第14話 雨間(あまあい)の光(前編)

 手紙の指示は、『校舎の屋上に出る階段の一番上に、ひとりで来てください』。

 屋上へと繋がる扉は閉鎖されていて、校舎の内側のノブには『立入禁止』と赤い文字の看板が下がっていた。梅雨真っ盛りで、扉の外からは屋上を打つ雨の音が響いている。薄ら寒い空気はだからなのか、と聖はひとり身を縮め、壁に寄り掛かった。

 約束の時間ちょうどに、彼女は現れた。妙に強ばった面持ちの同級生が、ゆっくりと階段を登ってくる。後ろで一つにまとめた長い髪が、一歩ごとに揺れていた。

「……大音くん」

「あ、錦さん」

「ありがとう。待たせちゃって、それに時間とらせてごめんね」

 聖が「気にしてないよ」と首を振ると、彼女、錦早奈(にしき さな)は、やはりぎこちない表情で微笑んだ。

 手紙での呼び出し。二人きりという状況。彼女の思い詰めた顔。いくら鈍い聖でも、次に来ることをある程度予想できた。だからといって何ができるというわけでもなく、聖は錦の言葉を待つしかなかった。

 まとわりつくような冷たい空気の中で対峙は続き、錦の潤んだ瞳が聖を捕らえる。なぜだか目を逸らしてはいけない気になって、聖は姿勢を正した。

 やがて、沈黙は小さな声で破られた。

「大音くんに、話したいことがあって。……私、大音くんが好きなんです。誰にでも優しいところがすごく尊敬できるし、小瀬川先輩とセータくんのことを聞いて、友だち思いで素敵だな、って。だから、もし私でよかったら――お付き合いしてくれませんか」

 聖は、錦の視線を受け止めながら考える。

 彼女はおとなしく物静かで、いつも友達と静かに笑っている、そんな印象の子だった。いわゆる『目立つ子』ではなく、授業中に先生に指されたくらいで顔を赤くしてうつむいてしまうような内気な少女だ。

 錦の真っ直ぐなまなざしは怯むことなく聖に向かっていたが、その手は細かく震えていた。手紙を書くまでに、机に入れるまでに、あるいはここへ向かうまでに、どれくらいの勇気がいっただろう。

 しかし、聖には何よりも大切にしたい存在がある。

 先日、高嶺との一件で気付いたことだ。どういう種類の感情かはまだ整理が付いていないけれど、聖の心の奥底でそれは確かに息づいている。目の前の彼女を澪よりも大事に感じることができるだろうかと問われれば、錦には悪いけれど答えは決まっていた。

「あのね。僕には今、大事な人がいるんだ。その人をどうしても守りたいと、思ってるんだ。……錦さんの気持ちは嬉しいけど、錦さんをその人よりも好きになることって、きっと難しいと思う」

 錦の手の震えが止まったが、それが何を意味するのかは聖には分からなかった。ただ、彼女の意にそぐわない中身だから辛いけれど、とにかく答えは伝えなければならない。

 一息吐くと、聖は後を続けようとした。

「だから、本当に悪いんだけど、その話は――」

「……分かりました」

 錦が、遮るように口を開いた。戸惑う聖に、彼女は赤い目を細めて笑ってみせた。少し口角を引いただけの、薄っぺらい作り笑いだった。

「今日は、ありがとう。……諦められるか分からないけど、頑張ってみるから」

 ぺこり、と頭を下げて身を翻すと、錦は止める間もなく階段を駆け下りていく。

「錦さん! 待って!」

 言ってはみたものの、自分は追える立場ではないような気がして、聖はしばらくそこに立ちつくしていた。階下へと遠ざかる彼女の小さな足音は、すぐに聞こえなくなった。


 ある日の昼休み、聖が今日二本目の牛乳を飲んでいると、誠太郎がこちらに近づいてきた。聖と目が合って軽く手を挙げた誠太郎に、聖はストローを口に突っ込んだまま目だけで答える。誠太郎は聖の前の席に後ろ向きに座ると、こう切り出した。

「聖、錦を振ったの?」

 唐突な質問に、聖は危うく飲んでいたものを噴き出しそうになった。なんとか飲み下して誠太郎を見ると、彼は「当たり?」とニヤニヤ笑っている。驚きを取り繕うことも忘れて、聖は反論した。

