第15話 雨間(あまあい)の光(後編)

 澪の言うとおり、雨は朝には上がっていた。

 次の日の聖は、登校時からいつもの耳栓を着けてはいなかった。自分にあるのは特殊な耳だけだけれど、それを最大限に使えば、もしかしたら少しは錦の心を汲み取れるかもしれない――そう思ったのだ。

 とはいえ、人の多い場所で『聞き耳』を解放するのは久々で、教室に近づくにつれて耳への負担は増してきた。低空飛行の飛行機の真下にいるかのような耳鳴りと、それに伴って引き起こされる頭痛や軽い吐き気。朝、教室に入った時点で、聖はすでに磨り減りつつあった。

「聖、おはよ」

 何気ない誠太郎の声もとてつもない大音声だ。せめて自分の声だけでも響かないようにしようと、聖は小声で答えた。

「……はよ、セータ」

「どうした? 具合でも悪いか?」

「……ちょっとだけね」

 無理すんなよと聖の肩を叩き、誠太郎は自分の席へと戻る。

 何の気なしに彼の背を目で追う聖の視界の端に、錦がいた。相変わらず長い髪を背に滑らせている。彼女は可愛らしく微笑むと、聖にしか分からないように小さく手を振った。しかし、聖がその姿に感じたのは、ちょうど錦に呼び出された日のような薄ら寒い空気だけだった。


 一日じゅう神経を尖らせて耳を澄ましていたが、聖の修行が足りなかったのか、それとも錦の身には本当に何も起きていないのか、結局彼女の声はうまく聞けずじまいだった。

 一対一になれば、違ったものが聞こえるかもしれない。そう考えて錦に時間を取ってくれるよう頼むと、「この前の場所で待っててくれる?」と弾んだ声で返事があった。それを信じ、聖は先ほどから屋上へと続く扉の前にいる。

 扉の外から聞こえてくるのは、運動部のランニングのかけ声だった。今にも降り出しそうな天気の中、グラウンドでは部活動が行われている。聴力を封じていない聖には、走っている人数や、それがクラスの誰と誰なのかまで判別できた。他にも、教室に残っている生徒たちの会話や、職員室での教師どうしの愚痴のこぼし合いに至るまでが耳に届いてくる。

 我ながら、ものすごい力だと思う。例えば錦が何かに取り憑かれているとして、普通の人間にとっては彼女と異能力者の自分とのどちらが怖いのだろうか。自虐でも何でもなく、純粋な疑問だった。

 そんなことを考えたところで、足音――錦が近づいてきた。数日前に見たような光景だが、聖には何かが決定的に違うように思える。

「待った?」

 首を振った聖に、錦は媚びるように笑いかける。

「用って何? もしかして、考え直してくれたの?」

「僕の考えは変わってないよ。……錦さんこそ、どうしたの。やっぱり変じゃない? ここんとこ、何だか別の人みたい」

 記憶と食い違うパーツは、やはり錦本人だった。

 錦は、聖の遠回しな追求を笑いながら聞いている。錦に探りを入れる聖にとっては、反応がないのに等しかった。実際のところ、聖が懸命に得ようとしていたのは錦の『心の声』だったが、顔や仕草だけではなく、錦の中の声にも変化はない――何も聞こえない。さらに突っ込んでみるしかないだろうか。

「……まるで、中身が入れ替わったみたいで」

 踏み込んだ問いにも、錦の笑みは崩れなかった。

「僕のことは、諦めるんじゃなかったの」

「気が変わったの」

「どうして」

「……あんた、旨そうだから」

「なに?」

 本能的に身の危険を感じて、聖は一歩下がる。下がったところで、階段上の狭いスペースには限りがあり、すぐに背中が壁にぶつかった。後がない、聖がそう焦りを感じたところで聞き耳が小さな声を拾った。

『逃げて。……大音くんまで巻き込まないで』

 ――聞こえた。

「そこにいるの、錦さん」

『大音くん! 聞こえるの?』

 苦しそうな声が、聖の耳に突き刺さる。目の前の錦とは同じ声だが、こちらが間違いなく聖の知るクラスメイト、おとなしく控えめな錦早奈だ。

 これではっきりした。まさに澪の言うとおり、錦の中に別人が入り込んでいる。そして、本物の錦はまだこの体の中にいるのだ。

 一方で、中学生らしからぬ艶めいた微笑みを浮かべる『偽物』の瞳から、その表情とは裏腹に涙が溢れ出していた。涙が『本物』の錦のものだと、聖には一目で分かった。体をほぼ乗っ取られながらも、彼女は必死に自分の存在を知らせようとしていた。まだ、錦の意識は残っている。体の奥底で、助けを待っているのだ。

