てがみさんけい・名残の文
次の話は、僕がある婦人から受け取った書簡についての
不肖、僕こと大久保純、これでも文士であるものだから、時折物の弾みで読者からの便りという物を受け取る事もある。
別名で少女向けの作品など書いていた時は可愛らしい
とは言え、どれも大変に有難い言葉の数々、喜んで拝読し、大事に保管してある。怖い物は少し奥の方に仕舞って、
長さもそれ程長大と言う訳では無いし、書き方に直ぐに見て取れる特徴があった訳でも無い。敢えて言うなれば、非常に丁寧で一途で、
差出人は女性の名で、柔らかな筆跡の所書は遠く山陰の住所であった。僕はその何処にあるのか
内容はと言えば、
拝啓 大久保純先生
盛夏の候、先生にはますますご活躍のこととお慶び申し上げます。
私、常々先生の御作を拝読し、大変愉しませて頂いております。こうして筆を取るのも初めてで、拙い一筆ではありますが、是非先生への感謝をお伝えしたくお手紙をお送りする事に致しました。
とは言え、何から書けば宜しいのでしょう。筆は迷うばかりです。近作の感想など全て記したいところですが、それではあまりに長くなってしまいますので、手短に。
先生。私は先生の作品に通底する、何とも言えないかなしさをとても好いております。主人公の方が何か泣いたり、言いたい事が言えなかったり、言って後悔したり、そう言った場面の数々、まるで自分の事の様にしみじみと感じられます。そうして、自分が叫べない事を代わりに叫んで貰っている様な、そう言った気分になるのです。
先生がどこまでその様な劇的効果(と申し上げるのでしょうか)について意識されているのか、私は存じません。しかし、私はその様に受け止め、そうしていつも最後には、ほんの少しだけ心が温かくなるのを感じるのです。
私は、大した教育もない、唯の主婦で御座います。小説も趣味と言う程読んでいる訳では御座いません。しかし、先生のお話は大変好きです。寝室に置いて頁をめくり、何度も読み返しております。私の心の芯から、私は先生の御本を愛しているのです(この言い方は、『水蜜桃』の文をお借りしました。こうして使うと少々
以上、私の初めての熱を込めた
では、暑さ厳しき折では御座いますが、ご健勝をお祈り致しております。
敬具。何某
そんな事もあり、ここ
さて、これに僕は感謝の意を込め、返事を書こうと試みた。
試みたは良いが、元から筆不精の僕の事だ。
部屋の
それで、一度もう返事を
色気が無かったとは言わない。遠い街のきっと会う事も無い婦人と、あわよくば文通等、というのは僕の中のロマンチシズムに良く合っていたからだ。それでも、八割は感謝を伝えたかった、それだけである。
そうして、或る日返事は返って来た。以前とは似ても似つかぬ、角張った筆跡、名字ばかりは彼女と同じ、男の名前で。僕は不審に思い、急ぎ封を開けた。
簡潔に言おう。その書簡は告げていた。貴方に手紙を出したのは、確かに自分の妻の様だ。しかし、妻はもう
あの手紙が投函されたと思しき時期には、もうその婦人は既に息を引き取っていたのだ。背筋に薄ら寒い物が走った。
しかし、手紙はこうも告げていた。どうも、妻が死んだ後、あちこちで貴方と同じ様な事が起こった。死んだ
僕は
僕はあの手紙以外にその婦人の人格を知らない。だが、最後にあの様な文を寄越す位だ。律儀で、まめで、心遣いのやさしい
生前そう大事には出来ませんでしたが、良い妻であったと思っております。先生にもご迷惑をお掛けしましたが、納得して頂けませんでしょうか。
夫という人間が書いた文字も、こう見ると実に実直な、良い筆跡である。僕はこの二通の手紙を揃いできちんと保管する事に決めた。
追伸。恐らく妻の手紙は誤字が酷かったのではないかと推察します。生前から、どうも細かいところでうっかりの絶えぬ女でしたよ。
文句すらも、どこか微笑ましかった。
夫氏には、その後短い返事を送っておいた。年始には年賀状でも出してみようかと、そんな事を少しばかり楽しみにしている。
東京と山陰も、あの世とこの世の距離ほどは遠くはあるまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます