番外3 春鶯(しゅんおう)

 春休みといえども、なんだかんだと学校には毎日来ている気がする。ゼミもサークルも年度の変わり目は何かしら忙しい。ここしばらくいろいろなことを疎かにしていたからなおさらだ。こまごまとした用事をすべて片付け終えると昼を過ぎていた。

 校舎の外に出て、環は風の冷たさに身震いした。三月も半ばになるが北国の春は遅く、キャンパスの桜の蕾はできたてでまだまだ固い。

 年明けに顎の下あたりで切り揃えた髪は、未だに雪がちらつくこの季節には少し寒かった。元の長さにまで戻るにはきっと何年もかかるだろう。手入れをさぼるんじゃなかったと後悔する自分と、無茶なことをと自嘲する自分がいる。

 ――秋のことは思い出したくない。まだ心の底に沈めておきたい。

 環は小さなため息とともに、マフラーを口元まで引っ張り上げ、歩き出した。


 校門の辺りで誰かが手を振っていた。周囲を見回しても、そのターゲットは自分以外にはいないようだった。

 雪のように白いその姿に、環はよく知る山の神を思った。純白の毛皮に、純白の心を持つ鹿の化身の娘。

 彼女がこんなところにいるはずもないのに、と改めて人影を見つめる。それは白いダッフルコートを着た青年だった。少なくとも、ちょっと前に振られた隣の学部の男ではなさそうだ。

 ――まさか。

 よくよく見ると、青年と言うよりは少年という年頃。環と同じか少し背が高いくらいだが、背筋がぴんと伸びているので、身長以上の大きさに感じたのだ。

 近付くにつれて、幼さの残る顔がはっきりと見えてくる。見覚えのある、素直そうな瞳。弧を描いて穏やかに笑う唇からは、白い息が漏れる。

 誰よりも良く聞こえる耳を持つ中学生。環にとっては、異能の苦しみを分け合える唯一の存在――だった、人間。

「環さん!」

 それは記憶よりも少し低いものの、それでも聞き違えようのない声だった。

 環が彼を認めたと気付いたのだろう、少し早足になってこちらに向かってくる。環の前で立ち止まると、軽く頭を下げた。

「ご無沙汰していました」

 彼とはもう二度と会うことはないだろうと、環は勝手に思っていた。なのに彼はわざわざ大学までやって来た。

 ――あたしに会いに?

 なぜ、と考えれば理由は明白だった。

 ばれたのだ。自分が千里眼の力を失ったことが――狼の化身に、食われてしまったことが。恐らく、鹿の少女は隠し通すことができなかったのだろう。彼女の性質を思えばそれも当然ではあった。

「少し、お話したいことがあって。今、ちょっといいですか?」

 聖の懐かしい笑顔が、環の冷え切った心に染み入る。

 つい涙が出そうになるのを、環は何とかこらえた。できるなら格好悪いところは聞かれたくないと、慌てて彼の耳を指さした。

「……しばらくの間、聞き耳禁止でね」

 聖は困ったように笑い、小さく頷いた。



 中学生の聖をキャンパス内、つまりは学食に導くのにはさすがに抵抗があったので、大学のすぐそばの喫茶店に腰を落ち着けることにした。

 注文した品が来る間に、聖が町に下りてきているわけを教えてくれた。

「受験でこっちに来てたんです。合格発表があって。向こうの片付けもあるし、すぐにまた戻らないといけないんですけど」

 なるほど、言われてみれば確かに高校受験のシーズンではあった。進路を尋ねると、聖は臆すことなく県下ナンバーワンの難関校を挙げた。

「ふーん。あそこに受かるってことは、そうとう頭いいんだ」

「いえ、そんなこと――友達も受けたので、一緒に勉強できたのが良かったみたいです」

「でも、意外だわ。山神さまを残していっていいの?」

「はい。澪さまは『行ってこい』と」

「てっきり、聖くんはあの村に残るんだと思ってた」

「僕はまだ人の中でちゃんと暮らしたことがないので、経験するべきなんじゃないかとずっと考えていたんです。これまでが逃げてばかりだったので。……高校はいい機会だと。スタートは遅いですがちょっと頑張ろうと思って、村の外に決めました」