 一方の『偽物』は頬に伝う涙を拭うと、小馬鹿にしたかのように鼻で笑った。

「はッ、鬱陶しいねぇ。……でも、存外しぶとくて食べ甲斐があるじゃないのさ。そういうのは好きさ、獲物としてね」

「うるさい」

 聖は怒りを露わにして『偽物』を睨みつけた。いつの間にか追いつめられた体は壁から離れ、錦に詰め寄っていた。

「錦さんの姿をしたお前は、誰だ」

「好奇心は命取りだよ。まぁ、どうせあんたもあたしに喰われるんだ。そうさねえ――呼びたきゃあ手鞠(てまり)とでも呼びな。……こいつの味にも飽きたとこで、ちょうどよかったよ。こいつの記憶をたぐってあんたに目を付けてたら、都合良くそっちが呼び出してくれるとはさァ。でなけりゃぁ、こんなにベラベラ喋ると思うかい?」

 両手を腰に当てて顎を出し、錦は聖の剣幕など意にも介さない様子で言い放った。すでに化けの皮は剥がれ、本性がむき出しになっていた。言われなくても、ここまでさらけ出すのは聖を無事には返さないということなのだろうと分かる。

 錦のか弱い声が、『偽物』の声に混じった。

『ごめんね。私が、大音くんをまだ好きだったせいで、大音くんまで。……逃げて、早く――』

「悪いのは錦さんじゃないよ」

「何をブツブツと。うるさいねぇ」

 聖は慌てて口をつぐんだ。耐える聖に、彼女は自分の手柄を自慢するかのように、なおも語り続ける。

「この子は入りやすかったよ。あんたのせいで心に大きな綻びができたってのに、それを繕おうともせず、そりゃもう大事に大事に未練がましく取って置いてたからね。よほどあんたのことが気に入ってんだね。どこがいいのか知らないけどさァ」

『やめて!』

 『本物』のかすれた叫び声がする。聞いている聖だって身を切られるような思いでいるのに、他人に心を裸にされていく錦本人はどんなに辛いだろう。憎々しげな表情に似合わない、赤く泣き腫らした目。この体の奥深くで、たった一人で泣き続けている錦の姿が、聖には見えるような気がした。

「もうやめろ。……好きな人のことを考えるのが、そんなにいけないことか」

「おや、いけないとは一言も言ってないよ? 叶わないことに希望を持ち続けるのは、相当な力がいるだろう。それがあたしの好物だからね。そんな無駄なことだって、考えたいならいくらでも考えりゃぁいいじゃないの。食い物が増えて得するのはあたしだけだけどさ」

 なぜか、澪の顔が浮かんだ。

 外に出られず、聖の力になれないことを詫びる澪。そして彼女を助け、幸せにしたいのに、力が足りない自分。錦だけが特別なのではなくて、誰しも、ささやかな願いなら持っているはずなのだ。

「例え思いが叶わなくたって、好きなものは好きなんだ。諦められないんだ。希望を――人の気持ちを食いものにするなんて、そんなの、許されない」

 意外なことに、沸点を超えた怒りは聖を冷静にしつつあった。腹の中は煮えたぎるかのようだが、頭と耳は妙に冴えている。朝からの頭痛や疲労も、今はどこかへ吹き飛んでしまっていた。

 聖の耳のことはまだ、手鞠には知れていないようだった。今はこの耳だけを頼りに、注意深く反撃の糸口を探して場を収め、錦と一緒に帰るしか道は残されていない。そして恐らく、錦を救うのは簡単だ。しかし、その後は? 聖一人で手鞠を撃退できるのか? 誰かの助けを乞うのか?

 ――闘う。

 そう腹を括って、聖は耳を封じると改めて手鞠を見据えた。耳栓で『本物』の声は聞こえなくなり、手鞠の声だけが階段上の狭いスペースに反響する。

「許すの許さないのって誰がさ? 馬鹿だねぇ、弱いモノは喰われるんだよ。……あんたの心も美味しそう。物好きに、自分が袖にしたこんな他人まで気にかけてね」

「他人のことまで――僕はこれまでそうやって生きてきたし、これからだってそれで構わないと思ってる。お前なんかに、ヒトがどんなことを思いながら、どれだけ一生懸命がんばってるのか、分かるもんか」

