うつしみひとひら 弐
行かなくては。きっと、寂しい思いをしている子供が居る。
彼はひとりになると、決然と顔を上げた。
きらきらとした
彼は憧れる様に、恐れる様にそれに手を伸ばし、そして。
----
川沿いの工場町は、昼間もどこか曇った風情で彼らを出迎えた。
「時化たところだな。
「うん。この時間に居るのはお母さん達と、うんと小さい子と、あとは働けない人ばかりよ」
写真の光子が遠慮がちに、ねだる様な声を上げた。
「ねえ、
シャツの隠しから聞こえる声に、関は顔を
「そう遠くないわ。あのね、私のお家よ」
「まず現場……と思ったが」
辺りを見渡し、人気が無いのを確認してから呟く。
「よく考えりゃ危ないな」
「危ないの?」
「そりゃそうだろう。この辺りはお巡りが厳重に
「私は怪しくないわよう」
「お前今、
酷い事言うのね!と光子が騒ぐ。角を曲がって現れた女が、
「見ろ、只でさえ
「そしたら、どうするの?」
「お前の家には行ってやるが、家族には極力会わんからな、と言う事だよ。お前も俺が豚箱にぶち込まれたら困るだろう」
行ってくれるの、と光子が感極まった様な声を出す。関は益々嫌な顔になった。
「有難う、小父ちゃん……」
「止せよ、
「ここか」
「うん。ここの手前から二軒目」
写真が隠れていても、どうやら彼女本体には物が見えているらしかった。ああ、と声は懐かしそうにため息をつく。
「お母さんはお仕事かしら。それとも……」
「お袋が?」
「そうよ。うちはお父さんが居ないから、お母さんが昼も夜も働いてるの」
お前片親か、と関は小さく呟く。と、窓の曇り硝子の先に人影がゆらりと動いた。
「お母さん。居たんだ」
光子の声音が、すっと緊張を
「お母さん!」
叫び声が響いた。だが、それは関の耳にのみ届いた様だった。窓の向こうの相手は気づく様子も無い。
「お母さん、お母さん、お母さん、光子よ。私、ここよ」
悲鳴の様な声だった。関は耳を塞ぎ、そそくさと長屋を後にした。光子は止めなかった。ただ、声を出し続けた。
「お母さん、お母さん、御免なさい」
流星が尾を引く様に、悲痛な叫びは宙を漂った。聞こえない声は辺りの壁に木々に跳ね返っては消えた。
「御免なさい」
関は、不機嫌な顔で一度だけ強く目を瞑った。
「お母さんにも、私の声は聞こえないのね」
微かに日は暮れつつあった。色づき出した空を眺めながら、人気の無い路地裏で関は木塀に寄りかかる。
「そうおいそれと聞こえてたまるか、と言ったろう」
「じゃあ何故小父ちゃんにはわかったのかしら」
「俺は」
ギイ、と重みで塀が
「そういう巡り合わせなんだとさ。お前らみたいな物と縁が濃いんだと。とんだ荷厄介だ。だから、精々楽しませて貰う事にした」
「楽しむの?」
「例えば猟奇殺人を解決して、同輩に飯を奢らせたりな。縮こまって暮らすのは真っ平だ」
「…………」
光子は黙り込む。関は、長く伸び出した己の影法師に目を落としながら続けた。
「しかしこうも面倒だと、奢りを吊り上げられるかも知れんな。
「小父ちゃん」
「何だ
「あの匂いがした」
ふたりの間に緊張が走った。関は身体を起こすと、路地からそう広くもない表通りに出る。鼻をうごめかすと、微かに木蓮の様な香りが残り香として、夕暮れの空気の中に漂っていた。
「ここを通って……風上に行ったか」
彼は走り出す。香りの道は直ぐに散ってしまう。その前に何としてでも見つけ出さねばならなかった。
----
白粉を顔にめちゃくちゃにはたき、香水を頭から振りかけ、そうして彼はふらふらと暮れなずむ道を歩いていた。
その辺りで遊んでいた子供達が、彼を奇異な目で見ながら道を帰って行く。じき夕飯の時間なのだろう。そんな中、ぽつりと遅れて歩く少女がひとり。辺りを確かめる。人は居ない。
彼は口元を
彼の影法師が近づくと、相手は不安げにキョロキョロと辺りを見回した。
「大丈夫、心配ないよ。お母さんに言われて迎えに来たんだ」
一緒に居てあげようね。僕は君の母になろう。だから、君も僕の母になってくれなきゃ嫌だよ。その胎から僕を産んでおくれ。この甘美で
寂しさと、愛着と、嫌悪と、憧れと、ありとあらゆる母に対しての思いを込め、彼は少女の喉首を絞め上げようとした。
その瞬間だった。勢い良く音を立てて、彼の頭を何かが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます