくわかんないや。気分じゃないかな。なんか歌う気にならなかったんだ」
彼女の表情はいつもの物と何ら変わりなく、そこに何かしらの意味合いが含まれているとは思えなかった。僕は何も言わずに立ち上がると台所へ向かった。そろそろ夕食の準備をしたい。食べていくかと聞くともちろんと返ってくる。
「あ、私も手伝うよ」
隣に立つ彼女に僕は黙って洗い物を指さす。何もせずにいてもらっても良かったが、何か用事を頼んだほうが彼女の心境としては良いのを知っている。自分だけくつろいぐというのが出来ない性分なのだ。
機嫌がよさそうに僕の隣で彼女はスポンジに洗剤をつけている。
学生の頃は、色んな事をハッキリさせる事が出来た。そうしないと落ち着かなかった。こうやって相手の気持ちを探ったり、そのまま知らないフリをして人間関係を崩さずに生きることなんて出来なかった。
僕たちの間にあるのは、ずっと知らないフリをして培ってきた関係だった。多分お互いにそれでよかった。
いや、きっとそれでよかったのは僕だけだ。
合わせていただけだ。彼女は。
あの歌はそんな心情の表れではないだろうか。勝手に勘繰ってしまう。
「何? こっちじっと見て」
僕の視線に気付いたのか、彼女はあどけない笑みを浮かべる。なんでもないよ、と僕は作業に戻る。気付かない作業、気付かないフリをする作業。
いつしかそれはもう僕にとって当たり前になってしまった。
関係を変えることは、それを言い出すことは、時間が経つとどんどんと出来なくなる。狭い部屋の中で水の跳ねる音が沈黙を助けてくれている気がした。
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