「で、でもなんでセータが知ってるのさ。……別に、僕は知られて困るってことはそんなにないけど、言いふらされたら錦さんがかわいそうじゃないか」

 誠太郎が、おや、という顔をした。

「その錦が言ってるみたいだぜ」

「え?」

 聖は、自分の耳を疑った。慌てて見回したが、教室には錦の姿はなかった。錦はあの一件以後も、みんなの前では普段通りの彼女だった。それに彼女の性格を考えれば、誰それに振られた、などと冗談でだって言いふらすようなことはないと、聖は考えていた。

「セータは錦さんから聞いたの?」

「いや、俺は又聞き。でも俺に話した奴は錦から聞いたって言ってたかな? ……落ち込んでる?」

「……いや、そういうわけじゃ」

 釈然としないものを感じた聖が黙り込んでいると、誠太郎はさすがに悪いと思ったのか慰めてくれた。

「向こうがあんまり気にしてないなら、聖が悩むこともないだろ」

 では、放課後の一件は錦にとって、数日で立ち直れるような軽い傷だったのだと思っていいのだろうか。そうであれば、腑に落ちないながらも嬉しいのだけれど。

 誠太郎は聖の机にほおづえを付きながら、小さな声で尋ねる。

「錦、いいと思うけどな。うるさくなくて真面目で勉強できて、ちぐさに見習わせたいくらいだ。……何がダメ?」

「ダメってわけじゃないよ」

「じゃ、どうして」

「言わなきゃいけないの?」

「いいや? 聖の考えてることくらい分かるよ」

 彼はさも当然、といった口振りで「どうせ片思いだもんな」と断言した。

 聖だって他人の顔色を見ながら暮らしてきた時期があるから、鈍くはないと思いたい。しかし嘉章といい誠太郎といい、聖の身近にいる人々はどうしてこういう勘が人一倍鋭いのだろうか。

 すでに牛乳を飲み終えていたことにほっとしながら、聖は自分のわかりやすさを呪う。きっと今も、恥ずかしさや驚きが顔に出ているのだろう。そのことに聖と――おそらく澪だけが、気付かないのだ。

 正解だろ、と自慢げに言う誠太郎に、聖は本音を漏らす。

「僕って鈍感かなあ」

「何をいまさら」

 誠太郎のツッコミとともに、午後の予鈴が鳴った。


 その日の放課後、聖が帰宅の途につくべく廊下を歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返ると、人気のない廊下の真ん中に錦が立っていた。

「なに、錦さん?」

 屈託なく笑う彼女からは、あの日のような沈んだ雰囲気は少しも感じ取れない。それどころか、以前よりも数段可愛らしく見えた。明るい表情が、背に広がる長くて綺麗な黒髪によく似合う。本当に元気になってくれたのだと、聖はようやく安心できた。

 錦は魅力的な笑みを浮かべたまま、聖に近づいてくる。息がかかるほどの距離まで来ると、聖の耳元で囁いた。

「この前の話、もう一回考えてみてくれないかな」

 言うまでもなく告白のことだろうけれど、その意図が聖にはさっぱりわからなかった。ちゃんと断ったつもりでいたのは聖だけだったのか。

「あれは」

「……なんて言ったって、また断られるのは分かってるけどね」

 さっと聖から離れると、茶化すように錦は言った。

 明らかに、以前の彼女とは違っていた。そんな自虐的な言葉を軽々しく吐くような子ではなかったはずなのに――聖が深く考える間もなく、錦は話し続ける。

「……ねえ、大音くんの好きな人は、どれくらい大音くんのことが好き?」

「……それは分からないよ」

「なら、私にしておいたらいいんじゃない? だって私の方が、きっと大音くんのこと――ま、いいや」

 錦の台詞にわずかだが、『大音くんの好きな人』に向けられた憎悪のようなものを感じて、聖は信じられない思いがした。彼女は『私にしておいたら』なんて言う人だったっけ。前はもっとおどおどしてはいたけど、自分の恋に自信みたいなものを持っているような印象があった。だからこそ、頑張って諦めるなんて言葉が出てきたのだろうし、聖の好きな人を貶めるような言い方だってしなかったのだと思っていた。