「……しっかりしてるのね」

 聖は首を緩く横に振りつつ、照れ笑いした。

 彼は『力』に溺れることなく、そして振り回されることもなく、自分の道を見ているのだ。

 それに比べて自分は、と環は自嘲をこめて薄く笑った。もう『力』などないのに、無くした力に振り回されて数ヶ月も無駄にした。

 店員がやってきて、環の前には紅茶とケーキのセット、聖には日本茶と汁粉のセットを置いていった。渋い趣味ね、と環が正直に言うと、聖ははにかんだ。

「澪さまが餡子が好きなので、最近は僕もつられてしまって」

「はいはい、ご馳走様です」

 環の反応に、聖は照れもせず「すみません」と答える。

 この様子なら、きっと澪も息災でいるのだろう。あの狼――高嶺とやらの牙は、この二人には届いていないようで、環はほっと胸をなで下ろした。もちろん、聖の第二の耳には聞こえない程度に抑えて。

 互いに飲み物に口を付けたところで、環は聖の笑顔がぷつりと途切れたのに気付いた。改めて見ると、あどけなさは残っているとはいえ、前に会ったときよりも男らしい顔つきになっていると分かる。そういえば、声も前より若干低くなっていて最初は驚いた。まだまだ伸びしろがある時期なのだ。

 やがて、湯呑みを置いた聖は静かに語り始めた。

「こっちに来る機会があったら、とにかく環さんに会いたいと思っていたんです。冬に話を聞いてから、ずっと環さんのことが気にかかっていて。こんなに遅い時期になってしまったのが悔しい」

 やはり、澪から何か聞いたのだ。

 聖には悪いが、秋から冬の荒れていた時期に――正しくは、何もせずただ過ごしていた時期に会わなくて良かったと環は思った。

 生活するのに最低限のことだけをしていた毎日だった。講義に出ることもなく、うっかりすると食事すら忘れるような日々。正気に戻ったときには、相愛だったはずの彼氏に見限られていた。気に入っていた緩い巻き髪も見るに耐えない状態になっていたので、思い切ってばっさりと切った。

 『見えない』ことには未だに違和感がある。それでも年明けからは、単位を取るために病み上がりのような重い身体をどうにか動かしてきたのだ。

 沈痛な面持ちのまま、聖は続ける。

「大学は分かってたんですけど、学部とかは知らなかったので張り込んでいたんです。……会えて、ほんとに良かった」

 聖はそこで言葉を切ると、隣の椅子に置いたメッセンジャーバッグから何かを取り出した。えんじ色の眼鏡ケースを、優しく環に手渡してくれる。

「どうぞ」

「あたしに?」

 開けてみると、あの日――環が力を無くした日に落としたはずの、赤い伊達眼鏡が入っていた。

「これ、あたしの――どうして?」

「あの日、偶然見つけたんです。環さんのだと思って拾ったんですが、道路の真ん中に落ちてる――その意味には、僕は気づかなかった。僕がもう少し――」

「そんなの、もういいわ。あなたが気に病む必要は一切無い。……拾ってくれてありがとう。懐かしい」

 力を抑えるために身に付けていた眼鏡だから、もう人並みにしか見えない今の自分には必要のないものだ。それでも、わざわざ届けてくれた聖の心遣いが嬉しかった。

 眼鏡をケースに戻しつつ、環は何気なく尋ねた。

「……山神さまから聞いたの? あたしが高嶺にヤられたってこと」

「……ええ、まあ、そんな感じです」

「もしかして、山神さまの心を『聞き耳』で聞いた、とか?」

 突然、聖は湯呑みのお茶を一気に呷った。それを、大きな音とともにテーブルに置く。わずかに残っていたらしいお茶が湯呑みから飛び出したが、聖は気に掛ける様子もなかった。店員と隣のテーブルの客が音に驚いてこちらを見ている。

 『力』のことを口にしたから怒らせてしまったのでは、と環は焦ったが、それは杞憂だった。

 聖は怒ってはいなかった。ただ、真剣な目で環の顔を真っ正面から見つめている。何か大切なことを告白しようとしているのだ、とすぐに知れた。

「環さんのことを最初に知ったのは、高嶺さまからでした」

「高嶺? どうしてあいつから。あいつに、会ったの?」

「……僕も、もう無いんです」

「何? 何が?」


「『聞き耳』が。冬に、無くしました」


 数瞬、環は息をするのを忘れた。

「……ウソでしょう?」

「いいえ」

 嘘であってほしいという環の願いは、しかし聖の否定で打ち砕かれた。環はそこで初めて、聖の耳にいつもの装備――集音器風の耳栓がないことを知った。

 ――本当、なのだ。

 まさか自分と同じ、あの狼の仕業では――。

 知らず、身震いした。そんな恐ろしいことなどあっていいのだろうか、と。

 高嶺に襲われたあの日までの自分がそうであったように、聖にも『力』を失う前兆などなかったはずだ。最後に会ったときにも特に異変はなく、いつも通りの聖だったと覚えている。では、環の知らないその後に、何かが起きたのだろうか。

