番外7 翠嵐(すいらん)(前編)

 さら、さら、と、草を揺らす音。

 ――足音、か。

 澪の身体は途端に強ばった。荒れたこの山に入ってくる者は多くない。しかし、いましがた捉えたのは、少なくとも、よく知る人間の足音ではなかった。

 草むらの向こうへ目を向けてはみたものの、何も見えない。足音らしきものも、ぱたりと途絶えてしまった。

 澪はできるだけ自らの気配を消し、件の方向にそっと歩き出した。萌える青草からは鼻をくすぐる香りが漂う。昨年の今頃はもう二度と迎えることができないだろうと思っていた春の、やわらかい風だ。

 そう、澪は一度消滅しかけた山の神だ。足繁く通ってくれる人間のおかげで幾分持ち直したとはいえ、力のない神の治める荒れた山に誰が好きこのんで訪れるというのだろうか。

 何かに踏まれて折れた青臭さがより濃い方へと歩を進めていくと、やがてその出所へと行き着いた。獣の匂いがかすかに混じるものの血なまぐささはなく、嫌な感じではない。

 草陰を覗き込んだ澪は、思わず息を吐いた。

「こやつは――」



 夕方、いつものようにやって来た聖は澪の姿を認めると小走りで近づいてきた。澪の腕の中のモノを認め、なぜかあわあわと声を震わせて尋ねる。

「み、澪さまの、こ――お子さん――」

「たわけ! そんなはずがあるか!」

「そうですよね! すみません!」

 聖は、謝った勢いで三歩ほど後ずさった。そして僅かに顔をしかめると、自らの両耳を押さえた。額には冷や汗が浮かんでいる。

 ――しまった。

 澪は自分の失態に気付き、慌てて口を噤んだ。

 ごく普通の人間にしか見えない聖だが、『聞こえすぎる耳』を持っている。人ならざるものの声や他人の心までも捉えてしまうその耳は、昔話になぞらえてあやかしたちの間では『聞き耳』と呼ばれている。

 聖は普段は耳に蓋をしてその力を封じているものの、それでも完全に制御しきれてはいないらしく、たまに今のような苦しげな表情を浮かべることがあるのだ。それは、単に大きな声が五月蠅いからというだけではなく、『力』にまつわる聖の過去の辛い記憶が呼び覚まされているからなのだと、澪はうすうす気付いていた――直接彼自身に尋ねたことはないが。

 聖の顔色が戻るのを待って、澪はいささか小声で詫びた。

「すまぬ」

「僕はもう大丈夫です、お気になさらず」

「しかしな。……言うに事欠いて、子どもとはなにごとじゃ」

「それは、本当にすみませんでした。澪さまが誰かと一緒にいることって珍しいので、ちょっとびっくりして。それで、そんなに可愛いお客さん、いったいどうしたんですか?」

 聖はにっこり微笑むと、改めて澪の腕の中を覗き込んだ。澪もつられて『それ』を見る。

 寝息を立てている『それ』は澪の腕にちょうど納まる程度の大きさ、やや灰色がかった白のみっしりとした毛並みは少々硬め。それだけならばただの獣――テンやイタチの類だと思うだろう。しかし、その身体の大きさに見合わぬしっかりとした前足には――。

「この子は、ただの生き物ではなさそうですね。ずいぶん立派な爪ですし」

 聖が感心したように深く頷いた。

 足の長さに匹敵するほどの大きな爪は、抜き身の刀のようなぎらりとした光を放っている。切れ味は見た目だけで容易に想像が付いた。

「こりゃあ、鎌鼬じゃ」

「カマイタチ?」

「うむ。風に乗って現れ、人やものを切り裂いて去っていく獣」

「切り裂いて――って、そんなに危ない子なんですか? こんなに無防備なのに」

 言葉とは裏腹に、聖はやはり笑いながら鎌鼬を見つめていた。緊張感がないのか、あるいは直感的に安全だと判断したのか、恐らくはその両方なのだろうが――と、澪もついつられて笑う。

「立派な爪は持っておるが、よほど気分を害さない限りは何もせんよ。昔はこの山にもいくらかは住んでおったもんじゃ。……しかし」

「どうかしたんですか?」

「鎌鼬は兄弟で暮らすもの。見たところ独り立ちできるような歳でもあるまいに、こやつの家族は――」

 と、不意に腕の中の鎌鼬がもぞもぞと動き出した。

「起きましたね」

 聖が嬉しそうに呟く。鎌鼬の子は二、三度瞬きをしてから眩しそうに首をもたげ、澪を見上げた。目が合う。

「どうした? まだ眠いか?」

 鎌鼬は首を傾げるような仕草をすると、再び身体の力を抜いた。問いかけには答えず、鎌鼬はとがった鼻先を澪の掌に擦りつけてきた。

「なんじゃ、くすぐったい」

「まだ子どもみたいに見えますし、甘えてるんですよ、きっと」

「甘え?」

「はい。こういうときの行動って、あやかしも人間も一緒なんですね」

「そうじゃったかのう」

 つい口から出た言葉に聖は少しだけ悲しそうな顔をしたが、澪は見ぬふりをした。仕方のないことだ。甘えなどというものはもう大分昔に忘れてしまって、澪にはやはり上手く思い出せなかった。

