うつしみひとひら 参

 関は石を放り投げると、薄く暗がりが降りつつある空気の中、猛然と人影に駆け寄った。首を絞められかけた少女が引きつったように泣き出す。


「何をやっていやがる!」


 関は大声で怒鳴りつけた。


「逃げろ! 大人を呼んでこい。出来ればお巡りだ」


 勢いに押されたように、ぱっと少女は駆け出す。奇妙によろめくような動きで、人影はそれを追いかけ——関に足払いを掛けられ、転んだ。


「手前が犯人か、この……!」


 そのまま押さえつけようとし、彼は息を呑む。香水と化粧の香りを芬芬ふんぷんと漂わせたその相手は、痩せた老人だった。

 老人は、まだらに白粉おしろいを塗った顔を歪めた。化粧は余計にれ、しわに溜まって醜かった。関はそれでも躊躇ためらわずにのし掛かり、殴りつけ、腕を押さえ、そして瞬間、びくりと痙攣けいれんした。


「あなたが私を殺したのね」


 光子が静かにささやく声がした。関は止めろ、と呟く。彼の手が老人の首へとゆっくり掛けられる。


「おい、止めろ。俺の身体を勝手に動かすな」


 脂汗が額に流れた。関は意志と裏腹にじわじわと力の込められていく手を見つめていた。老人が藻搔もがく。懐から小刀ナイフこぼれ落ちた。


「私がどんなに苦しかったか、どんなに辛かったか教えてあげる」

「止めろ。何でお前らはいつもそうなんだ!」


 関はガタガタと震えながら悲鳴を上げた。


「手前の業を人に押し付けているんじゃない。人を巻き込むな。自分で始末しろ、この馬鹿野郎!」


 がくり、と老人が意識を失い、首を垂れた。関は小刀ナイフを拾い上げ、両手で構え、次の瞬間崩れるように地面に両手を突くと、また小刀ナイフを取り落とした。荒い息を吐きながら唾を吐く。それは血の赤に染まっていた。


「どうして。もう少しで私の仇が取れたのに」

「煩え、舌噛んでこっちは痛いんだ」


 痛みで無理やりに力を振り切った彼は、気が抜けたように地面に腰を落とす。遠くから警笛の音と、人が何人も走って来る音が聞こえた。


「殺して何になるものかよ。百歩譲って何かになったとして、俺を人殺しにするなよ。自力で呪うなり何なりしとけ。それも出来ないならとっとと諦めろ」

「……小父おじちゃん、でも」


 どやどやと、警官を先頭にして人々が集まってきた。あの人が助けてくれたの、と先の少女が関を指差す。関は口元の血を拭うと、立ち上がった。警官が急ぎ気を失った老人を確保していると、野次馬の垣根の間からふらふらとやつれた様子の女が歩み寄って来た。


「あの、今、ここに小さな女の子が居ませんでしたでしょうか」

「お母さん」


 光子の声が震えた。関は目を瞬かせる。


「声が聞こえた気がしました。光子という子です。この間居なくなって……その」

「…………」


 関は地面に落ちた帽子を拾い、目深に被り直す。


「先程も、何だか呼ばれた様な気がして……。済みません。きっと気のせいなのですけれど」

「お母さん。お母さん。御免なさい」


 光子の声からは、先までの怒りは消え失せていた様だった。ただ、哀惜あいせきだけがそこにあった。関は写真をしまった隠しをチラリと見、また女を見た。光子は何度も女に、母に呼びかけた。


「『お母さん。先に行きます。有難う。さようなら』」


 関はその言葉をあやまたず繰り返すと、会釈をし、警官へと向き直った。


 光子の母は地面に崩折くずおれた。辺りには、関の耳にしか届かない泣き声がいつまでも響いていた。



----



「あの爺さんね、どうもけていたらしい」


 鰻重うなじゅうを頬張りながら、『帝都読報』報道部記者の伊達男、柴垣信臣しばがきのぶおみはそう切り出した。


「養ってもらっている娘を自分の母親と思い込んだりね。ああして徘徊はいかいしていることも時折あったらしい」

「香水と白粉は?」


 向かい席の関は箸を止め、尋ねる。


「わからんね。娘が夜の店で働く時のもので、あれを使い出した頃から呆けが酷くなったそうだけど」

「ふむ……こういう筋はどうだ。あの爺さんの母親も芸者だか何だか、化粧の濃い夜の仕事だった。だから娘とも混同を起こした。面影が恋しいとか、愛憎半ばすとかそういう奴だろう。俺にはお袋が居ないから知らんが」

