第12話 誓い(前編)

 田植えを待つ田には水が引かれ、青い空が映っている。少し耳を傾ければ蛙の声。吹く風にもなんとなく色や匂いが感じられるようになったし、何よりここ数日で冷たさがすっかり抜けた春風に変わった。

 登下校に薄手のコートがいらなくなると、春。

 聖が初めてそう思ったのは去年のことだ。おととし以前の自分はそんなことを感じる隙さえなかったのだろうと、心に余裕ができた今になって聖は振り返ることができる。

 おととしといえば、聖が街の中学校に入学した年だ。『聞き耳』はある程度制御できるようになっていたとはいえ、学校は休みがちだったし、毎日が妙に事務的に過ぎていっていた。『事務的に』日々をこなすことでこの力を遠ざけ、見ないふりをして、何とか逃れようとしていた。

 立ち止まって見つめた足下には、去年より一サイズ大きくなった靴。

 それに比べたら、ここに来てから――澪と出会ってからの一年――はなんて充実していたんだろう。振り返ってみると実にいろいろなことがあった。『聞き耳』の使い方、使いたくないときの心の持ち方も身につけつつある。少しずつの経験が自分を強くしてくれていると、聖は自身をちょっとだけ誇りに思う。

 さて、それでは。

 来年の今頃の自分は、どこでどうしているだろう。困ったことに、それがまったく頭に浮かばない。聖が過去へと逃避しているのは、未来について考えなくてはならない時期が来てしまったからだった。昨日の夜から――いやもっと前から、頭の隅に引っかかる何かが気になって先に進めないのだ。


「そこのジュケンセイ。……これはいつが締め切りなんだ?」

 夕食の後片付けをしていたはずの嘉章が、何やらビラビラと妙な音を出しながら近づいてきた。わざと音が出るようにわら半紙をはためかせている。きまりが悪そうにしている聖の表情を見ると、嘉章は呆れ顔で付け足した。

「何だ、その『しまった見つかった』って目は」

「お、思ってないよ、そんなこと」

 嘉章は図星を指されて分かり易くうろたえてしまった聖を見て苦笑した。次いで立ち上がると、「嘘をつけ嘘を」と、勉強机の上に置きっぱなしだった書類を持ってくる。聖に示されたのは、『進学』の選択肢にチェックを入れただけであとは白紙の『進路希望調査票』だった。ここ数日、嫌になるほど見つめ続けた紙だから改めて言われなくても分かるのだけれど、どうやらまた見直さなければならないようだ。

 鼻から一つ息を吐いて、聖は居間のテーブルで嘉章と向かい合った。

「……締め切りは、昨日だったんだけどさ」

「先生が困ってるだろうに。俺で良ければ相談には乗るぞ。……それともあれか、耳がまだダメか?」

 教師である嘉章は、提出期限を破られた聖の担任に心底同情しつつも、聖の『聞き耳』を気に掛けてくれていたようだった。

 そもそも、嘉章に相談しようかどうしようか迷っているうちに何日も経ってしまっていたのだ。悩む前に嘉章に声を掛けてしまえばこうも引きずらずに済んだのかもしれない。願ってもない提案を歓迎しつつ、聖は言う。

「ダメかどうかは、やってみないと分からないけど。でも、一年前よりは何とかできそうな自信は出てきたかな」

「何とかするじゃなくて、『何とかできる』なのか。育ったもんだな。……ま、頭を冷やして考えようぜ」

 にっこりと笑い、嘉章は一度席を立つと、冷蔵庫から炭酸飲料を持ってきて注いでくれた。喉に流し込んでいると、「ひーの父さん母さんは何か言ってたのか」と尋ねられたので、聖は「『無理はするな』って」と返す。

 春休みに家に帰ったとき、両親を交えて将来のことを話し合ってきた。親の言う『無理』は、聖の成績のことも、聞き耳に伴う精神的な重圧のことも含んでいるのだろう。自分のわがままを受け入れてくれる父と母の寛大さは、聖には本当にありがたかった。だからこそ早く彼らの元へ戻って、いろいろな面で楽をさせてあげたいという気持ちも大いにある。

「お前、成績はなかなかだから選択肢はたくさんあるな。上を狙うなら――心の方が大丈夫なら、街に戻るってのもいいだろ」

 少しだけ眉を寄せ、嘉章は考えを促すかのように聖の顔を覗き込んだ。

 街でもう一度やっていけるかどうかを見極めるのも、ここに残るという進路を選ぶのも、最後には自分。聖もそれは充分に承知している。しかし、この優しい場所に居続けることは、本当に自分にとっていいことなのかが分からない。かと言って、街に耐えられるまでに大人になれているのかも分からない。

