第16話 片葉が淵(前編)

 ここのところ残暑が厳しかったが、日が落ちるのも少しずつ早くなっているようだ。いつの間にか外は薄暗くなり、いくらか過ごしやすい時間帯にさしかかっていた。

 嘉章は、無意識に息を殺し、耳を澄ましている自分を発見して、今日何度目か分からないため息を吐いた。もう、夕暮れ時になったって彼女の声など聞こえないのに。

 打ちひしがれていても腹は減る。細胞はいつもの通りに活動しているのだ。食い扶持を稼ぐためには働かなければならない。そのためには、今日中に目の前の書類の空欄を全て埋めてしまわなくては。

 涼しいうちに片付けようと、嘉章はパソコンの前で背筋を伸ばした。聖が玄関のドアを乱暴に開け放したのは、ちょうどその時だった。

「た、ただいま、ヨシ兄!」

「どうした、ひー。デートはどうだった? ……そんなに荒れて、彼女とケンカでもしたのか」

 聖らしくなく、靴も揃えずにどたどたと部屋に入ってくる。さっきまでの憂いを悟られないように、精一杯いつも通りの笑顔を作り、嘉章は聞き返した。

 この、一回り以上も年の離れた従兄弟はちょっと特殊で、他人の負の感情に人一倍、いや何十倍も敏感だ。彼に余計な気苦労をかけないように生活すると、気持ちをプラスに保ち続けることになり、結果的には前に歩いていける。それが、今の嘉章の救いにもなっていた。

 息を弾ませながら、聖は「デートなんかじゃないよ!」と首を振った。帰宅部のはずの聖の帰りが妙に遅いのには、大分前から気づいていた。てっきり友達か彼女かと遊んでいるものだと思いこんでいたが、違ったのだろうか。

 からかわれたのに腹が立ったのか、眉間に皺を寄せながら聖は続ける。

「そんなことより! ……あのさ。かなでさんのことなんだけど」

「彼女が、どうした」

 聖の言葉に、作り笑いなど一瞬で吹っ飛んでしまった。今の自分などこんなものだと嘉章は腹の底で自嘲する。取り繕ろおうとしても、かなでの名を聞くだけでこれだ。

「もう一度会いたいと思うよね?」

「当たり前だろ」

「僕、今『会いたいよね』って簡単に言ってるけど、『いつかは会える』なんて――そもそも起きるかすら分からないようなことを信じて待つって、きっとすごく辛いと思う。それでも、その気持ちをずっと持ち続けるってできる? かなでさんをいつまでも好きでいられる?」

 聖は重ね重ねの問いかけの間も目をそらさずに、嘉章をじっと見つめていた。偽りの答えは許さない、強い瞳だった。

 考えるまでもなく、嘉章の中に答えはイエスしかない。考えてみたところで、自分がどんなにかなでを愛しているのかを思い知らされるのみだ。彼女の何に、こんなにも惹かれるのかは未だに分からない。しかし、そんなことは再会できたときにじっくり悩めばいいのだ。

 今はただ、もう一度会いたかった。

「当然」

 すると、聖は硬かった表情をやっと崩し、大きく息を吐くとほっとしたように笑った。

「良かった。きっと、ヨシ兄ならそう言ってくれると思ってた」


 ――それが、去年の秋の始まりの頃だったか。


 去年は、この時期に君と出会って、別れたんだな。相変わらず俺は毎日よく眠って、腹減らして、稼いで、日々を暮らしてる。たったひと月――いや、たった五分だけの思い出を大事に大事にしまい込んだまま、聖の言う『起きるかすら分からないこと』を待ちながら。

 声にするのも空しいような気がして、嘉章は心の中でかなでへの言葉を呟く。


 もう、あれから一年近くが経ち、気付けばお盆になっていた。

 前の夏と同様にプール開放の監督の割り当てはあったが、さすがにこの時期はそれも休み。聖はあさってまで久しぶりに家族の元に戻っており、一人暮らしには広すぎる部屋には嘉章だけが残っていた。

