たばこのこげあと 参

「何を……」

「君がどこまで意識しているのかどうかは知らないが、どうやら杉木君を苦しめている『女』の正体がわかったような気がするよ。それで、今日ここまで訪ねて来た」


 東君は何か言い返そうとし、口を閉ざし、そうして手で顔を覆った。


「……中へどうぞ、先生」


 しゃがれた声を出し、彼は一歩下がる。僕は、小綺麗に片付いた彼の居室へと招き入れられた。



煙草たばこ、そんなに臭いますかね」


 東君は袖を嗅ぐ。自分ではなかなかわからなかろう。


「少なくとも君からそんな臭いがしたのは初めてのことだよ。しかも、僕はつい先頃同じ臭いを嗅いでいるんだから」

「杉木を診てくれたんですね」


 東君は何とも言えない——嬉しそうにも、苦しそうにも見える顔でぽつりと言った。


「否、そう、俺は知ってるんだ。どういう訳だか、あなたが杉木の下宿に来ていたところを見ている。ぼんやりと覚えています」


 短い髪を掻きむしろうとして止め、手をわなわなと震わせる。


「時々、急に気が遠くなることがあるんです。そうして、曖昧な記憶の中で、俺は女のなりをしてあいつの傍に居て……邪魔をしてやるんです」


 僕は眉をひそめた。いやに簡単に白状する。


「はじめ、訳がわからなかった。だが、どうやら同じ事があいつの身の上にも降りかかっているようで、おまけにこの臭いだ。実際に俺はあいつのところへ通っているらしい、という事がわかって——」


 ああ、彼も混乱しているのだ、と思った。はっきりとした意志の下で行われた行為ではなかったのだろう。彼の密やかな、生霊による強迫行為は。さもなければ、わざわざ僕に様子を見に行かせる事も無い筈だ。


「誓って杉木に懸想けそうなんぞしている訳じゃありませんよ。それだけは違う」

「まあ、それは疑っちゃいないが」


 傍の卓袱台ちゃぶだいの上に開かれたまま置かれた一冊の本が、ふと僕の目に入った。窓からの風がページをはらはらとめくる。献本されて僕の書棚にも置いてある本だった。杉木亘すぎきわたる『ゆびきり』。だが、その中身は随分と僕の物とは違う様だった。


「君は——勉強家なんだな」


 僕はその、あちこちに赤鉛筆で線が引かれ、余白に書き込みのされた本をつくづくと眺めた。東君はさっと顔色を変える。


「俺は、その」


 彼は目を伏せた。


「そうまでするほど彼の話が好きなら、どうしてあんな邪魔を……」


 はた、と僕は思い当たった。恐らく、東君も僕が気づいた事に気づいたのだろう。手がわなわなと震えだす。


「……好きです。好きで……そして、凄いと思う。でも」


 彼を駆り立てた物。それは、嫉妬という、ぐらぐらと煮えたぎった感情に相違なかった。


「だって、あんな、あんな文。とても俺には書けやしない。いや、他はまだしも、あんな風に美しく喋って笑う女を、俺は描き出せる気がしない。悔しくて、何度も読み返しました。幾らでも研究しました。それで結局わかったのは、俺にはあいつの文学はとても真似出来ないと、その事だけでした」


 泣きそうに顔を歪めながら、東君は捲し立てる。女姿だったのは、この辺りの事だろうか。と、見る間に彼の姿にあの女の艶やかな着物姿が重なるように見えた。


「悔しくて、悔しくて、悔しくて、身が千切れそうだった。煙草を身体に押しつけられたような気持ちです。それでも、あいつが俺の本を読んで同じ様に感じているようなら少しは救われたでしょう。だが杉木は笑って言いました。『お前の文は凄いが、三年もしたら追いついてやるからな』と。それだけ」


 俯いた彼に、僕は何も言えずただ棒の様に突っ立っていた。彼の気持ちは、僕には痛いほどよくわかった。君は君だろう、比べてどうする、などと言っても何も伝わらない。叫び出したい程の口惜しさ。

 嫉妬それその物も苦痛だが、相手にまるで嫉妬されない事も同じくらいには辛い事だ。相手が友人なら尚の事だろう。それは、魂が身を抜け出し、ひとりでに妨害を行う程の——。

 娘のような格好の彼は非常に滑稽こっけいだったが、僕にはそれを笑う事は、到底とうてい出来なかった。


「大久保先生。俺は、俺だってあんな形で邪魔をしたい訳じゃないんです。どうすればこの現象はおさまりますか」

「どうすればと言われてもな……」


 金糸で彩られた美しいたもとを揺らして僕に縋る彼に、僕は視線を泳がせる。当然、僕には何の力も知識も無い。勢いで飛び込んではしまったが、これぞという解決方法なぞわかるはずもなかった。