 ただひとつ、はっきりしていることがあった。

 聖が未来を思うとき、そこには必ず澪の姿が浮かぶ。自らを買いかぶっているわけではないけれど、もし自分がここを去ったら澪はどうなってしまうのだろう。

「彼女との近い未来を考えるなら、ここに残るのもありじゃないか」

 危うくサイダーを吹きそうになった聖は、嘉章こそ『聞き耳』ではないかと疑いたくなった。

 いや、でもよくよく考えたら恐れ多すぎる。そもそも澪は聖の彼女でも何でもないわけだし、第一そんなことを言おうものなら澪に叱られてしまいそうだ。

「そういう幸せも、お前には似合ってるかもしれないと思ったんだよ。俺にはそれがお前の将来のためになるのか分からないけどな。……自分のことを棚に上げて言わせてもらうなら、何となくだけど、ひーはいつまでもここに居続けてはいけないような気がするぞ」

 棚に上げられたのは、姿を消した嘉章の思い人、かなでのことだろう。聖は、彼が時間を作っては、かなでとの思い出の森へとこっそり足を運んでいることを知っている。そう言う嘉章はきっと、彼女に再び会える日までこの土地を離れないつもりなのだ。

 それはとりあえずいいとして、聖の心には最後の一言が妙に引っかかっていた。

「村の外に行った方がいいっていうこと? 何で?」

「上手くは説明できないよ。なんとなく、だ。……外に出てったほうが、きっといいことある。お前にも、周りの人にも。ほら、なんだ、自慢のイトコだし」

 軽く聞き返した聖に、嘉章は照れくさそうに言った。


 澪は生身の身体でないため暑さ寒さにはいささか鈍いが、それでさえここ数日での緩み方は急激だと感じられた。ついこの前までは朝晩の冷え込みが厳しかったはずなのに、今は日が昇ると暑いくらいに感じるときがある。

 森が切れた向こうには、若葉色の景色が広がっている。かつて澪が獣の身だったころも今も、一番好きな季節――そして、澪が聖と出会った季節になっていた。

 澪は、山の入り口で逡巡していた。

 目の前には、常人には見えない境界線がある。あと二、三歩踏み出せば、そこは澪の力の及ばない山の外だ。今は山に守られているから、こうして人間の姿を保つことができる。しかし外へ出れば、変化(へんげ)をし続けること、さらには指一本動かすことにさえ相当な力を必要とするだろう。果たして、これまでの一年で蓄えてきた力はどれほどのものなのか。自分の身体と心は、消耗に耐えられるまでの強さにまで戻っているのだろうか。

 少しでも迷うと、足が止まってしまう。しかし、怖くても確かめなければならない。

 今の澪は、聖がいるから命を繋いでいる。恐らく聖もそれをよく理解しているのだろう、ほとんど毎日のように自分に会いに来てくれる。できるだけ早く、彼に負担をかけなくて済む身体になりたかった。

「……うむ」

 勇気が出たところで、そっと一歩を踏み出す。さらに一歩、また一歩――。

「くっ――」

 身体はなんとか山の外へと出たが、澪の歩みはそこで完全に止まった。

 三歩目より後はとてつもなく重く、まるで足が地面に縫い止められたように動かなかった。身体全体にも強烈な負荷がかかっている。澪は、巨大ななにかに上からすり潰されるかのような感覚に襲われていた。事実、いつの間にか地面に引き寄せられた澪は、地を這うように低い姿勢で自身にかかる荷重になんとか耐えていた。

 澪が堪えているのは体の重さだけではなかった。自らの不甲斐なさに対する怒りと悔しさ――心もまたずしりと重い。弱りながらも一山の主が、独りで歩くこともままならないなんて情けないにもほどがある。

 この日の高さなら、聖が来るまでにはまだ間があるはずだ。こんな姿を見られるわけにはいかない。どうにかして、山の中へと戻らなければ。

 弱気になる自分を叱咤して、両腕で身体にかかる重みを支えようとする。しかし、上体は辛うじて持ち上がるものの、事態はそこから一向に好転してくれなかった。やはり押しつぶされるように地面に倒れ込む。

 途方もなく長い時間、そんなことを繰り返していたような気がした。

 青草の香りが強すぎて、思わず息をひそめる。うっすらと目を開けば、ぼやけた視界にはヒトのものではない蹄が映る。いつの間にか澪の変化は解け、本性である鹿の姿を晒してしまっていた。ささやかな自慢である純白の毛皮は、おそらく土と泥にまみれてくすんでしまったことだろう。

 そこで澪はふと、自分の上に落ちた影に気づいた。聖が来たのかとも思ったが、それにしては影が長い。しかし、聖でない誰かが自分のところにやってくるとも考えられない。昔なじみはたくさんいたのだが、皆はまだ生き残っているのだろうか。例え長らえていたとしても、今さら、力を失った自分のもとを訪れるだろうか。