「そんなの、あたしにゃどうだっていいね。あたしにとって大事なのは、あんたが旨いかどうかだ」

「僕を乗っ取るのか」

「違うね。喰うんだ」

「やれよ。僕は絶対に、お前なんかには負けない。……さっさと錦さんから出ろ!」

 誘い出せば、手鞠は錦からは出てくるはずだ。彼女は救うことができるだろう。あとは、自分自身の心がどれだけ持つか――それに賭けるしかない。

「……いい度胸じゃないか」

 その言葉とともに、目の前の錦から感じるプレッシャーがふと引いて、錦の体がその場に崩れ落ちるように倒れた。

「錦さん!」

 そう叫ぶと同時に意識が遠のきかけ、聖は歯を食いしばって何とか自分を保とうとする。そうでもしなければ、得体の知れない何かに、どこかの奥深くへと沈められそうだった。心だけでなく、体も一瞬前までのようには動かせなくなっていた。手足がひたすらに重く感じる。

 手鞠が聖を支配しようとしているのだろう。負けない。こんな卑劣な奴には、絶対に――。

『さて坊や、いつまで頑張れるかねぇ?』

 そんな声が聖の内側から聞こえた。


「聖……か?」

 ふと何物かの気配を感じて、澪は山の入り口の方へと歩みを進めていた。聖の匂いのようでいて、聖ではない者のようでもある。そこで、昨日の彼との会話を思い出し、澪の顔からたちまち血の気が引いた。

 まさか、聖が憑かれたなんてことはあるまいな!

 そう思うと、居ても立ってもいられなかった。起こした風に乗り、一瞬で気配のもとへとたどり着くと、そこには果たして聖が倒れ込んでいた。

「聖!」

 澪の呼びかけにも、聖は答えない。慌てて抱き起こそうとして、澪は彼の体から聖以外のモノの気配がするのに気付いた。危惧していたとおり、何かが聖の中に入り込んでいるのは明らかだった。聖を苦しめる何者かへの怒りがわき上がったのを何とか抑え、うつ伏している体をそっと起こしてやると、聖はとぎれとぎれに澪の名を呼んだ。

「……澪さ、ま」

「聖! 無事か!」

「……僕の耳を」

 憑かれているのは確かだが、聖はぎりぎりのところで自分の意識を繋ぎ止めているようだった。状況は飲み込めないが、とにかく聖の言うとおりに耳の詰め物を外してやる。その瞬間、『聖』が絶叫した。

「あんたはなんでこんな中で生きていられるんだあああああ」

 正確には、聖に入り込んだあやかしが、彼の口を借りているのだろう。

 叫びを境に、澪の腕の中の聖の体がぐったりと力をなくす。聞き耳の運んでくる音に耐えられなくなった『何か』が出て来た――中にいた『偽物』が、聖の作戦通り外へと引きずり出され、気を失った『本物』の聖だけが澪の手に残ったのだ。

「……あんたは誰だ」

 聖から抜け出た黒い影から女の声がした。澪の姿を認め、実体を取ろうとしてうごめく。しかし、影が自らの姿を取ることはほんの刹那もなかった。

「聞く耳持たぬわ」

 その言葉よりも早く、澪はその『何か』を殲滅していた。


「気がついたか。気分はどうじゃ?」

「澪さま……?」

 聖がうっすらと目を開けると、なぜか真上に澪の顔があった。

 目が慣れてきて、澪の背に木々の梢と厚い雲があるのを見、聖はようやく自分が空の方を向かされていることを理解した。それから、自分の頭がずいぶん柔らかなものに乗せられていることにも。

 ――あ、膝枕。

 恥ずかしさで頬が熱くなったが、澪は全く気にしてはいないようだった。それに、起きようにも体がうまく動かない。聖はありがたくその意に甘えることにした。

「すみません。……身動きできなくて」

「よい。楽にしておれ」

「手鞠は――僕に入っていたやつは」

「儂が片付けた」

 聖は、はあ、とため息を漏らした。その聖を見て、澪までもが大きく息を吐く。

「わざと自分に憑かせたな。……お主の打たれ強さだけはよおく分かった。あんなものを背負って、普通の人間ならば、とっくに喰われておるところじゃろうな」

「友達の体から追い出すために、自分が憑かれたところまでははっきりと覚えてます。あとはよく分かりません。ただ、相手に呑まれない、負けないっていうことしか考えてなくて。気付いたら、ここに足が向いて。……澪さまが気付いてくれてよかった」

