第13話 誓い(後編)

 昨日の嘉章との会話で何となく頭の中が整理されたつもりでいたが、結局は例の書類を出さずに帰ってきてしまった。落ち込みながら、聖はとぼとぼと澪の山へと足を向けていた。これという理由はないが、澪を話せば道が見えてくるのではないかという気がしたのだ。

 山頂への道を登り始めてすぐに、聖の耳は話し声を捉えた。こんなところで人の声がすることなど、これまでなかった。ただでさえ人気がない山。人間にしろそうでないにしろ、来客があるとすれば年始めの八雲以来だ。もしも好意的な客であれば、澪もいい気晴らしになるだろう。そんなことを考えながら、さらに上へと向かう。


 やがて聖の前に現れたのは、見慣れぬ鹿の姿の澪と、やはり見慣れぬ青年とが対峙している場面だった。

 後ろ姿の青年は灰色の髪をとげとげしく立たせた鋭角的なヘアスタイル。すらりとした長身には黒いデニム、そしてジャケットを無造作に羽織っていて、それがはまっている。俳優やモデルのような格好よさだ。

 ところでいったい、この人は誰だろう。

 澪の知り合いだろう、と安易に考えてみる。澪と話をしているのならば悪いモノではないだろうけれど、あちらの世界のモノには警戒しておいた方がいい。聖がそう考えてやや構えたとき、会話のかけらが飛んできた。

『今日はキュウコンのために伺ったのですよ。……ヨメに貰う、ということです』

 意味を理解しかねて、聖は立ちつくす。その間にも二人のやり取りは続いているが、まともに耳に入ってこない。

 キュウコン。ヨメ。キュウコン。ヨメ。――求婚、嫁!

 気付いた瞬間、聖は叫びそうになって自らの口を押さえつけた。青年が澪にプロポーズしている。目の前で何が起こっているのかよく分からないが、どうやらそういうことのようだった。

 何で、どうして、いったい誰!

 そう尋ねたかった。驚き、そしてなぜか少しずつの悲しみと怒りで胸の中がもやもやして、何だか嫌な気分だ。今すぐにでもここから逃げ出したいと思ったけれど、足は動かなかった。

 そして、青年が振り向く。

「澪さま――と、ええと」

 あなたはどなたですか、と尋ねようと思った。しかし彼と目が合った瞬間、聖の体は宙を舞っていた。

 突き飛ばされたのか、それとも殴り飛ばされたのかは判断が付かないが、一呼吸遅れて腹に鈍い痛みを感じ、どうやら目の前の青年に危害を加えられたらしいということは理解した。頭はそう強く打たなかったが、それでも聖の意識はやや遠のく。仰向けに倒れた聖の喉元には青年の右手が添えられ、その爪が皮膚に食い込んでいる。

「何をする、高嶺殿!」

「何をとは愚問ですね。怪しい人間に姿を見られた。当然でしょう?」

「その童(わらし)は特別じゃ! 今すぐその手をどけよ!」

 ぼうっと霞む視界とは裏腹に、澪の鋭い声、耳元の青年の穏やかだが冷酷な声が聖の耳に突き刺さった。そしてもう一つ、男の低い呟きが聖の耳栓を飛び越えて『聞き耳』に届く。


『特別? この餓鬼ごときが?』


 表情はあくまでも笑顔の青年だが、聖の首元にかかる手に少し力が加わった。

 心の声――抑えきれない怒りと憎悪を孕んだ青年の呻きに、聖は愕然とした。聖の頭の中に響き渡る言葉と、耳に入ってくる声があまりにも違いすぎる。二つの人格が一つの身体に宿っているのだろうかとも思ったけれど、どうもそうではないようだ。つまり、建前と本音に恐ろしくギャップがあるのだろう。

「……特別とはどういうことです、澪さん。この人間、澪さんのお友達なのですか?」

『まさか、こいつが澪の棘を抜いちまったんじゃねえだろうな』

「儂は今、その者に拠って命を繋いでおる。……放してやってくれ」

 この青年が何者かは謎のままだが、澪でさえも太刀打ちできない存在なのだということ、事態が緊迫していることは、初めて見る彼女の態度から察しが付いた。それに、『聞き耳』への音を遮断しようとしても青年の声だけはお構いなしに入ってくる。それは彼が強大なモノである何よりの証拠であり、同時に聖が異能者であるということを青年が知らないという証拠でもあった。これだけのあやかしが、『聞き耳』を前に感情を垂れ流すなどとは思えない。

 わずかに首を動かすと、身を縮めている澪の姿が目に入って、聖は唇を噛んだ。自分がもっと強くて、彼女の力になれていれば――単に澪の命綱である以外、例えばこの青年の手を振り払う力があれば――彼女があんなに痛々しく訴えかける必要はない。しかし実際の自分は、組み伏せられて身動きもできない。尻ぬぐいを澪にさせてしまっていることが、どうしようもなく辛い。