 浅く数度呼吸して、環はようやく尋ねることができた。

「もしかして、聖くん――も、高嶺に?」

「高嶺さまに食われたのは澪さまで。僕の力は、澪さまに捧げました」

 澪が、高嶺に。そして、聖が、澪に。

 どういうこと、という環の呟きに、聖は順を追って答えてくれた。

 澪が前々から高嶺に狙われており、初冬のある日についに襲われてしまったこと。消滅しかけた澪に、聖が自らの『力』をすべて与えたこと。現在は、高嶺の興味は澪に向いていないようであること。

 聖の要領いい説明で、何が起きたかは理解した。事実が頭に入っただけで、まだ澪や聖の心の傷を想像するまでは遠い。しかし、環自身も同じような目に遭ったことを思うと、胸が締め上げられるように痛む。

「澪さまが、今の状態なら自分一人でしばらくはやっていけるとおっしゃるので。お言葉に甘えて、一旦街に戻ることにしたんです」

「それで、こっちを受験したわけね」

「はい。三年間、修行だと思ってます。普通の人間になるための」

「もう、充分普通に見えるわ。……山神さまはどうしてるの?」

「かえって、環さんが知っている頃よりも元気になっているかもしれませんね。取り込んだ僕の力が、体にしっくりくるとかで」

 記憶の中の澪は、小生意気な顔で環を見据えている。

 澪と聖の絆を考えると二人の力の相性が悪いはずはないが、果たしてそういうものなのだろうか。ともあれ、澪に変わりはないと聞いてほっとした。前は澪のことを理不尽に恨んでいたはずのに、と自分がおかしくなる。

「急にただの人間になって、辛くない?」

 環の問いに、聖は首を傾げる。

 あたしは辛かった、今も辛い、と言いそうになったが、自分が出しゃばる場面ではないと喉の奥にとどめた。

 そして、こうして胸の中で考えたことももう聖には伝わらないのだ――そう思い、環は言いようのない切なさを覚えた。

「……僕はもともとあまり力を使わずにいましたから、とても辛い――というわけではなかったです。でも、聞こえるものが少ないと耳が寂しいと思うときもあります。あれだけ忌んでいた力のはずなのに」

 おかしいですよね、と聖はまた首を捻った。しかし、昔より少し大人びた顔には悩みの表情ではなく、笑みが浮かんでいる。

 環はここ三ヶ月ほどずっと、やりきれない感情の落としどころに迷っていた。

 千里眼のことを忘れられたら幸せだったかもしれない。しかし、『目』への依存から抜け出したばかりの環には、それまで心の拠り所だったものを無かったことにするなど到底できなかった。

 『力』が抜け落ちた後の自分が、ただの抜け殻のように思われてならない。それが今高嶺の中にあると考えると、虚ろな感じがなおさら増してゆくのだ。見ようとしても目の前のものしか見えない目――人の過去を映さなくなった目で見るたび、心に去来するものが何なのか、自分ではいくら考えても分からなかった。

 しかし聖と話していて、その尻尾の先くらいには触れることができたかもしれない。

「あたしも――寂しかったの、かな」

 今まで見えていたものから突然切り離され、自分だけがひとり、別の世界に放り出されたような気がしていた。環にとって普通の目で見る景色はすべてが新しく、馴染みがたいものだった。

「たぶん戻りたかったのね。『見えた頃』に」

「生まれてからずっと一緒にあったものと別れたんですから、寂しいのも、戻りたいと思うのも、当たり前じゃないですか? 無くしたものがあまりに近いとピンとこないものなんだな――って、僕は思いました。……でも、力がなくなっても僕は僕ですからね。環さんの受け売りですけれど」

「そんなこと言った、あたし?」

「この前、朝方にうちに来たときに」

 ――あたしはあたし。あたしは、そんなに強かったっけ?

