うつしみひとひら

うつしみひとひら 壱

 近づいてくる。白粉おしろいと花の香りが近づいてくる。


「ちょっと、またあたしの化粧品をいじったでしょう」


 ぐいと腕を掴まれた。ざぶざぶざぶざぶ、水で全部洗い流したのに、どうして全部ばれてしまうのか。


「嫌だ本当に。気色の悪い遊びばかりして、全く。……それじゃ、今日も遅くなるから」


 パーマネントを当てた髪と、肩口の開いた洋装と。ネオン燦然たる夜の街へと女は今日も行く。醜悪で、不快で、心底魅力的な匂いを漂わせて。


「またあたしの物を動かしたりしたら、怒るからね」

「御免なさい」


 彼はただ、掠れた声でそう言った。


「御免なさい」



----



「ねえ、小父おじちゃん」


 かつかつと廊下に足音が響く。合間、紙とインキの匂いの漂うこのビルディングに、不似合いな可愛らしい声が微かに聞こえた。通りがかる人間は誰もそれに振り返らない。足音の主の男も返事をすることなく、ただ大股で進むのみだ。


「ねえったら」


 依然返事は無い。

 やがて男は突き当たりの『第二会議室』と記された部屋に滑り込み、辺りの椅子をがたがたと、二脚ほど戸の前に置いて塞ぐ。


「聞こえてるんでしょう? お返事して」

うるさいんだよ、先刻さっきからお前は」


 男は諦めたような顔で、ようやく返事をする。背はそれほど高くない、薄味な顔に眼鏡を掛けた男だ。彼——『帝都読報』記者の関信二は隠しから薄い何かしらを取り出すと、それに向かって悪態をつきだした。