 澪が、鹿の姿のままこちらへ一歩近づく。

「頼む、高嶺殿。儂が消えれば、お主も困るのであろう? その者がおらねば、儂は生き延びることができぬ」

「だから私が一肌脱ぎましょうと言っていますのに」

『自分を盾にしやがる。必死だな、澪。……ふざけるなよ』

 青年のあまりに強い口振りと光る眼に、聖は思わず目を閉じた。このまま首を切られるか、締められるか――そう思ったが、案に相違して喉に置かれていた手の感触が消える。慌てて跳ね起きると、青年は聖に向かい酷薄な笑みを浮かべていた。もちろん、澪には背を向けたままだ。

『――と、言いたいところだが。……澪の怯える顔、泣きそうな顔はたまらなく好きなんでな。どうやら、こいつがいりゃあ何度でも見られそうだし、今日は見逃してやる。まったく、あやかしならば喰って空腹の足しにでもしてやったところだ』

「すみませんね。まさか澪さんのお友達とは思わなかったものですから。傷つけたこと、本当に心からお詫びいたします」

「……い、いえ」

「どうか、これからも澪さんの力になってあげてください。澪さんも、お元気で」

「うむ」

 青年に目を向けられた澪は、できる限り短く答える。澪の一言が好意的な返事ではないことは、話に追いつけていない聖にさえも明白だった。それを気に留めることもなく、青年は余裕たっぷりに呟き続ける。

『それにしても――畜生。こんなただの人間の餓鬼に、澪を持って行かれてたまるかよ。せっかくここまでいい顔をするように育ったってのに、俺のモノを横からかっさらっていこうなんざ――』

 青年は聖を牽制するように一度真顔で睨み付けると、一瞬のちには爽やかな笑顔を作った。心の声はそこで途切れ、彼は草を踏む音すら立てず、何ごともなかったように――あくまでスマートに歩き去っていった。

 後には唖然としている聖と、相変わらずの鹿の姿でへたり込む澪が残された。


 青年が山を下りた後、澪はまず藪へと分け入ると野草を何本か採ってきた。

「待たせたな。……これを、摘んできた」

 その白い手に握られていたのは、潰して塗ると怪我にいいという野草だった。聖の首の傷を案じてのことで、自ら手当てまでしてくれた。本当はそう大した傷でもなかったのだけれど、それで澪の気が済むならと聖はおとなしく従う。

 彼女は草むらに入る前は鹿の形をしていたものの、戻ってきたときにはいつもの澪、つまり人型をとっていて、聖はひとまず安心した。少なくとも、人間の振りができないほど弱っているわけではないようだ。しかし、高嶺という青年の二面性からすると、聖の到着前、澪が何ごとかのトラブルに遭わされているかもしれない。いずれにせよ、彼女が未だ本調子ではないのだということだけは明白だった。

 一通り終えると澪は自らが祀られている祠の脇へと腰を下ろしたので、聖もそれに倣った。こちらから何か尋ねるのは憚られて、つい黙り込む。座った地面から身体に伝わる温度も、日暮れ時の緩い風にもまだ暖かさが充分残っていて、季節が変わったことを実感できる。

 やがて、澪が低い声で訊いてきた。

「怖かったろう」

「ちょっとは。……結局、何ともなかったので大丈夫です」

「そうか。まったく、まずいところへ出くわしたものだのう。もう小半時もすれば、高嶺殿とは会わずに済んだであろうに。……儂もみっともないところを見せずに済んだのじゃが」

 その言葉に、聖は疑問を抱く。もしかしたら澪さま、僕が話を聞いていたとは気付いていないんじゃないだろうか?

「聖が来る前にお引き取り願おうとは思うたが、間に合わなんだ」

 澪は、聖の方をちらりと見ながら苦笑した。やはり、彼女の口からプロポーズに関する話は微塵も出てこない。

 ここは、自分が聞いていなかったことにすればいいんだろうか。

 そう考えて思い返してみれば、『求婚』という言葉よりも後の彼らの会話の記憶は聖にはなかった。すっかり動揺してしまって、『聞き耳』に気をやっているどころではなくなっていたのだ。

 澪はいったい、どう返事をしたのだろう。尋ねてみたい気持ちで一杯なのに、聖には聞くことができない。仮に澪が高嶺の話を呑んでいたら――そう思うと胃が絞られるように痛んでしまって、声が出ない。それに、おそらく澪は、聖が立ち聞きしていたなどとは考えていないだろう。