「それなら、この嫉妬心はどうすれば治りますか。苦しくて苦しくて仕方がない。今はまだ良いです。でも時折たまらなくなって、今日なぞは奴の首を絞めてしまった。もっと酷くなれば、いつか杉木を殺してしまうかもわからない」


 その前に僕を殺しそうな程の勢いで、それでも彼は切なげに目を伏せる。


「殺したくなどありません。それに、奴に俺の所業が知れるのも怖い」


 僕は暫し瞠目どうもくして考え、そうして頷いた。こちらなら少しはわからないでもない。一回りの差とは言え、こちらは人生の先輩だ。本当にそれでいいのか、告げていいのか悩みながら、僕は努めてゆっくりと言った。


「もっと広く物事に目を向けなさい。あらゆる物に気を遣るんだ。本でも良い。映画でも、絵画でも良い」

「それで治りますか」


 聞こえの良いおためごかしを言うな、とでも言いたげに、東君が、女が吠えた。


「まあ待ち給え。いいかい。兎に角母数を増やすんだ。そうすれば——」

「心穏やかになるとでも」

「違うよ。逆だ。そうすれば君は、あらゆる物事に嫉妬を向ける様になる」


 掴みかからんばかりだった東君は、目を見開いて動きを止めた。僕は捨て鉢な気分でぶち撒ける。


「ひとりに偏って妬くからそんな事になる。いいかい、世の中、呆れる程出来る奴で一杯だ。世界を知りなさい。そうすれば、化けて出る暇もない程あちらこちらを羨む事になるだろうよ」

「何ですか、その屁理屈は……」


 へなへなと彼は力を抜き、壁に寄りかかる。紅い着物の幻が、ゆらゆらと解けて消え、ありふれた和装の青年が残った。


「屁理屈かな。僕はずっとそうしているよ」


 そうした結果、僕の魂はあちこちに雁字搦がんじがらめになり、闘志の深刻な沈静化などを招いているのではあるが、それは今言う事では無かろう。


「君のその気持ちは間違ってはいない。大いに妬きなさい」


 僕は、僕自身が誰よりも言われたい言葉を彼へ投げた。祝福か呪いか、誰が知ろう。


「……先生も嫉妬をする事がありますか」

「あちこちにね。……君らにも僕は最初から妬き通しだ。処女作から僕より面白い物を書くんじゃないよ」


 はは、と東君は今日初めて笑い声を上げる。それから改まった声で、ありがとうございます、と僕に頭を下げた。


「ありがとうございます。ありがとうございました。俺は、どうにかやってみます」


 僕は……僕の如きが人に説教をするという緊張と気遅れと冷や汗と目眩めまいと吐き気とでもう倒れそうになりながら、なんとか「そうし給え」と答え、その後東宅を辞してから、道端で懐の洋酒ブランデーの小瓶を全部空けた。



 それからも数度、女の形の生霊は杉木君の下に現れたと言うが、徐々にその姿は薄くなり、やがて消えたままになったのだと言う。杉木君と東君は未だ仲の良い好敵手で、時に一緒に僕の家を訪ねて来る。東君が屈託の無い杉木君を見て、時折火傷が痛む様な顔をする事は、僕だけが知っている。

 僕の書棚にはふたりの本が並んで置かれている。勿論全て読んで、大いに妬かせて貰った。僕にはもはや彼らに勝てる自信など無いが、それでも読んでいる時はバチバチと火花のように、僕がかつて持っていた闘争心が微かに蘇るのを感じる。これはまあ、悪い事ではあるまいと思う。



 さて、それはそれとして、困っている事がひとつ。今回の件で特に杉木君は僕に妙に感服したらしく、何だか周りに僕の事を吹聴している様なのだ。それで著作が売れるのなら何も問題は無いのだが、どうも心霊関係の評判ばかりが上がっているらしく感じる。お陰で良くわからぬ依頼やらが増え、閉口しているところだ。


 関ならばこう言うかも知れない。どうせわかりやしないのだから、祈祷の真似事でもして誤魔化して、精々稼ぐがいいよ。怪異作家大久保純、なかなかいい響きじゃないか、と。だが、実際は僕は霊能者でも神経の医師でもない。


 どうしたものだろうかと悩み頭を巡らしながら、僕は今日も酒を飲み暮らすのだ。

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