 まるで別人のような彼女に、聖は首をひねる。

「……錦さん、今日、何か変じゃない?」

「変じゃないよ。思ったこと、はっきり言うことにしただけ」

 彼女は「じゃ、また明日ね」と言い残すと、黒髪をなびかせながら颯爽と去っていく。錦が去ってから、聖は彼女の髪型が校則違反であることに気付いた。肩よりも長い髪は結わえなくてはいけないはずなのに、と。


「何かに憑かれたか、魅入られたかしたのではないかの」

 梅雨の中休みか、ありがたいことに今日は朝からまだ一滴も降っていない。定位置である大きな杉の木の下、聖は乾き始めた地面に小さなレジャーシートを敷いて居座っていた。隣には、同様に澪も腰を下ろしている。ただし、決して会話が弾んでいるというわけではなく、二人とも何ともいえない苦い表情を浮かべていた。

 最近、クラスメイトの様子がおかしいと相談を持ちかけたところだった。ただ、聖の気持ち上のことで、告白を受けたというところを端折ってしまったが。

 澪の言うことを信じれば、錦に起きた変化にも納得はいく。しかし、化け物の類ならば、聖に見破れない――いや、『聞き』破れないことはないのではないだろうか。

「少なくとも、変な声は聞こえなかったんです」

「そういう奴らはの、紛れ込む術に長けておる。ヒトの弱みにつけ込んで取り憑き、自分が主に成り代わる。気配をできるかぎり消し、中からじわじわと侵していく」

「入り込まれた側の人間はいったいどうなるんですか」

「たとえ体の持ち主の意識が残っていたとしても、深くに押し込められて表に出てはこれまいが、いずれ心を食い尽くされれば消える。その後は、憑いたモノがヒトに成りすますか、ヒトの抜け殻を残して新たな獲物へと移るかじゃろう」

 巧妙に隠れるものなんだな、と考えてぞっとした。誰も知らないうちに、友達の中身が入れ替わっていたら。いつの間にか、化け物が友人の皮を被り、何食わぬ顔で隣にいたらどうする?

「何か、見破る方法とかはないんでしょうか」

「次の獲物に乗――お主、まさか良からぬことを考えてはおらぬだろうな?」

 澪は話を途中で打ち切ると、訝しげに聖の顔を覗き込んだ。

 錦の心が何かに入り込まれる隙を見せていたとするならば、その原因の一端は聖にもあるかもしれない。少なくとも、彼女が変わってしまった理由が他にあるかどうかは、聖には分からなかった。

「……でも、このままじゃ」

「お主の気持ちも分からなくはないが、今回ばかりは分が悪いぞ。まあ、その娘を見てみぬことには判断できようもないことじゃが、儂は身動きが取れぬ」

 いつもなら苦笑いをしながら聖をたしなめる澪だが、今日は珍しく深刻な面持ちでそう答える。

「山を下りられるほどは、力が戻らぬ。すまぬな」

 澪は滲む悔しさを隠そうともせずに、そう呟いた。その横顔は、ちょうど数日前に見た、錦の別れ際の笑顔によく似た脆さをはらんでいた。

 山にいる限りは、澪自身がこの件に関わることはできない。おそらく、彼女はそれを気にしているのだろうと聖は思う。しかし、それは澪が詫びるべきことではないはずだ。

「澪さま、謝らないでください」

「ああ、すまぬ――と」

 さらに謝って、さすがにおかしかったのか澪は口元をやや緩めた。

「……雨が来るな」

 頬を撫でる風が重みを増したのは、この場の雰囲気のせいだけではないようだった。湿気を存分に含んだ冷たい空気が流れはじめている。木々の隙間から聖も空を見上げると、すでに黒い雲がたれ込めていた。

 澪は立ち上がり、鼻をひくつかせる。雨の匂いでも嗅ぎ取っているのだろうか。

「この様子では、長雨にはならんじゃろうが。……今日はもう帰れ。お主もそんな調子じゃと、憑かれてしまうぞ」

 澪に続いて立ち上がろうとする聖に、彼女は真っ直ぐに手を差し出した。聖も躊躇せず、その手をしっかりと取った。

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