「にしても、この子はどこから来たんでしょう」

「どこか、ほかの山から迷い込んできたのかもしれぬな。お主の兄弟はどこじゃ? もしや、迷子か?」

 澪は、鎌鼬を自分の目の前に差し上げて尋ねてみるが、返事はない。

「口が利けぬのかのう」

「ちょっと待ってくださいね」

 聖が自らの耳を蓋していた詰め物をほんの数瞬だけ外し、すぐにもとに戻す。そして、お手上げ、といった様子で肩をすくめた。

「何を言いたいのか、僕にはさっぱり。言葉を覚えてないくらい子どもなのかもしれません。人間の赤ちゃんを『聞いた』ときみたいな感じです」

 聖の『耳』をもってしても分からないものが、澪に分かるわけもない。諦めた澪は鎌鼬を地面に立たせ、言い聞かせる。

「儂の縄張りじゃが、うろうろするぐらいは許す。はやく家族のところへ帰ってやれ」

 しかし、鎌鼬は不思議そうに澪を見上げ、立ち止まる。それどころか、再び澪の足元へと歩み寄り、すり寄ってきた。

「うん、どうした?」

「だから、甘えてるんですよ。……家族が見つかるまで、一緒にいてあげたらどうですか? ううん、まずは名前をつけてあげませんか」

「……何じゃと?」

 聖の提案に目を白黒させる澪をよそに、鎌鼬はひとつ大きな欠伸をした。

「いつまでも『鎌鼬の子』だと呼びにくいし、なんだか他人行儀じゃないですか」

 澪がいいとも悪いとも言わぬうちに、聖は腕を組んで何やら思案し始めた。

 『鎌鼬の子』にも本当の名はあるはずだが、確かに今のままではやりづらい。一方、澪の足元の本人――あやかしだから人と言っては語弊があるが――は知らん顔で爪を舐めている。名を尋ねたところで、きっと答えは返ってこないのだろう。

 深く考えている様子の聖を眺めていた澪は、やがてひとつの言葉を思いついた。

「こち」

「こ、ち?」

「東の風と書いてこちと読む。春風のことじゃ」

 そういえば、鎌鼬の子と出会ったときに吹いていた風の心地よさは格別だった。それでふと思い至ったのだ、と澪は一人で勝手に頷く。

「何だか、『ポチ』みたいですね」

「ぽち?」

「ペット――ああ、犬とか猫とかウサギとか、家で飼う動物では何でもペットっていうんですけど――それによく付ける名前です。人間でいうと、『太郎』みたいな」

 たった三文字にそれだけの内容が詰まっているとは、異国語もなかなか便利なものだ。面倒だろうに、聖はこうして説明してくれるのでありがたい。

 聖は納得顔の澪を見てから、今度は爪の手入れをしている鎌鼬の前にしゃがみ込んだ。

「君はどんな名前がいい?」

 聖が問いかけている。澪もその隣で、恐る恐る呼んでみた。

「……東風」

 鎌鼬の子は爪を舐めていた舌を仕舞って顔を上げ、澪を見た。続けて呼ぶと、今度は四つ足で立ち上がり、弾かれたように澪の元まで駆けてきた。

「お前は『東風』か?」

 鎌鼬――いや、東風は応えるかのごとく短く唸った。聖が澪と東風とを見比べて呟く。

「懐いてますね。澪さまが呼んでくれれば、どんな名前でも良かったんじゃないですか」

「まさか!」

 くすぐったくて、澪はつい大袈裟に否定したが、聖は「いいなあ」と羨ましげに笑った。



 次の朝、丸まって眠っていた澪は身震いして目を覚ました。いくら春といえども、明け方はまだまだ肌寒い。

 一度醒めてしまったものは仕方ないと諦めて渋々目を開くと、澪に寄り添うように東風が鎮座ましましている。なぜか懐かれてしまい、また聖も勧めるので一緒に過ごすことになったものの、澪はその距離を計りかねていた。

 ここ一年ほどは聖も山へ来てくれるが、それでも夜は里へ帰ってしまう。ただの獣でしかなかった頃を思い返してみても、白い毛皮のせいでヒトから狙われることの多かった澪はいつも一頭だけでいた。誰かと常に共にいるということは、澪にとっては物心付いてから初めてのことだったのだ。

