花はよく、女性に例えられます。可憐で美しい、華やかな姿は確かに女性っぽい。
でも、生物学で考えると、着飾るのは圧倒的に雄の方なんですよね。アピールして雌を惹きつける。惹きつけないと子孫が残せない。で、子孫を残す行為をやるだけやって何をしているかと言うと、他の雌を探しに行くことが多いです。生物界の雄は基本やり逃げなんですね。
ところが、人間は違います。
人間は「無力で生まれてきた赤子を、男女協力して育てる」道を選んだ。この過程においては女性が着飾ります。「いつまでも魅力的でいることで男性を惹きつけ、育児に協力させたいから」。やり逃げは許しません。女性が花に例えられやすいのには、そんな生物学的背景もきっとある。
しかしですね、本作はかなり原始的なポイントにさかのぼります。つまり、「男性を花に例える」。
儚い物語です。桜が散るところを見ているような切なさがある。しかしその切なさは、女性が纏うとそれも一種の「美しさ」になりますが……おっと、この辺にしておきましょうかね。
生物的にも、人の世的にも、散りゆく花は美しい。でも散った後の花は……。
そんな話。ある花が咲き誇ってから散るまでの話。
読んでみてはいかがでしょう。
記憶は時を経て、美化されていく。
桜は毎年、同じように咲き、同じように散る。
記憶の中の桜と、現実の桜の差は広がり続ける。
毎年、現実の桜は劣化していく。
彼女の中にある「あの頃」の彼は、本当に憧れるほどの輝きを放っていたのか。
彼女の目の前にいる「現実」の彼は、実は「あの頃」とさして変わってはいなのではないだろうか。
彼は劣化していく。
彼女の目にはそう映る。
それでも愛おしい。
愛おしいのは、記憶の中の彼ではなく、目の前にいる彼。
彼女が孤高であったという彼は、記憶の中でさえ決して孤高ではない。
彼女に依存することで、そう振舞えていたに過ぎない。
この二人の相性は最高で最悪なのだろう。
彼女はそのことに少し気付いている。
記憶の中にある都合の悪いことに目を瞑るように、気付かない振りをして、彼の口付けを受け入れるのだ。
この作品を読むのは三度目になります。
三度読んで毎回とも感じる感想は「突き刺さる」でした。
私は最初何故そう感じるのか判りませんでした。(バカだから)
何故そう感じるのか整理できレビュー書けるようになるまで三度読み直しが必要でした。
成長するにつれてテツへの主人公女性の見方が冷めてくると言うか、実像を把握しつつあるのが感じられる。
自信ある青春時代を誰もが送ったわけではない。
でも、多少は自負している部分を誰もが持っていただろう。
私もその一人。
でもそんなささやかな自負も、いろんな場所で大勢と出会うにつれて失われていく。ああ、自分が自負していたものはたいしたことないんだって。
多くの人はそんな自分を受け入れていき、過去の自分の思い込みを若気の至りと恥ずかしく感じたり、なかったことにして生きている。
自負をもっていたことも、それを失って現状を受け入れて生きていくことも、何も恥ずかしくないんだって肯定して生きている。
だって周囲も自分と同じだって判るから。私もそうでした。
それができず、でも自分の不甲斐なさや弱さを自覚しているテツは主人公に依存して、自分を保っている。
そんなテツの様子を、痛いなと思う自分も居ると同時に、もう一人の自分だったかもしれないと感じて、テツの姿が突き刺さる。
主人公は昔のテツと現在のテツの双方を知りながら、テツを受け入れていく。
そんな主人公の姿がとてもありがたいやら、辛いやらで、自分をテツに重ねると「う゛ぁぁぁぁぁ」と叫びたくなりました。
高校生の頃、桜の下で出会った、透明感あふれる恋。「若い恋」は、流れゆく時間と共に、「大人の恋」へと変質してゆく。主人公にとって、それは幸せへと向かう過程なのか、はたまた……。
あまりにも衝撃的かつリアリティのあるストーリーに、すっかり度肝を抜かれました。変化するシチュエーションに合わせるかのように各話ごとの文体がわずかに違っている点も、私と「テツ」の二人がじわりと変わっていく雰囲気をさりげなく表現していて、その筆致に圧倒されます。
ラストシーンのその後の展開を幾通りも想像し、希望と絶望の二つの感情にいつまでも揺り動かされてしまいました。