「成る程、母親の線か。調べてみよう……」


 黒革の手帳を取り出し、さらさらと書き込む。鰻屋は繁盛している様で、辺りの空気は人々のざわめきで一杯だった。


「しかし、それで何でまた殺人にまで」

「知らんよ、俺は人の考えること何ぞわからんし、狂人なら尚更だ。首を突っ込むのもゾッとする」

「今回は鰻程度で、管轄違いがよく突っ込んだじゃないか」

「せっつかれたからだよ。自分ひとりじゃやるもんかね」


 おうい、茶が切れた、と店員を呼びつける。女将がふたりの湯呑に熱い茶を注ぎ、会釈をして立ち去った。


「君の方では使わないのか? 例のあの『つくも』の」

「あれか」


 ふう、と茶を吹いて冷ましながら、関は僅かに目を細めた。『帝都つくもがたり』は彼の担当の怪談記事である。


「ありゃあ、ふたり用の企画だからな。今回はお預けだ。ちと血腥ちなまぐさ過ぎるところもあるしな」

「ふうん」


 柴垣は曖昧に頷くと、ネオンの色づき出した街を窓から眺めた。関は重箱を掴んで残りの飯を掻っ込むと、箸を置いた。


「ご馳走さん」



----



 柴垣と別れた後の事。関はひとり辺りのバーに入り、安酒のグラスを飲むでもなく、からからと音を立てて揺らしていた。

 出来るだけ中が喧しく、照明の暗い店を選んだ。お陰で煙草と香水の匂いが津波の様に襲ってくるが、それは我慢をする。


「小父ちゃん」


 店に不釣り合いな幼い声が、彼の耳にだけ届く。


鰻子うなぎこか。一通り終わったが、精々満足したか」

「うん」


 事件が終わり、事情の聴取が行われ、二日程が過ぎていたが、その間光子は押し黙ったままだった。関も、光子の写真を証拠物件として提出することも無く、写真部からは紛失扱いとなっている。


「後はお前を失くした始末書を書いて終いだな。やれやれ、手の掛かる一件だったよ」


 軽く噛んだ舌は、まだ少し腫れている。いずれすぐに治るだろうが。


「小父ちゃん。ずっと考えてたの。ちゃんと御免なさいって言わなきゃって」

「本当だよ。お前、俺に酷い事をしたんだぞ」


 危うく自分が殺人加害者になるところだった、と顔をしかめる。


「御免なさい」

「許さん。悔いたままどこか行け」

「…………」


 ふたりは無言でしばらく過ごした。酔った若者が大声で歌う声が店中に響き、幾人かの客が出て行った。


「あのね、小父ちゃん。もうひとつだけお願いがあるの」

「お前は本当に人頼みだな」


 グラスを机に置くと、関はこっそりと隠しから写真を取り出した。


 写真には、白黒の濃淡で死んだ少女の姿が写っている。服も身体も切り裂かれ、内臓の見えた無残な姿だ。


「わかってるさ」

「うん」


 関は机に置かれていた店の名入りのマッチ箱をひとつ取り出す。写真を灰皿に置き、端に火を点けるとめらめらと燃え出した。


「有難う、小父ちゃん。本当よ」


 写真の中の少女は、泣き笑いの様な顔をする。まるで生きているかの様に。


「さようなら」

「ああ」


 マッチの火を吹き消す。写真はみるみるうちに小さくなり、後には幾許いくばくかの灰だけが残った。


「それじゃあな、光子」


 氷の溶けかけた酒を、関は一気に呷った。


 その声に応える返事はもう、どこからも返る事は無かった。

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