 パソコンに向かい、仕事の書類のファイルを開きっぱなしのまま、嘉章は窓を見る。それは、かなでが迷い、入り込んできた窓だった。その外、アパートの裏の林は目の覚めるような濃い緑色に覆われて、あふれる命をこの部屋にまでも振りまこうとしている。

 あの林の奥深くには、かなで――正確には、かなでだった蝉のなきがらが眠っているのだ。それを思ってもなお、嘉章は外を眺めずにはいられなかった。森には何度となく足を運んで、彼女の名を呼んでみたり、誰もいない空に向かって話しかけたりしている。しかし、一年待ったが何も起きなかった。

 待っているだけでは、何もやってこないんだろうか。奇跡は、自ら起こすものなのだろうか。

 とはいえ、『向こうの世界』、つまり聖の耳が聞いているような化け物たちの住む世界のことを、嘉章は全く知らなかった。ただ待つだけでは駄目だというなら、これ以上何をすれば彼女に会えるのか、見当もつかない。

 考えに行き詰まって仕方なくディスプレイに視線を戻すと、デスクトップのとあるファイルがふと目に留まった。

 ファイル名は『ご近所探険地図』、勤め先の小学校で行った校外学習の際、生徒が使った地図を取り込んだものだった。学区内をグループごとに歩き回り、見つけた石碑や自然などを地図に書き留めて、地域の良いところを探そうという試みだった。何気なくファイルを開いてみると、『わき水』『大きいさくらの木』『古い石ひ』などなど、子供の字で思い思いの書き込みが入れられている。その中に『えんむすびの神さま』という項目を見つけ、そういえば子供たちに聞かれたな、と嘉章は唐突に思い出した。


『よっしー先生、えんむすびの神社ってどういう意味?』

『お祈りすると、好きな人と両思いになるってこと』

『先生はお祈りしないの?』

『先生はな、今、好きな人いないからいいんだよ』


 好きな人はいる。しかし、この世にはいない。そう正直に言うわけにもいかず、はぐらかしたときの胸の痛みまでもが蘇ってくる。

「縁結びねえ……。ダメもとで、願掛けしてみるかな」

 思い詰めていたって仕方がないのだ。自分は待っているなんてガラじゃない。ならば方法を探して、こちらから会いに行くのはどうだろう。一年も待ったのだから、いい加減攻めに回ってもいい頃じゃないのか。

 ちょうどお盆だし、かなでも帰って来やすいかもしれない。嘉章は地図を印刷すると、そんなことを考えながら外へと踏み出した。


 地図と『えんむすびの神さま』という書き込みを頼りに嘉章がたどり着いたのは、山すそに立つ小ぶりなお社だった。山の登り口に控えめに設けられた鳥居から、林の中へと獣道が続いている。

 道に沿って少し歩くと、小さな鳥居が何重にも並び立つ広場に出た。山の下にあったものは朱色のペンキで塗られていたが、こちらは昔の風情を残した味わいのある――はっきり言うと、ずいぶんと古ぼけた――色合いだ。

「……なんだ?」

 嘉章は顔をしかめ、思わず独りごちた。

 古びた鳥居たちの奥に、やはり古ぼけた社が見える。その、鳥居の向こう側がやけに赤いのだ。

 山水が出ているのか、地面はやけにぬかるんでいた。そういえば、山に入ったからか、湿った土のおかげか、それともこの神社の雰囲気がそうさせるのか、肌に感じる暑さは家を出たときよりも和らいでいた。

 あいにくサンダルで出てきてしまっていた嘉章は、泥に足を取られながら鳥居の群れをくぐって行く。近づいてみると、鮮やかな赤は、社殿やその周りの木々に結びつけられた小さな布の色であることが分かった。それも、一枚ではなく何千何万という数。おまじないか何かなのだろうが、人気のない神社に真っ赤な布がなびく様子は神秘的ともいえるし、恐ろしさも感じる。

