たばこのこげあと 弐

 結局その次の日、僕は杉木君の住まいする下宿に向かった。なかなかに時代がかった、くすんだ様子の建物で、新進気鋭と言えど苦しい台所事情がある事が伺える。僕は大家に連れられ、きしむ階段を登って二階の彼の部屋の前に案内された。


「何だか最近、顔色がお悪いようでねえ」


 大家である腰の曲がった老婆は、人が好さそうにそんな事を言う。


「僕もそれが気に掛かって訪ねて来たのですよ」


 などと口から出まかせを言った瞬間、わあ、と野太い悲鳴が戸の向こうから聞こえて来た。


「杉木君!」


 僕は数度戸を叩く。つんのめるような足音がして、ギイと扉は開いた。


 真っ白に顔色を失った杉木君が、ガチガチと歯を鳴らし、震えながら僕を見上げていた。大家は動転した様子であわあわとしている。


「どうした、大丈夫かい。何が……」

「あの女が」


 杉木君も負けず劣らず動転しているようだったので、少し考えてから僕は懐の洋酒ブランデーの瓶を取り出し、ほんの少し飲ませてやった。大家はなだめすかして階下に戻ってもらう。


「突然後ろから首を絞められたんです。あの女でした。そしてまたいきなりスッと消えてしまって」


 気つけが上手くいったらしく、彼は正気を取り戻した様子だった。少し咳き込みながら、状況を説明してくれる。僕は部屋の中を覗いた。原稿用紙が幾枚も飛び散り、屑籠くずかごは転がり、灰皿の中身は床にぶち撒けられている。惨憺さんたんたる有様だった。


 東君に言わせれば、これも神経衰弱ノイローゼの自作自演、と言う事になるだろうか。だが、僕は知っていた。この世ならぬ怪異は、僕らの世界のあちらこちら、どこにでも存在する。この件がその類でないとは決して言い切れまい。


 帰りたいな、と心から思った。やはり、軽い気持ちで引き受けるべき案件では無かったように感じる。


「でも、大久保先生が来て下さったのだから安心です」


 それなのに、杉木君は人好きのする笑顔でそんな事を言う。


「何度も言うが、僕は魔をはらうだのは出来っこないよ」

「ええ、それでも、僕よりかはこういった事態に詳しいでしょう。それに、僕らは先生のお作に心底敬服しているんですよ。そんな作者の方が僕を心配して一緒に居て下さる。嬉しいなあ」


 そういう、そういうだ。真っ直ぐでずるい事を言うのは止めにして欲しい。僕などは褒められ慣れていないのだから、うっかりと情が移ってしまうではないか。


「……兎も角、部屋を片付けた方が良さそうだ。灰皿なんぞ危ないよ、君」


 僕は人情という魔物に引き寄せられるように、部屋に入って扉を閉めた。馬鹿な真似をしているなと思いながら。



 室内で、僕は軽く鼻をうごめかせた。


「君、結構な煙草呑たばこのみだね。臭いが酷いぞ」


 窓を閉め切っているので、辺りの空気はニコチンに満ちている。杉木君自身も煙草臭いと感じた事はあるが、部屋は尚更だった。


「あまり過ぎるのは身体に良くないよ」

「東にもよく言われます。あいつはあれで健康第一主義だから」


 杉木君は床を箒で掃きながら、照れ臭そうに言う。


「ただ、あの女、煙草の煙が嫌なようで、ふうと息を吹くと消えてしまうんです。今日もそうでした。絞められながら煙草を近づけると直ぐ居なくなりました。だから、ついここ数日はふかし過ぎて」


 新情報である。ただ、煙草は昔から魔除けに使われる事もあると言う。怪異が嫌がるのも理が通ってはいる。


「机に向かうと出るのかい」

「そうですね。こうして座って、しばらくすると……」


 正座をした杉木君の目が、途端に見開かれた。


「先生、後ろに」


 僕はゆっくり、ゆっくりと振り向いた。


 紅色の着物もあでやかに、顔を隠した女がそこに音も立てずに立って居た。


 杉木君が慌てて燐寸マッチを擦り、煙草に火を点ける。僕は全身に鳥肌が立って、動けずに居た。女は、今度は何をするでもない。ただ居るばかりだ。だが、僕の勘はこの女が尋常の人間ではないと告げていた。そして。


 ふう、と煙草の息が吹きかけられ、女の姿は霧のように薄れ消えた。僕は情けなくもぺたんと座り込む。杉木君がまたもや青い顔になっていたが、今度はまだ正気を保っているようだった。


「見ましたか。今のです」

「見……見た」

「僕は神経衰弱ノイローゼなんかじゃない……まあ、いずれそうなるのかも知れませんが、今当にあの女におびやかされているのです」


 杉木君は、そうしてどこか泣きそうな顔になった。


「どう言う訳か知りませんが、あの女の姿は、先生。僕の書く理想の女の姿にそっくり瓜二つなんですよ」



 僕は、その場では何も出来なかった。ただ、また訪ねて来る事、出来る限りの事はする事を約束し、ただし期待はしないで欲しいとだけ念押ししておいた。最悪の場合、関を通じて何やら怪しい人脈に頼れば良かろう。


 僕にしては少々大胆な行動であったが、慕ってくる後輩を気遣う気持ちくらいは持ち合わせている。そして、事の真相を知りたいと思う気持ちもだ。

 僕は真実に繋がる一片を手に入れたような気でいた。そう、女のあの細い顎の線にどこか見覚えがあったのだ。そして、僕にしかわからないであろうことがひとつ。あの女は、尋常の人間ではない——だが、死んだ人間でもない、と言う事だ。これは感覚としか言いようがない。死んだ人間の幽霊は、もっと存在が空っぽで、切なく、かなしい。



 目的の場所へは直ぐで、少し歩けば良かった。日は暮れかけ、黄昏たそがれとばりが辺りを包む。夕暮れ時、怪異の時間だ。


 僕は真新しいアパートメントの階段をこつこつと音を立てて登った。三階まで辿り着くと少々息が切れたが、深呼吸をしてやり過ごす。


 呼び鈴を鳴らすと、中から線の細い青年が現れ、驚いたような嬉しそうな顔になった。


「大久保先生ではないですか。こんな時間にどうしました。何かご用でしょうか?」


 僕は軽く鼻をうごめかせる。顔の線を確かめる。小さく頷く。


「君は煙草をどこでったんだい、東君。髪から服から、酷く臭うよ」


 東緑青あずまろくしょう君は、サッと青ざめ、狼狽した顔になった。

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