「べらべらと能天気に話しかけやがって、俺には業務という物があるんだ。人目をはばかる羞恥心もな。わかれ。皆の前で答えていたらトチ狂ったと思われかねん」

「だって、私の声が聞こえるのは小父ちゃんだけみたいだったんだもの」


 幼い少女のような声は、不服げにくぐもる。関はその辺りの椅子に乱暴に座ると、苛立たしげに眉根を寄せた。


「そりゃそうだ。そうおいそれと聞こえる奴が居てたまるものかよ」


 そうして、一葉の写真を長机へと放り出した。そこには一人の、十を越えた程のおかっぱの少女が写っている。先程彼が写真部で発見し、借り受けた物だ。


「化けて出やがったか、被害者さんよ。ご丁寧にこんな写真まで撮らせて、触媒にして……悪趣味にも程がある」


 白黒の濃淡で描かれた少女の服は切り裂かれ、腹を真一文字に割かれて、が軽く覗いていた。もし色が付いていれば、さぞかし刺激的ショッキングな赤に染まっていただろう。


「だって、そのままだと消えてしまいそうだったんだもの」


 写真の中の少女は——今都内を騒がせている連続少女殺人事件の三人目の被害者は、虚ろな瞳のまま口だけを声に合わせて動かしていた。


「ね、小父ちゃん。お願いがあるの」

「仇を取れ、だろう。わかってるんだよ、お前らの言いそうな事は」

「そうよ。私をこんなにした犯人を捕まえて欲しいの」

「俺は文化部で、報道部じゃないんだがな……」

「お願いよ」


 写真の少女は微かに睫毛を伏せた。


「お願い」

「俺はお前ら幽的の類に頼まれ事をされるのが大の嫌いでな」


 関はしかめ面のまま腕を組む。


「碌な事にならん。ようく知ってるんだ」

「でも、お仕事でしょう」

「だから、管轄が違うんだよ。殺人事件なんて追った事がないぞ、俺は」


 少女は微動だにせず、しかし声には落胆の色が滲んだ。


「じゃあ……私、どうすればいいの?」

「とっとと三途の川を渡っておけよ。それ位なら手伝ってやってもいいぜ。燐寸マッチか川流しかどっちがいい?」

「嫌!」


 写真の中の死骸が、かっと目を見開いた。


「それじゃ私がこんな風になった意味がないもの!」

「…………」


 関は顎を撫で、しばし考えを巡らせた。少女はきっと全てを恨むような顔で彼を睨みつける。

 少しの時間が経った。関はようやっと口を開いた。


「……売れるかも知れんな」

「え?」

「俺がどうにか犯人を突き止めて、報道の担当に融通してやるという手がある。昼飯代くらいにはなるかな」


 彼は写真を手に取る。少女は虚ろな目を瞬かせた。


「それじゃ……」

「ただし、情報提供が条件だぞ。新しい事が何もわからなけりゃ意味が無い。犯人の顔だか何だか、きっちり見たんだろうな」

「顔は見てない。でも、覚えてることはあるわ」

「ようし、話せ、昼飯子ひるめしこ。役に立たなけりゃその場で焚き上げだからな」

「私は光子みつこよ」

「昼飯になるんだから、昼飯子で十分だ」


 固い背もたれに寄りかかり、手帳を取り出しながら、関は未だ不機嫌な顔を崩さずにいた。事態そのものは彼の気を惹く、興味深い物であったが、どうにも面倒事に巻き込まれた、しかもこちらが一手遅れで……そんな気持ちを拭えなかったからである。


 彼の気を知ってか知らずか、少女は語り始めた。



 事件のあらましは、次の通りだ。都内の住宅地で、立て続けに二件の殺人が起こった。被害者は八歳と十二歳の少女で、どちらも空き地で、腹を真一文字に割かれた有様で発見された。そうして、手がかりは何もないままに、今回三件目の悲劇が続いてしまった。さかのぼる事五日前の事だ。


「夕方頃ね、お家に帰ろうとしたら、後ろから声を掛けられたの。お母さんから言われて、私を呼んでくるよう頼まれたって。私、怖くてそのまま逃げようとしたら、急に首を絞められたわ」


 相手の力は強く、彼女は直ぐに気を失ったという。次に意識を取り戻したのは、己の身体に小刀が突き立てられた瞬間だった。


「痛くて痛くて、声も出せなかったの。大声を出さなきゃってわかっていた心算つもりだったのに、何も言えなかった。それで、そのまままた目の前が真っ白になって……」


 気がつくと、光子は自分の身体の直ぐ横に立っていたのだ、と語った。犯人の姿は無く、取り返しのつかない事が既に起こってしまったのだという事はすぐに理解した。自分がこのままではみじめに消え去ってしまうだけだという事も。


 そこに、事件を追っていた『帝都読報』の記者が現れたのだ。彼は死体を発見すると慌てふためき、大声を上げ、そうして人が来る前に幾度か写真機カメラのシャッターを切った。記者の意志ではない。彼女がそうさせた。


「それで、現像されて、誰か私の声が聞こえないか試していたところに小父ちゃんが来たのよ」

「写真の用がなけりゃな、くそ」


 嫌な顔で関はぼやく。


「で、その犯人てのはどんな奴だった」

「だから、顔は見えなかったんだってば。でも、あのね。凄く強い匂いがしたのよ」

「匂い?」


 関は怪訝けげんな表情で写真を摘み上げた。無抵抗のまま、光子は続ける。


「お花みたいな、大人の女の人みたいな匂いよ」

「ふむ。香水か? しかし、相手は男だったんだろう」

「うん。あとね、お母さんが夜のお仕事の時の匂いもしたわ。天花粉シッカロールみたいだけど、少し違うのよ」

「白粉? ますますわからんな。倒錯者か何かかよ」


 彼は鉛筆を走らせる手を止める。そうして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「おい、昼飯子。その匂いは嗅げばわかるか? というよりはお前、そのなりで鼻は利くのか?」

「失礼! それくらいはわかるわ。しっかり覚えているもの」

「そりゃ結構」

「それと、私は光子よ」


 関は声を無視して扉の前に進み、誰がこんな邪魔なところに椅子を置いたんだ、と毒づきながら乱暴にそれを除けた。


「それなら実地検分だ。お前、犬の役をやれよ」

「酷い言い方!」


 彼は呵々かかと笑い、会議室を後にした。

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