てがみさんけい・三十年

 最後は一風変わった手紙の話だ。何が変わっているかと言うと、その手紙はまだ存在していない。




 僕は冬が格別に苦手だが、あまりに暑い日が続くとそれはそれで憂鬱というか、身体を動かす気力が萎えてくるところがある。それで、頰に畳の跡をつけて寝そべっては一日一食程度で暮らしていたところ、見透かされた様に近所に住む姪のみどりが訪ねて来た。


「多分叔父さんは食べるのが嫌になっている頃だからって、お母さんが」


 半袖の白い簡単服ワンピースを着た姪は、お握りの幾つかと、漬物と、ついでに熟した桃を持参し、僕にそら食べろと押し付けた。


「別に食べるのが嫌になった訳では無いよ」


 言葉通りに、茶で(酒は止められた)胃の腑に食物を流し込みながら僕は抗弁する。


「せかせか外を動くのが嫌なだけで、そうすると自動的に食事も抑え目になる」

「お母さんは心配をしているのだから、ちゃんと素直に聞いた方が良いと思う」

「作家なんて生き物は、小食で晩酌さえあればどうにでもなる……」

「嘘」


 この姪は、僕とは気の合う子ではあるのだが、強情と言おうか、意志が強いと言おうか、大きな目でじっと抗議を伝えられるともう堪らなくなって折れるしか無くなる。


「……わかったとも。有難う。精々節制するよ」

「それが良いと思う。長生きしてね」


 軽口を言う。それから彼女は台所に立って桃を剥いてくれ、一緒に分けて食べた。桃はつるんと甘く、水と繊維の混淆こんこうのようなよくわからない物体だと思ったが、兎に角美味かった。これでやっと人心地がついた。


「そうだ」


 手についた桃の汁を洗い浄めると、姪は小さな鞄から何か薄い物を取り出してきた。紙である。絵葉書だ。


「この間買ったの。一寸ちょっと不思議な事があって、叔父さんに見て貰おうと思ってた」

「不思議な事?」


 僕はそれを手に取ってつくづくと眺めた。特に変わった事も無い、不忍しのばず池の風景を絵にした物だ。上手いも下手も良くわからないし、おかしな事を指摘するならば、宛先も文面も何も書かれていない、真っさらな葉書であるのに消印の判子が押されている事位だろうか。これではもう使えない。妙な買い物をした物だ。


「その消印なの。良く見て。日付がおかしくはない」


 良く見た。成る程、おかしい筈だ。年の部分がずっと先を示している。ざっと三十年は先だ。


「ははあ、これはこう言う冗談の物なんだろう。消印まで一緒に印刷された……」


 言いながら透かして見るが、掠れ具合など実に本物の判子らしい。僕は良くわからなくなってしまった。



 姪が語るところによるとこうだ。


 その日は学校が終わって、彼女は少し駅まで遠回りの道を選んだのだと言う。店屋の立ち並ぶ通りで、先生にはあまり良い顔をされない道だが、気分だったから仕方ないと涼しい顔だ。さて、ショウウィンドウを眺めながら歩いていると、ひとつの雑貨屋で足が止まった。何となく入店し、安く可愛らしいボタンなぞ無いかとあれこれ眺めていたところ、何と言うか、引かれた。


 姪はいつかの出来事から先、何か不思議事に気を引かれる癖がついてしまっている。何でも、指がぴんと引っ張られるような気になるのだそうだ。それが起こった。壁際の、紙の物がまとめて置かれた箱が今回の引力の元だった。彼女は好奇心を出し、そこを見てみた……そうして、この絵葉書を見つけた。



「つい買ってしまったのだけど、消印の事は後から気づいたの。そこが不思議なのかと思った」

「不思議は良いが、それはどう言う物なんだい」

「さあ」


 首を傾げる。


「未来の手紙とか、そう言うものにしては文面が無い。絵葉書の絵におかしな物が映っているとかね、そう言うのも無い。日付だけだろう。矢張り悪戯いたずらなんじゃ無いのかなあ」

「この消印の日付に投函したら、普通に届いたりはしないかしら」

「郵便局でねられるだろうね」


 それでも、と姪は呟く。


「何だかこの葉書、この日に私に手紙を書けと言っているみたいに思う」


 こうして彼女の心を無闇に絡め取った、それこそが不思議であり怪異であったのかも知れないが、僕にそれを確かめる術は無かった。


「それじゃあ、こうしなさい。君はその手紙を僕に渡すと良い。それならばまあ、何かあっても身内で済むだろう」


 言った瞬間、ゾッとした。ささやかな怪異に対してでは無い。三十年と言う年月に対してである。


 僕は、三十年先も生きる心算かと、そう思って怖くなったのだ。


 三十年と言えば、僕がこれまで生きて来たのとほぼ同年だ。生きていれば年齢はおよそ倍の六十になる。そんな歳まで生きている保証がある物か。僕は布の掛けられた鏡をチラリと見る。あの中では今でも、己が己の首を絞めているのかも知れないと言うのに。


 姪は姪で、無邪気に、それなら良いかも、などと納得している。二人とも元気に年を取り生きていたとして、三十年だ。僕が生きているうちに震災で東京は一度壊れた。あんな事がまた二度三度と来ない保証は無い。どこにも無いのだ。


「叔父さん?」


 姪は僕の顔を覗き込む。このお下げの女の子も、三十年後には中年の婦人だ。とても信じられない様な気もする。


「三十年も先だから、叔父さんはもうすっかりお爺さんね」

「お爺さんになれたら良いがなあ」


 姪は、成る程、そんな事で妙な顔をしていたのか、と言う様な表情になる。


「そう言う事を考えたら、怖くなってしまう」

「怖いよ。怖い絵葉書だよ、これは」


 姪は睫毛を伏せてもう一度、表裏と葉書を眺めた。眺めて、おずおずと切り出した。


「叔父さん、怖くても、矢っ張りこの葉書、叔父さんにあげる心算つもりでいて良い」

「それは構わないが」

「何だか約束みたいでしょう。ずっと先も元気で居る約束」


 姪は僕が鏡の中に見る物を知らない。僕が一度、自死を図った事を知らない。これから先、下手を打てばまた同じ事が起こらないとも限らない事を知らない。知らないはずなのだ。


 僕はゆるゆると頷いた。約束は成された。何があっても、生きてゆかねばならないと思った。僕はそのまばゆさに目を細めた。


「長生きしてね」


 姪はわかった様な顔をして神妙にそんな事を言った。そうして、続けて遠い目になる。


「私はその頃何をしているのかな」


 姪は今、恋をしている。その相手と並んで歩く未来を夢想していない訳がないのだが、僕はそれについては沈黙を心掛けた。


「まあ、翠ちゃんの事だ。丈夫で居るだろう」

「お嫁に行って子供が二人三人居て、なんて言うのは少し詰まらないから、何か面白い事になっていれば良いのに」


 僕には真っ暗な深淵に見える未来が、この子には真っ白で如何様にも変わる物に見えているのだと、遅まきながら気づく。否、それも幻想で、彼女の視野もそれ程美しい物ではないのかも知れない。だが、彼女は実に前向きで凛として見えた。


「君はその葉書に何を書く心算なんだい」


 姪は少しだけ口を曲げて笑った。


「内緒」



 さて、この約束の為に僕はあと三十年は生きていかねばならない事になった。あまりに遠くて頭がクラクラとするばかりだが、どうにかやり遂げたい。酒を飲むのと何とか上手く両立は出来ない物だろうか。


 三十年後のその時、あの葉書が果たしてどんな怪異であったのかが判明するのかも知れないが……僕はそれよりも、姪が一体どんな言葉を僕に寄越すのか、それが少々楽しみでいるのだ。




 以上が手紙にまつわる僕の三景である。どうせなので、僕の方も人に手紙を書く様な気持ちで語ってみた。


 手紙を読む様に、受け取って頂ければ幸甚こうじんです。

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帝都つくもあつめ 佐々木匙 @sasasa3396

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