 ――他人の温もりのある朝は、儂の記憶にはない。

 そんなことに気付き、澪は思わず東風に手を伸ばす。

「あたたかいな、お前は」

 白っぽい毛玉は相変わらずものを言わず、寝ているのか起きているのかも分からなかったが、じっとされるがままになっていた。



 それから数日。

 いつもと同様、聖は八つ時に現れた。今日は何やら手に袋を提げている。

「澪さま、こんにちは。……東風も、元気にしてた?」

 聖は、澪と、澪の胸に抱かれた東風とに微笑む。

「相変わらず仲が良さそうですね。なんだか、安心しました。ちゃんと打ち解けているみたいで」

「……う、うむ」

 聖がそう言うならそうなのだろう。特に否定する理由も見つからず、何よりくすぐったさをごまかそうと、澪は頷いた。

 一方、話を理解したのかしないのか、東風はふんふんと鼻をひくつかせている。

「これ、どうした?」

 東風は聖の持つ袋が気になるようで、澪の腕の中からもう一度鼻を鳴らした。

「ああ。……ずいぶん早く気付いたね。東風も澪さまに似て食いしん坊なんだ」

「なに?」

「……苺を持ってきたんですよ。みんなで食べましょう」

 聖は澪の追求を笑顔でかわすと、まるで宝物でも扱うかのように、苺の入った器をそっと取り出した。

 東風が赤く光る粒に小さく声を上げたが、澪にはやはり何と言っているのか分からなかった。ただ、とても嬉しそうだということだけは十分すぎるほどに伝わってきて、澪の心も弾むのだった。


 東風に苺をやりながら、聖は眉を寄せて尋ねた。

「東風の兄弟、見つかりましたか?」

「いいや」

 澪は緩く首を振った。

 無邪気に苺をかじる東風には寂しげな様子はないものの、いつまでもこのままでいいとは澪も思ってはいない。

 しかしここ数日、山の中を歩いて回ってみても手がかりは無かった。ならば山の外へ行けば――とも考えるのだが、あいにく今の澪にはそんな力もない。思わぬところで自らの小ささを知らされた澪だった。

「僕も、何かお役に立てればいいんですけど」

 それは隣に座る聖も同様なようで、膝を抱えてため息を吐いている。気にするなと言ったところで聖は気に病むのだろうから、澪は否定せず、ただ慰めることにした。

「ままならぬことは、誰にでもある」

「でも、僕に東風の声が分かれば」

「聖。……もう言うな。お主のせいではない。それに――東風自身が強く家族を求めてはおらぬのなら、もう少しこのままでもよいのではないか?」

 聖は大きな瞬きをしたのち、澪を見つめた。澪ですらつい怯んでしまいそうな強い瞳に、つい釘付けになる。

 固まってしまった澪に、彼は視線のわりに柔らかい口調で言った。

「言いたくてもうまく言葉にできないだけかもしれない。もしかしたら、心の底では兄弟の元に帰りたいと思っているかもしれません。でも、それは僕には聞こえない――いいえ、聞こえても『理解できない』んです。……僕は、そういう可能性を蔑ろにはできなくて。だって僕も」

 聖はやや間を置いて「家族と離れているから」と、鼻声で呟いた。そのまま自らの膝に顔を埋め、身じろぎもしない。

 澪は浅慮を悔いたが、すでに遅かった。

 ――聖が東風に自分を重ねていると、なぜ気づかなかったのだろう。彼が家族と離ればなれに暮らしていること、そして明るく優しい笑顔で振る舞っていても、心に傷を負ったからこそこの村にいるのだということに、なぜ思い至らなかったのだろう。

 少し浮かれていたのかもしれぬ、と澪は唇を噛んだ。

「すまぬ。儂は本当に浅はかじゃな。……探すぞ、聖。兄弟を」

 澪は東風の背を撫で、それから聖の背も撫でた。

 東風はそんな些細なことなど意にも介さず、相変わらず苺を頬張っている。聖はといえば「ひゃっ」と妙な声を上げてびくりと震えたが、やがていつもの調子で、はい、と笑ってみせた。

 聖の笑顔に安心はしたものの、事態は振り出しに戻っただけだ。澪は東風を抱き上げて、聞いてみる。

「とはいえ――東風、お主何か覚えておらぬか?」

 東風は応えるようにじたばたと動いたが、それだけだった。言葉は分かるようではあるのだが、喋れないのか。

「喋れないなら、どこから山へ入ったのか、儂等を案内できぬかの?」

 東風がなにごとかを唸り、澪の腕から地面へと降り立った。そのまま、林の奥の方へと歩いていく。

「ちゃんと通じてるみたいですね」

「後を付けてみるか」

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