帝都つくもあつめ

佐々木匙

たばこのこげあと

たばこのこげあと 壱

 春爛漫はるらんまんの日和、麗らかな光が我が家を照らす日。僕、大久保純の家中にもふたつの陽光が如き来客があった。


 杉木亘すぎきわたる君に東緑青あずまろくしょう君、どちらも二十歳を幾年か過ぎたばかりのうら若き文壇の若手である。まさに気鋭の新人、鯉から龍と化し天に昇る勢い、といった具合の若人ふたり。しょぼくれた僕如きの才とは無縁のはずなのだが、どういう訳か妙に懐かれて、家にまで来訪されてしまった。

 今更文学論をぶつ気力もなし、さて、何を話せば良いものかと思っていたのだが、どうも彼ら、僕が昨年ものした怪奇小説に興味津々であるようだった。


「それまでの作風とは随分変わられたので驚きました。あの雨にまつわる婦人など、大層魅力的で」

「いや、その」


 僕は面と向かって褒められると何と返せば良いのかわからなくなる性質であるので、もごもごと言いながら話を逸らしてしまう。こうして僕はいつも褒められ時を逃す。


「あれだ。女と言えば君の作の女主人公、彼女もなかなか良かったと思うよ」

「読んで下さったんですね」


 杉木君はぱっと顔を輝かせる。


「何で僕のところに献本が来るのかはわからんが、来たものは読むよ」

「こいつ、もう手当たり次第に贈りつけているんですよ」


 東君が少々意地の悪い顔で揶揄からかう。


「人聞きの悪い。感銘を受けた人のところにしか贈ってはないよ」

「また上手いことを言いやがる」

「本当だとも……そうだ」


 彼はぱっと居ずまいを正した。


「お聞きしたかったのですが、大久保先生。実際に霊の類に遭遇した場合、どのように対処すればよろしいのですか?」


 文筆家というよりは柔術家といった風合いの、体格の良い杉木君はごく真面目な顔でそんな事を言う。どうも僕は誤解されているらしい。


「杉木君、先ほども言ったと思うがね。僕は霊能の力だの知識だの、そんなものは全く持っちゃいないよ」

「それでも、あの本に載っていた出来事の数々、先生の実体験と伺いました」

「おい杉木、せよ」


 片や東君は細面で色の白い、少し陰気な顔立ちの青年だ。杉木君はこれで華やかな花柳物、東君は勇ましい歴史物が今のところの代表作なのだから、不思議なものである。


「そんな噂を真に受けて、先生にご迷惑を掛けるんじゃない」

「あれはただの噂なのですか」

「そうでしょう先生。心霊なんて物は神経の具合だと言うし」

「いや、あの話には何とも言えない現実感がありました。本当なのでしょう」

「ううん……」


 僕が書いた『日夜ひとつがたり』に書かれているのは、何を隠そう元々は僕と僕の友人である関信二の体験した出来事である。それをどうにか誇張歪曲し、怪奇小説の体裁を成したものがこの作品集だ。即ち、杉木君のどこかで聞いた噂とやらは何も間違ってはいないのだ。


 しかし、そういった噂が由来の心霊関係の頼み事が妙に増え、辟易しているという事情もあり、否定したいところではあるのだが、同時に後輩に対しぴしゃりと嘘をつく事も憚られ、だからと言って……と思考は堂々巡りを続ける。そうして僕はいつも曖昧な答え方をせざるを得なくなる。


「さて。どちらと思うかね」


 微かに笑って見せながら、ああ、我ながら胡散臭うさんくさい、と僕は内心ではがっくりと肩を落としているのだった。



 ふたりは日が落ちる頃まで滞在し、ひとしきり喋りまくった挙句に我が家を辞した。僕が一とすれば、彼らはふたりまとめて六は語っていたのではないだろうか。愉快な時間ではあったが、何だか雛鳥ひなどりの世話をしているようで、どっと疲れた。僕は我慢していた酒をちびちびやりながら、こめかみの辺りを指の節でほぐしていた。


 しんとした部屋の中で透明な液体と向かい合っていると、ふと何かがちりちりと脳髄のどこかに引っ掛かっているような感触を覚えた。あのふたりが置き土産を残して行ったような、そんな気分だった。部屋を眺めるが、特に忘れ物なども無い。首を捻りながら鯣など齧っていると、何となくぼんやりとふたりの帰り際の姿が思い浮かんだ。


 玄関先で、東君は慇懃いんぎんに頭を下げ、杉木君は深々と辞儀をし、それから――それから、妙に力の篭った目でこちらをジッと眺めてはいなかったろうか。


 置き土産は、あの視線か。僕はごろりと畳の上に転がる。起きて半畳寝て一畳とは言うが、僕が寝ては足首から先が若干はみ出てしまう。ちりちりと瞬く電気を眺めながら、僕は目を細めた。

 あの目を知っている。何か困り事を胸に秘め、他にすがる先もなく、どうにかして貰えないかと懇願するような目だ。即ち、僕に心霊だの妖怪だのの頼み事を持ち込んでくる大概の人間が見せた目だ。


 またぞろ面倒な事になるぞ。酔いに揺れながら、僕はうたた寝も出来ずに口を歪ませた。



 案の定、杉木君は数日後、書面で僕に相談を持ちかけてきた。見た目と違い、繊細な筆跡と丁寧な文体である、が、余計な迷惑である事には変わりない。よろしく願い申し上げ候などと言われても、僕には力も何も無いのだから、宜しく出来る筈もない。


 ともあれ、彼はこのような怪異を体験していたのだと伝えてきたのだ。



 一週間程前の事だと言う。杉木君は自分の下宿で机に向かい、煙草をくゆらせながら執筆活動に勤しんでいたのだそうだ。それが、はかどってきた辺りで突然ぞっ、と背中に何か嫌な物が走った。筆を止めて顔を上げると、いつの間にか部屋の隅に女が立っていたのだ。


 女は、艶やかな紅い着物姿で、袖で顔を隠していたのだと言う。お陰で、杉木君からは細い顎の線しか見えなかったのだとか。そうして彼に数歩近寄ると、書き終えたばかりの原稿をつと覗き見るような仕草を見せた。彼は腰を抜かさんばかりに驚き、その様をただ見つめていた。すると女はそのままスッと虚空に姿を消してしまった。


 それだけで済めばまだ良かったが、幻か何かだと片付けて執筆に戻ろうとした杉木君は、その後一向に集中が出来ず、とうとう一枚も進まぬままその晩を明かしてしまったのだそうだ。その後も筆が乗ると女は彼の眼前に現れ、何らかの力で彼の心を乱してくるのだと言う。


 どうかお助け下さい、と手紙は懇願していた。僕は眉間に皺を寄せる。



 その手紙への返事を考えあぐねていたところへ、今度は東君がひとりで僕を訪ねて来た。彼らの可愛いところは、庭先から回って来たりせず、きちんと玄関から呼び鈴を鳴らして僕を呼ぶところである。


「先生、そのうち差し支えなければ杉木を診てやってはくれませんか」


 普段はどこかひねくれた態度を見せる彼だが、その日はいつになく真剣な顔つきで、心から友人を心配している様子であった。だから、僕はつい頷いてしまったのだ。


「いえ、心霊なんてのは俺は信じてませんが、あいつどこか神経衰弱ノイローゼの様なのですよ。先生がお祓いの振りでもすれば、きっと気も晴れるでしょう。どうかお願いします」


 僕は拝み屋でも神経の医師でもないと言うのに、いつだって誰も聞いてくれやしないのだ。

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