うつしみひとひら 弐

 行かなくては。きっと、寂しい思いをしている子供が居る。


 彼はひとりになると、決然と顔を上げた。


 きらきらとした硝子瓶ガラスびん。白い肌理きめ細やかな粉の類。女達の魔法だ。美しくて悪い魔法だ。彼にとってはそれはいつも、母の匂いであった。母はこうして化けて、夜の仕事に出かけて行くのだ。


 彼は憧れる様に、恐れる様にそれに手を伸ばし、そして。



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 川沿いの工場町は、昼間もどこか曇った風情で彼らを出迎えた。土埃つちぼこりの立つ道を、履き潰した靴で関は歩く。家々を隔てる塀はどこも薄汚れていた。


「時化たところだな。餓鬼がきは学校として、大人は皆工場働きか」

「うん。この時間に居るのはお母さん達と、うんと小さい子と、あとは働けない人ばかりよ」


 写真の光子が遠慮がちに、ねだる様な声を上げた。


「ねえ、小父おじちゃん。行きたいところがあるの」


 シャツの隠しから聞こえる声に、関は顔をしかめる。


「そう遠くないわ。あのね、私のお家よ」

「まず現場……と思ったが」


 辺りを見渡し、人気が無いのを確認してから呟く。


「よく考えりゃ危ないな」

「危ないの?」

「そりゃそうだろう。この辺りはお巡りが厳重に警邏パトロールしてる。余所者が来て誰何すいかされない訳が無い。そこでお前が見つかってみろ。覿面てきめんに不審者だ」

「私は怪しくないわよう」

「お前今、はらわたが出てるのを忘れるなよ」


 酷い事言うのね!と光子が騒ぐ。角を曲がって現れた女が、いぶかしむ様な目で彼を見た。関は軽く帽子を取って会釈をするが、無言のまま通り過ぎられる。


「見ろ、只でさえ胡乱うろんな独り言野郎だと言うのに、ここで死体写真何ぞ出て来たら最悪だ」

「そしたら、どうするの?」

「お前の家には行ってやるが、家族には極力会わんからな、と言う事だよ。お前も俺が豚箱にぶち込まれたら困るだろう」


 行ってくれるの、と光子が感極まった様な声を出す。関は益々嫌な顔になった。


「有難う、小父ちゃん……」

「止せよ、蕁麻疹じんましんが出る」


 しばらく歩いたところで、光子が息を呑んだ。古い長屋の前だった。震災を耐えたお陰で少し傾いでしまった、という趣すらある。


「ここか」

「うん。ここの手前から二軒目」


 写真が隠れていても、どうやら彼女本体には物が見えているらしかった。ああ、と声は懐かしそうにため息をつく。


「お母さんはお仕事かしら。それとも……」

「お袋が?」

「そうよ。うちはお父さんが居ないから、お母さんが昼も夜も働いてるの」


 お前片親か、と関は小さく呟く。と、窓の曇り硝子の先に人影がゆらりと動いた。


「お母さん。居たんだ」


 光子の声音が、すっと緊張をはらんだ物に変わる。


「お母さん!」


 叫び声が響いた。だが、それは関の耳にのみ届いた様だった。窓の向こうの相手は気づく様子も無い。


「お母さん、お母さん、お母さん、光子よ。私、ここよ」


 悲鳴の様な声だった。関は耳を塞ぎ、そそくさと長屋を後にした。光子は止めなかった。ただ、声を出し続けた。


「お母さん、お母さん、御免なさい」


 流星が尾を引く様に、悲痛な叫びは宙を漂った。聞こえない声は辺りの壁に木々に跳ね返っては消えた。


「御免なさい」


 関は、不機嫌な顔で一度だけ強く目を瞑った。



「お母さんにも、私の声は聞こえないのね」


 微かに日は暮れつつあった。色づき出した空を眺めながら、人気の無い路地裏で関は木塀に寄りかかる。


「そうおいそれと聞こえてたまるか、と言ったろう」

「じゃあ何故小父ちゃんにはわかったのかしら」

「俺は」


 ギイ、と重みで塀がきしんだ。


「そういう巡り合わせなんだとさ。お前らみたいな物と縁が濃いんだと。とんだ荷厄介だ。だから、精々楽しませて貰う事にした」

「楽しむの?」

「例えば猟奇殺人を解決して、同輩に飯を奢らせたりな。縮こまって暮らすのは真っ平だ」

「…………」


 光子は黙り込む。関は、長く伸び出した己の影法師に目を落としながら続けた。


「しかしこうも面倒だと、奢りを吊り上げられるかも知れんな。うなぎでも食うか」

「小父ちゃん」

「何だ鰻子うなぎこ

「あの匂いがした」


 ふたりの間に緊張が走った。関は身体を起こすと、路地からそう広くもない表通りに出る。鼻をうごめかすと、微かに木蓮の様な香りが残り香として、夕暮れの空気の中に漂っていた。


「ここを通って……風上に行ったか」


 彼は走り出す。香りの道は直ぐに散ってしまう。その前に何としてでも見つけ出さねばならなかった。



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 白粉を顔にめちゃくちゃにはたき、香水を頭から振りかけ、そうして彼はふらふらと暮れなずむ道を歩いていた。


 その辺りで遊んでいた子供達が、彼を奇異な目で見ながら道を帰って行く。じき夕飯の時間なのだろう。そんな中、ぽつりと遅れて歩く少女がひとり。辺りを確かめる。人は居ない。


 彼は口元をほころばせた。きっと帰っても親が居ない、可哀想な子供だ。彼と同じ様に。そして何よりあの魔法の匂いのしない、清らかな身体だ。

 彼の影法師が近づくと、相手は不安げにキョロキョロと辺りを見回した。


「大丈夫、心配ないよ。お母さんに言われて迎えに来たんだ」


 すくみ上がる少女に彼はゆっくりと手を伸ばす。


 一緒に居てあげようね。僕は君の母になろう。だから、君も僕の母になってくれなきゃ嫌だよ。その胎から僕を産んでおくれ。この甘美で淫蕩いんとうな、かぐわしく忌々いまいましい香りから僕を救い出しておくれ。


 寂しさと、愛着と、嫌悪と、憧れと、ありとあらゆる母に対しての思いを込め、彼は少女の喉首を絞め上げようとした。



 その瞬間だった。勢い良く音を立てて、彼の頭を何かが打擲ちょうちゃくしたのは。

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