第17話 片葉が淵(中編)

 ずいぶん長くそうしていたが、漂ってきた雨の匂いに嘉章はようやく顔を上げた。いつの間にか空には入道雲が立ちこめ、雨粒が地面を叩くバチバチという音がし始めていた。

「おめぇ、何で、ここに結んでる? みんな、あっちに結んでんぞ」

 誰もいないはずだった背後から地元訛りの太い声がして、嘉章はぎょっとして振り返った。未だ腰を落としている嘉章を、腕組みした男が見下ろしている。

「そこの看板に、淵に生えてる片葉の葦に願えって書いてあるんで。葦は見つからなかったけど、これ、淵の跡でしょう」

 嘉章がそう言うと、男は細い目をさらに細くする。

「そりゃまったく正しいなぁ。……ほんとに残念ながらな、片葉の葦はもう大分前に枯れちまったようだよ」

 色白な瓜実顔で、若いのか老けているのかよく分からない顔立ちをしている。背は高いが肩幅は広くない。そのひょろりとした印象が優男ぶりをさらに増幅させていた。

 夕立は勢いを増し、目の前の景色を霞ませるほどの降りになっていた。嘉章が雨を避けようと神社の軒下へと移動すると、なぜか男もついてきた。嘉章の後ろから、声が追ってくる。

「しっかし、こんな寂れたとこまで来て、長々と頭下げて。そんなに苦しい恋路かよ?」

 戸惑いながらも、「ええ、まあ」と答えをぼかす。

 しかし直後、男は嘉章の心臓が止まるかと思うほどの言葉を返してきた。

「聞くだけ野暮ってもんか。きついよなぁ、ヒトじゃねぇもんとの色恋は」

 息を呑んで、嘉章は隣の男の顔を見る。

 彼はやはりのんびりとした笑顔のままで、雨の落ちてくる空を眺めていた。相変わらず飄々としている横顔が、ほんの一瞬透けて、向こうの景色を見せる。かなでと同じだった。

 だとすると、彼も人ではない。しかも消えかけているということは、彼女同様死期が近いのか――。

 そう思い至っても、嘉章は驚きも怖さも全く感じなかった。男の緊張感のない表情がそう思わせるのか、それとも嘉章が知るあやかしが、かなでだけだからなのか。あるいは、そのどちらもなのかもしれない。この優男が人を傷つけたり、取って喰ったりするようには、どうしても見えないのだった。

 人外の者を前にしたとき、いったいどう応じるのが最善か、嘉章には分からない。聖なら、どうするだろう。いつもの穏やかな顔で、あの特殊な耳で化け物の言葉をじっと待つだろうか。

 聖ならきっとそうだろう。

 そう考え、嘉章は男の表情を注意深く窺いながら耳を澄ます。聖と違って特別な音は何一つ入っては来ないが、少なくとも目の前の青年が自分に敵意を持っていないようだと感じることができた。

 そのうちに、男は顎に手をやると、鼻をひくつかせてにやりと笑った。

「おめぇ、ほんとに少しだがなぁ、人じゃねぇモンの匂いがすんだ。相手は、そいつだろ?」

「……あんたは、いったい?」

「なんだと思うかい?」

「少なくとも、人ではないみたいですね」

「ウゲツってんだ。有るに月でな。……おれぁ、ここのヌシさ」

 有月がそう言って指差したのは、例の水たまりだった。

「すると、縁結びの神様?」

「おう。本性は蛇だよ。今見せられる証拠はねぇけど」

 嬉しげにも見える顔で、有月は頷く。蛇の化身と言われて、彼の細長いシルエットにもなんとなく納得がいった。この青年が男女の仲を取り持ってくれるとは見えないが、駄目で元々、という心構えで来たのだ。本当に神様がここにいるのなら嘉章の願うことは一つしかなかった。

 嘉章は立ち上がって有月に向き直り、深々と腰を折った。

「お願いします、有月さま。俺は、好きな人にもう一度会いたいんです。あなたの力で、助けていただけませんか。……どうか、お願いします。もしできるなら、彼女を呼び戻してください」

 頭を下げたままの嘉章に、有月は初めて陰りの色を含んだ声で尋ねる。

「もう一度――って、おめぇの相手は、今、どうしてんだ?」

「消えました。去年の、ちょうど今頃に。……今は、ここからすぐの山で、眠っていますよ」

「死んだ者を蘇らせようってのかい」

「ええ。いつかまた会えると願っていれば叶うと、信じてます」

「ふぅん。……そう思いこんで、『会えねえ』って思い知るのを先送りして、自分で自分を騙してんじゃねぇのか。消えちまったんだろう? 戻ってくるって保証はあるのかい?」

 鋭い指摘ながらも意地の悪い言い方ではなく、どこか悲しげな有月に、嘉章は苦笑いで答えた。いつかまた、と純粋に思っていられる間は、彼女が消えたことを忘れていられるし、心が麻痺したまま生きていける。はじめのうちは、嘉章自身もそう考えていた節があった。

 しかし時が過ぎ、自分は生きているのにかなではこの世にはいないということを実感してもなお、彼女を求める気持ちは強くなるばかりで、麻痺などしなかった。例え世間の誰もが『かなでは戻らない』と言ったところで、やはり嘉章は再会を信じ続けるだろう。

 有月にうまく伝わるかは分からなかったが、嘉章は正直に告げる。

「会えないっていう結論は、俺にはないんですよ」

「ふぅん。……おめぇは、例えどんな形でもその娘に会いてぇんだな」

「はい」

「おめぇの女は、呼び戻されて果たして喜ぶのかい? 迷惑がると考えはしねぇかい。それによ、長く一緒にいれば、当然いいところだけ見つめるってわけにゃあいかなくなるぞ」

「それは――」

 嘉章は、言葉を切って考え込む。きれいな思い出だけを胸に、かなでは逝ってしまった。彼女はそれで満足だったのだろうか。再び会えたその時、自分の隣でもっと長く生きてみたいと思ってはくれないだろうか。

 

「俺は、彼女の声を聞くことすらできなかった。喧嘩したことさえもない。それほど短い間しか、一緒にはいられなかったんです」

 有月に語る自分の声が熱を帯びていることに、嘉章は気付いていた。

 気を揉ませたくなくて、かなでのことは聖にさえ話していない。彼女のことを独り言以外で口に出したのはほぼ一年ぶりだった。うじうじと思い倦んでいた日々の澱が、有月との数分の会話でずいぶん除かれている。

 やや目を見開いて、有月はまた「ふぅん」と頷く。

「一途だね、おめぇも。おれぁ、馬鹿正直な奴は好きだぞ。……おや、もう雨が止むなぁ」

 有月は明るくなりつつある空を眩しそうに見上げた。低く厚かった雲は割れ、日の光が漏れ出始めている。木々や地面に打ち付ける雨の音は確かに、まばらになり始めていた。暑いのは得意じゃねぇのよ、と、有月は自分の腰の辺りの埃をはたき、立ち上がった。

「今日はこれまでだ、帰らせて貰うよ。……もしおめぇの考えが変わらないなら、次の夕立に、またここに来いな。こんな死に損ないでも、何か力になってやれるかもしれねえよ」

 そう言うと有月は、嘉章の返事も待たずに、軒下から出て淵の跡の方へすたすたと歩き出した。あまりにそれが唐突で、嘉章は慌てて疑問をぶつける。

「待って! どうして、俺なんかに声をかけたんですか!」

「おめぇからあやかしの匂いを嗅いだんでな、もしやと思ってさぁ」

 有月は振り向くと、顎を撫でながら寂しそうに微笑んだ。

「おれの想い人はヒトの娘だったんだ。おれがヒトじゃねぇと知っても心変わりもせず、将来を誓い合ってくれたよ。その途端に、流行病で逝った。……なぁ、なんか、似てんだろ?」

 笑みを崩さずにそう言い残して、有月は再び歩を進めた。やがて、先ほどの水たまりがあった辺りでその姿は地面に沈み込むように、まるで溶けるようにふっとかき消えた。どうやら、淵に帰ったらしかった。

 ちょうど雨は止んだところで、濡れた木の葉は緑も鮮やかにきらきらと光っている。葉先に滴る雫を眺めながら、嘉章は有月の言葉を思い返していた。『嘉章も一途だ』と彼は言ったが、言外には有月自身もそうだという含みがあったのだ。恐らく今もまだ、有月はその人間の娘を想っているのだろう。片翼を失ってから笑えるようになるまで、一体どれほどの時間を要したのか、嘉章には想像もつかなかった。

 神となり、嘉章のように心に同じ痛みを抱える人々を励ましているが、有月本人は運命の相手と再び会いたいとは考えないのだろうか。やはり、それは自分勝手な願いだからと、自身を律しているのだろうか。

「……次の夕立、か」

 また彼に会えるなら、今度は有月のことも聞いてみたいと、嘉章は思った。

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