 ふと気付くと、聖が長く黙りすぎたためか、澪が不思議そうにこちらを見つめている。慌てて紡いだのは、当たり障りのない言葉だった。

「……あの、澪さま。さっきの人はいったいどなただったんですか?」

「なんじゃ、それで黙っておったのか。紹介もせずにすまなんだのう。……高嶺殿は儂と同じく山の神。しかし、もうずいぶんと前からこの辺りに住まわれ、その分力も大きい。ゆえに人間からの信仰も篤くての、儂とは格が全く違う。相性も悪い――高嶺殿の性は、狼じゃ。あの方が本気になれば、儂なぞ一呑みに喰われてしまう」

 澪はそこで肩をすくめてみせた。本来なら鹿を食らうはずの生き物――それならば、居丈高な高嶺の態度に澪があれほど怯えていたのも頷ける。

「もちろん、聖のことは一言も漏らしておらぬゆえ心配するな。当然のことじゃ。聖を巻き込んではいかぬからな」

 聖が「すみません、気を使わせてしまって」と頭を下げると、澪は照れたように自身の頭を撫でた。本調子ではないらしい澪はガードが甘いようで、ふと流れ出してきた彼女の『声』が聖をくすぐる。

『巻き込みたくないと思っていたはずが、聖の姿を見たら何故だか安堵したのもまた事実じゃがのう。……断ることができて、本当に良かった』

 コトワッタ。

 まず、彼女が高嶺のものにならなかったという安堵。そして、それを自分の口で尋ねられなかったこと、結局は澪に守られたことの情けなさ。聖の全身から、一気に力が抜けた。

「昔は、いつもいつもあのように乱暴というわけではなかったんじゃが。思い当たる節もないではないが、儂の知らぬ間に変わってしまったのかもしれぬな」

「……そう、ですね」

 澪はため息を吐いたが、それは違うと聖だけは知っている。『せっかくここまでいい顔をするように育ったってのに』――獲物をじっくり時間をかけて自分好みに仕込み、自分のものにする。気の遠くなるような光源氏計画を実行できるのも、寿命がない彼らだからこそ待てるからだろう。高嶺ははじめからそういうつもりだったのだ。

 言うべきか言わざるべきか少しだけ悩んで、聖は黙ることを決めた。彼女の悲しげな顔に、まだ高嶺を信じたいという心がありありと浮かんでいたから。そして、それを見た自分の胸の内にほとんど経験のない思い――ちょうど、高嶺の求婚に出くわしたときの感情に似たもの――が渦巻きはじめていたから。

 負の思いに囚われまいと、聖は話を変えてみることにした。もう一つ、今日気になっていたことだ。

「澪さま、もしかして高嶺さまに何かされたんですか。どうして鹿の姿を?」

「……なに、ちょっとな。今日は調子が悪くてのう。高嶺殿とは関わりはないから安心せい」

「関わりがあってもなくても、心配なんですよ。……大事に至らないうちに休んでくださいね。僕にできることなら言ってください」

「では遠慮なく言わせて貰うが、『あんみつ』を口に入れればたちどころに治りそうじゃぞ」

 そう明るく切り返して笑うものの、彼女はやはり顔色が悪い。聖も一緒に笑おうとしたけれど、何故か首の傷の痛みを思い出してしまって、うまく笑顔になれていたかは微妙なところだった。


 高嶺が再びやってきたらという不安はあったが、あまり無理をさせるのも気が引けたので、その日は近々あんみつをおごると約束しただけで澪の元を去った。

 帰り道で、聖は自分の『声』を噛み締めようと思考に没入する。いくら聞こうとしてもどうしても聞こえない唯一の声は、結局は自分自身で考えるしか捉える手だてがない。


『もう少し回復したら、一緒に村を見に行きましょうね』

 絶対に自分で叶えたい、彼女とのいちばん最初の約束だった。けれど今日のように、澪は未だ、ほんの少しのきっかけで鹿の姿を取らざるを得ないらしい。どうしたら彼女にもっと力を与えられるのか。澪が、幸せだと思える未来を作るために、何か他に手段はあるのだろうか。祈りが足りないというのならいくらでも頭を垂れるのだけれど――。

 しかも澪は、例え本性を現すほど弱っていても『聖を巻き込まぬよう』と考えてくれた。では、聖自身はどうだろう。澪を生きながらえさせるためには確かに役に立てているのかもしれないけれど、蓋を開けてみれば高嶺にもされるがままで、醜状を晒しただけだったじゃないか。

 ならば僕は、澪さまを守るためにもっと強くならなくては。『聞き耳』の使い方だけではなくてさらに根っこの部分、胸の中を鍛えなければ。

 進路は決まらなかったけれど、あれこれ悩んだあげくに朧気ながら見えたことはあった。それはきっと、『頭の隅に引っかかる何か』のかけらだろうと聖は思うのだ――。

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