 笑ってごまかそうとした聖に、澪は刺すような視線を放つ。

「儂は誉めてはおらぬぞ。呆れかえっておるわ」

「……分かってます。でも最後に、他人の思いを嫌というほど聞かせてやれたので、僕は満足です」

 成功したのは、運が良かったからに他ならない。聖は決して自惚れてはおらず、本気でそう思っていた。

 どうにかして学校からこの山まで手鞠を連れ出すことができれば。そのためには聖自身が手鞠の『入れ物』になればいいとは考えていたが、手鞠が聖の聞き耳に気付いていなかったからこそできたことだった。

 それに、山にたどり着いてからだってそうだ。聖が力の使い方を少しだが心得ており、聴力を最大限に解放したことで、結果的には手鞠をうまく追い払うことができた。しかし、それでも奴が聖の中に留まるという可能性もあっただろう。

 澪は少しだけ眉を上げて表情を和らげ、「この大馬鹿者」と呟いた。

「儂はちっとも満足せん。こんなに酷い傷を作りおって」

 そう言うと、彼女は指先でそっと聖の唇に触れる。なぞられて初めて、聖は痛みを感じた。

「いたっ」

「噛み切った痕じゃな。ここに来るのに、正気を保つためにか?」

「よく覚えてませんが、多分」

「……まったく、無茶じゃのう」

 澪は、このたわけめ、やれやれ、などと聞こえよがしに言うと、今日初めて微笑んだ。聖はその顔を見て、緊張感からようやく解放され、改めて自分の中には自分しかいない――妙な表現だがそれがいちばんしっくり来る――ことにほっとする。

 無事やりとげたのだと実感したら、あの場に置き去りにしてきた錦のことが気にかかって仕方がなかった。彼女の心はまだ、手鞠に食い尽くされてはいなかったはずだ。ならば、聖と同じように自分を取り戻しているだろうか。


 次の日の登校時、聖は件の錦に声をかけられた。

「大音くん」

 聖が振り向くと、以前のように長い髪を一つにまとめた錦が立っていた。顔色も悪いということはなく、ちょっと前――おそらく、手鞠に憑かれる前の錦と何ら変わりなく見える。

「昨日、目が覚めたら屋上の扉のところで倒れてて。確か大音くんと話してたような気がするんだけど、大音くんが助けてくれた――私の中にいた女の人、追い払ってくれたんだよね?」

「うん、まあ、そうなるのかな」

「……実はここ何日かのことも、あまりよく思い出せないの」

 錦はそう言って頭を抱えた。身体も心も手鞠に支配されていたのだから、当然だろう。それに、操られていた間のことは覚えていない方がいいようにも思う。

「ちょっと雰囲気が違うかなって感じはしたけど、別に何もなかったと思うよ」

「そう? だったら、いいんだけど」

 少しは不安が解消されたのだろうか、錦は多少表情を和らげた。かと思うと、あっと小さな声を漏らして頬を染める。

「一つだけはっきり覚えてることがあるんだ。……『例え思いが叶わなくたって、好きなものは好きなんだ。諦められないんだ』って言葉」

 それは昨日、聖が手鞠に向けて切った啖呵だった。今さらになって恥ずかしくなり、聖は思わず赤面した。

 錦は熱っぽく聖を見つめると、ゆっくりと語り出した。

「いい言葉だなって思ったよ。……私も、大音くんがそうであるみたいに、片思いでもいいから気持ちを大事にしていたいって思ったんだけど。だから――大音くんのこと、心の整理が付くまでは好きでいてもいいかな」

「……この前言ったとおり、僕には好きな人がいるけど、それでもいいのなら」

 錦が微笑む。確かに以前の錦には違いなかったけれど、その顔からは数日前のおどおどした様子は消えていた。

「ありがとう」

 彼女は屈託なく答え、聖の先に立って教室へと向かう。その背は、一回り大きくなったように見えた。

 聖はこれまで、他人の心を聞いてしまうことを気に病んできた。覗かれたくないことや、隠しておきたいことも平気で聞き取ってしまう耳を呪ってばかりだった。

 ところが、力を受け入れられるようになって、考えが少し変わってきたのだ。聞こえてしまうのものは仕方がない、そう思えば、受け取った心の声で自分が成長すること、そして自分の思いも他の誰かを強くすることができるのなら――例えば錦のように――この力を持って生まれてきた意味はあるだろう。


『あんたはなんでこんな中で生きていられるんだ』

 聖が聞いた、手鞠の最期の台詞だ。今の聖なら、手鞠にこう答えるだろう。

「それはたぶん僕が、人々の思いにちょっとずつ強くしてもらっているからだ」

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