きみかげのはな

きみかげのはな 壱

 ああ、どうもお邪魔致します。本日はお日柄も良く……春は良いですね。大久保先生もお元気そうだ。流石にこんな日和ひよりですからお酒は——呑まれてますね。ええ、そうと思いました。良いです。もう酒精アルコールの匂いについては諦めましたから。


 先生、ところで今日は先生に聞いていただきたい話がありまして、菱田明彦ひしだあきひこ、こうして参上した次第です。きっと先生のお作の参考になるのではないかと思いますし、何より誰かに話さずにはいられませんでしたので。


 ええ、そうです。えてこうして先生にお話するのだから、ちょっとした怪異にまつわる話で……良いじゃありませんか。今や立派な怪奇作家なのですから。そう耳をふさいだりせずに、どうか聞いて下さいよ、大久保先生。


 あれはつい先週の事でした——。



 実に暖かな日で、上着も要らない程の陽気でした。僕は時折額の汗を拭きながら、仕事帰りに心も軽く古本街を歩いておりました。春の日和に釣られて財布も軽く——いえそんな、毎日寄ったりはしていませんとも。精々せいぜい二日三日に一遍いっぺんと言ったところです。定期的に見て回らないと、掘り出し物があった時に困りますからね。


 ええ、さて、そうやって僕が外の棚を冷やかしていると、一軒の店の前でふと足が止まりました。今度はおかしな店ではありませんよ。ああ言うのは、この左目の件で懲りていますから。きちんと人間の店主が営んでいる、割合に新しくて洒落しゃれた店構えです。洋書を主に取り扱っているようで、それに合わせて欧風の調度が置いてあるようなところでした。

 僕は外国の書物にはそれほど興味はないので、いつもそこはチラリと見る程度で過ぎていたのですが、その日に限って何か予感がしたのですね。引き込まれるように店に入って行きました。


 店主は入ってきた僕を見て、「ごゆっくり」と声を掛けてくれました。僕はその言葉に甘えることにして、あちこちの棚を見て回りました。と言って、独逸ドイツ語だとか仏蘭西フランス語だとかは不得手ですから、専ら英語の書物を眺めておりました。中でも、精緻せいちな図版が主な本と言うのは、これは語学の能に関わらず楽しめる物ですから、僕はなかなか感じ入ってしまって。矢張り自分で勝手に傾向を絞るべきではないな、等と心持ちを反省した次第であります。


 ……何の話でしたか。そう、怪異の話でした。そう残念そうな顔をしないで下さいよ。こちらが本筋なのですから。


 そんな具合にあちらの書物を眺めているうちに、これぞと言う物があったのですね。中身は植物の図録です。青い布張りの表紙に、涼しげな銀の装飾文字で書名が記されていて、ははあ、流石舶来の物は感性センスが違う、こう言う本を自分でも作ってみたい物だと——あ、いえ、怪異怪異。かく、当面の昼飯代を犠牲にしてそれを買い求めたのです。嬉しかったなあ。


 下宿に帰って、かばんの中を眺めても、あの本が消えて無くなったりせずにそこにあるのですよ。僕はもう有頂天で、本を抱きしめたくなりましたっけ。その夜は布団の中で頁をめくったりまた戻ったり、久々に辞書を持ち出してきて単語を引いたり、実に楽しみました。抱いて寝たい程でしたが、いたみますからね。枕元に置いて寝る事にしましたよ。

 先生、呆れないで頂けると有難ありがたいなあ。それに、怪異はここからなのです。よろしいですか。その夜更けです。


 そのまま幸福な眠りに就いた僕は、しばらくしたところでふと目が覚めました。昼の陽気が嘘の様に、ヒンヤリと湿った空気が漂っておりました。初めは寒気で起きたのかな、と思ったのですが、何だか違う。そう。その時、小さく、でもはっきりと、しくしく女の泣く声が聞こえたのです。


 僕はギョッとして起き上がりました。月明かりが白々と障子越しに差し込んでいて、薄暗い闇の中、僕の布団脇に確かに若草色の着物姿の、随分ずいぶん色の白い女が涙を流して居たのです。


 ああ言う時は、なかなか声が出ない物なのですね。僕は誰何すいかする気も起きず、ただ冷や汗が流れるのだけを感じておりました。そうこうしているうちに、女は涙声で口を開いたのです。


貴方あなた様にお願いしたき儀が御座います」


 こう、丁寧で時代がかった口調でした。泣いてはいたけれど、少し幼顔の綺麗な人で、こんな時でなければ見惚れていたでしょうね。


「押し潰されて苦しゅう御座います。どうか、どうか後生と思って私を助けて下さいませ」

「どういう事でしょうか」


 僕は声を震わせながらそう言いました。ぐに危害を加えてくる様な物では無さそうだと思ったのですが、それでもかなり肝が冷えました。


「僕は貴女あなたとどの様な縁があるのでしょうか。申し訳ないけれど、身に覚えがありません」

「ええ、ええ。貴方様にじか無体むたいをされた訳では御座いません。ただ——」

「ただ?」


 女は伏せていた目をスッと上げ、僕の顔を真っ直ぐに見上げました。そうして、底冷えのする様な視線と声で、こう言ったのです。


「私の死骸を、貴方様はお手元にお持ちのはずで御座いますから」


 僕は何も答えられず、そのまま凍りついてしまいそうでした。

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