 思い出してみれば、眼鏡をかけて生きようと決めて聖に会いに行った日、つまりは高嶺に食われた日に彼とそんな会話をした。

 力のあるなしを除けば、今の生活は結果的にあのとき決意したもの――『千里眼』を封じて普通の暮らしをする――と何ら変わらないとも言える。

 聖が澪に寄せる思いのように、自らの心を支える杖を環は持たない。でも、後ろばかり向くのにも飽きていい頃だと、方向を変えようとする気持ちはある。何でもいい、あと一押しが欲しかった。誰かが背中を押してくれれば、たたらを踏むようにしてでも歩き出せる、そう願っていた。

 ちょうどそんな時、聖が現れた。この巡り合わせは定めごとかもしれない。

 環は、テーブルの隅に置いていたえんじ色のケースを開けた。鮮やかに光る赤いフレームに惹かれて買った眼鏡だ。ケースの方は、それに合わせて聖が用意してくれたのだろう。

 眼鏡を手に取り、弦を左右に開いて目の前にかざした。

「どうか、しましたか?」

 レンズの向こうに聖の顔が見える。眼鏡を外しても掛けても変わらずに、聖は優しく微笑んでいた。

 ――だったら、あたしが変わっていなければ、きっと他のものも今まで通りに見えるんじゃない?

 環は、眼鏡をそっと顔に乗せた。フレームの固い感触は久しぶりだったが、そんなブランクなど忘れてしまうほどに、それはすぐに環の顔に馴染む。

 レンズを通して聖を見ながら、環は薄ら寒かった心が温んでいるのを感じた。

 まるで春告げ鳥のようにぬくもりを運んでくる少年。優しい緑色の空気を纏う少年。そしていつかは山の神のもとへと帰る少年。

 そう。確かに聖はこうして心を暖めてくれるけれど、いつまでもここにいてくれるわけではない。

 ――あたしはあたし自身で立ち直らないといけないんだ。

 聖は聞き耳を無くしてさえも、環の声なき声を聞きつけて来てくれた。それならば、自分もこの目で未来を見つけ出すことができるはずだ。

 決意とともに、環はゆっくりと、自分を諭すかのように口に出してみる。

「これがあれば、あの日からやり直せるかもしれない」

 聖は何か言いたげに目を見開いたが、すぐに晴れやかな顔で頷いた。

「ええ。……それに、やっぱり眼鏡があると落ち着きます。髪とも合ってて、文学少女みたいで」

「……いいわよ、持ち上げなくても」

「いいえ! 本気でよく似合ってます。髪型も、前の長いのも素敵でしたけど、新しい感じで」

 文学少女とは聖らしい褒め言葉だ。どうにもくすぐったくなり、環は紅茶を飲んでごまかす。

 どうやら、社交辞令のお世辞ではなく本音であったらしい。それはそれで嬉しくはあるのだが、聖は大事なことを忘れている。彼は彼女がいる身なのだ。

「聖くんがそういうこと言う相手はあたしじゃないでしょう」

「え?」

「それとも、あたしと付き合ってくれる? あたしは大歓迎だけど」

「あ! ……あの、いえ、僕は――僕には、澪さまがいるので」

「分かってるわ、そんなこと。冷やかしたかっただけよ」

 聖はとたんに顔を赤くする。さっき、澪の影響で餡が好きだと言ったときには恥ずかしがる様子など微塵もなかったのだが、今度は初々しいことこの上ない。どうやら、自分から澪のことを口にするのには慣れていないようだ。

 澪に聖。二人が揃っていれば大丈夫だろう。環が気を使い、助けてやるようなことなど、彼らには何もない。

 ――あたしもそうなりたい。聖くんにも山神さまにも心配されない道を見つけてみせる。

 聖がお茶の最後の一口を飲み終えるのを見届けて、環は彼に告げた。

「眼鏡、掛けて帰るわ。次の春こそ桜を見に行くって、澪さまに伝えておいて」

「花の季節なんか、すぐですよ」

「蕾が綻ぶまでには、行けると思うわ」

 絶対に伝えます、と聖は嬉しそうに応じる。

 その聖の後ろに、山桜が咲き誇る中、自分に手を振ってくれている澪と聖の姿が見えたような気がして、環は息をのむ。改めて見たそこにはもちろん何もなかったが、瞳の奥に浮かぶとびきり美しい景色は消えなかった。

 山の春に思いを馳せ、環は眼鏡をかけ直した。

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