 社の傍らにはさびの浮いた古い看板が設置されていた。赤茶色に変色し、ほとんど判読できなくなったそれを、嘉章は顔を寄せて読みにかかった。


「……境内の泉は、むかしは大きな淵でした。そこにわずか一本だけ生える片葉の葦に恋の願いを懸けると、不思議なことに想いが叶うと言われています」


 嘉章の浅い知識に照らし合わせてみれば、普通、葦は葉が色々な方向に出るはずだ。片葉ということは、それが片側にしか出ないのか。どういう突然変異かは知らないが、いかにも片恋に効きそうだ。

 賽銭箱の横には小さな木箱が置かれ、中には細長い赤い端切れとサインペンが入っていた。ご自由にどうぞとの張り紙もある。社の横に張り出す枝を見れば、布にはそれぞれ違った筆跡で願い事が記されていた。願いを書いて、木に結びつけるのだろう。なるほど、数え切れないほどの人間が願懸けした結果が、この無数の赤い布か。

 嘉章は、まるで木々や社が血を流しているかのような、そして叶わぬ思いが真っ赤に淀んでいるような眺めに、しばし圧倒されて立ちすくんでいた。この世には自分のような人間がこんなにもたくさんいるのだ。

 ――しかし、ちょっと待て。

 違和感に、嘉章は首を捻った。

 願いを懸けるべきは、『片葉の葦』のはずだ。それが、なぜ木や社殿に?

 そこで更に、嘉章は看板にある文章と目の前に広がる風景との齟齬に気付いた。

 片葉の葦なんて、いったいどこにあるというのだ。第一、淵、いや泉そのものがないじゃないか!

 はっとして振り返ったのは、先ほど通り抜けてきた、足が沈んだぬかるみのあたり。嘉章はそこまで引き返し、辺りを見回す。ちょろちょろと流れてくる水の流れをたどっていくと、鳥居群の脇の草むらに湧泉があった。広さも深さもちょうど大きめのフライパン程度のサイズ、ちっぽけな水たまりの横には、小さな看板が藪に埋もれていた。社の横にあるのと同様に赤錆色に変色した立て札には、『葦淵の跡』とある。

 あしぶち。とすると、ここが昔大きな淵だったところで、例の葦があるはずで――。

「ないな。どう見ても、ない」

 それでみんな、木に布を結んでいるのだ。

 この池の周りには、赤い布は一枚も無い。目をこらしても、水たまりには片葉の葦どころか普通の葦すら見えない。

 それどころかその水たまり自体も枯れゆくあるように、嘉章には見えた。湧き水で保たれていた淵だったのだろうか。今となっては足下を濡らす程度のこの流れも、かつては大きな池に注いでいたのだろうか。

「……ま、せっかくだしな」

 考えても仕方がない。嘉章は、失われてしまったものを取り戻す術は知らなかった。だからこそ、ここに来たのだ。

 迷った末、布には『君の声を聞かせて欲しい。伝えたいことがあるから、こっちに戻ってこい』と書いた。

 かなでの最期の声は本当に美しかったと、聖は涙混じりに言っていた。しかし、それは『聞き耳』の彼だけが捉えることができたもので、嘉章はついに彼女の声を聞けずじまいだった。そして、嘉章が最後に伝えたかった想いも、かなでには届けられていない。

 本来なら葦に願掛けしたいところだが、ないのならせめてこの池の周りの藪に布を結んで、帰ろう。

 願いたいことは数限りなくあるが、今はただどんな形でもいいから、もう一度彼女に会って声を聞きたかった。透けた身体で消えゆくかなでではなく、夏のプールで初めて出会ったときのように、はにかんで嘉章を見上げるかなでの姿を、もう一度。

 しゃがみ込んでしっかりと布を縛りつけ、嘉章は目を閉じて手を合わせた。

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