「相変わらずきれいな白ですね、澪さん」

 男の落ち着いた声が降ってくる。

 澪は無条件に怯えていた。すうっと、全身の血の気が引くのが分かる。

「本来の姿まで見せて、そんなところでお休みなのですか?」

 大分皮肉気な含みを持った響きだ。聞き覚えがある言い回しに、澪は疲労でいくぶん回転の鈍った頭をのろのろと上げた。上げたとたんに相手が誰であるかをはっきりと思い出し、気圧されぬように強めの口調で言い返す。

「何でもないわ。散歩の途中じゃ」

「つれないですね。ただの散歩には見えませんよ。……もしや、しばらくお会いしないうちに私をお忘れですか?」

 彼の本性には到底似合わない慇懃無礼な物言いに、澪は改めて恐怖を感じた。肌がみるみるうちに泡立ち、全身を悪寒が走る。しかし負けるわけにはいかないと、澪は普段の調子で答えた。

「よぉく覚えておる。久しいのう、高嶺殿」

 高嶺(たかね)はいわゆる、数少ない『昔なじみ』のうちの一人だ。澪と同じく山の神と呼ばれる部類のあやかし、それも澪とは比べるべくもない大山を統べ、人間からの信仰も篤い大神(おおかみ)である。そんな古いもののけであるにも関わらず、彼は聖が時たま着ているような今風の洋装。そういえば、高嶺は新しい物が好きだったと思い返す。

「ええ、お久しぶりです。覚えていただいていて光栄です」

 言葉とは裏腹に、高嶺は鼻で笑って見せた。彼の本音と建前が明らかに異なるのは昔からだが、それは今でも変わりないらしい。その本心を見せない彼が声に出して笑うとは、地べたに押しつけられている姿がよほど可笑しいのだろう――と、澪も多少自虐的に苦笑した。もっとも今は鹿の姿だから、笑いは相手に伝わっていないだろうが。

「……ずいぶんと地面がお好きなようですが、私でよろしければ助けて差し上げますよ」

「遠慮する」

「でも、あなたは困っていらっしゃるようです」

「笑いたければ笑うがいい」

 純粋な心配よりは恩を売る機会を逃すまいという雰囲気を、澪は感じ取っていた。長い首をもたげて見上げた高嶺は、キッと吊った目をやや細め、大きな口でにっこりと笑った。まるで統一性のない部品が収まった顔だが、人間的に言い表すならば野性的で精悍。その涼しげな瞳は澪を射竦め、ときにぎらりと金色に光るのだ。澪までもが圧倒されるような存在感で目の前にいるのは、まさしく一頭の肉食獣だった。

「やれやれ。心配しているのですが? それとも、その綺麗な足にでも噛みついたら言うことを聞いてくれるのでしょうか?」

 高嶺がことさらに自らの牙を見せつける。その武器が自分に突き立てられるなどと考えただけでも、澪の体にはふるえが走った。噛まれる――すなわち喰われるのは嫌だ。しかし、体は依然として動かない。

「では、勝手に助けますよ」

「やめ――」

「やめません」

 薄笑いを浮かべる高嶺の声で、澪の制止は当然のごとくかき消された。諦めでさらに曇る視界の端で、高嶺が高々と右手を挙げていた。

 変化は、すぐに訪れた。

 わずかに空気が揺れたかと思うと、澪にかかっていた重さは嘘のように消えて、体が自由に動かせるようになっていた。しかし、心の中の鈍い痛みは増している。

 一時的にだが、ここが『高嶺の場』になったのだと分かった。強い力で、自身とは無関係な場所に縄張りを作りあげる。その『場』に存在を許されれば、その他の干渉からは解放される。

 澪の山の外は、本来なら誰の支配下でもない真っ白な土地なのだ。それを、高嶺はただ片手を挙げ、力を込めるだけで自分の色に染めてしまった。逆に言えば、自分の山の外に出られない澪には、まだそこまでの力が戻ってはいないのだ。高嶺にかかれば、澪などひとたまりもなく捻り潰されるのだろう。

「楽になったでしょう」

 顔色一つ変えず、高嶺は空いている左手を澪に差し出した。さすがに払いのけるわけにもいかなかったが、気付けばいまだ鹿の姿。力の入らない四肢だが、それでも立ち上がるくらいはできるようだった。ふらつきながらであるが、澪はゆっくりと体を起こす。

「早いとこ、自分の城にお入りなさい。これでも紳士なのでね。あなたの山に入ったりはしませんよ」

 高嶺に促されて、慌てて山の方へと踏み込んだ。それを見て、高嶺はようやく右手を下ろす。ともかく、これで聖に惨めな姿を晒さずに済んだわけで、その点は感謝せねばならなかった。

「……礼を言う」

「ずいぶんと殊勝ですね」

「誰かと違って素直なものでのう」

「それは感心」

 澪の皮肉も、高嶺には軽く受け流される。駄目だ。

 彼には昔は何かと面倒を見て貰ったような気もするし、古い記憶の中の高嶺はもっと優しかったように思う。とすれば、自分が何か彼の機嫌を損ねるようなことをしたのかもしれない。いずれにせよ、今の情けない自分では高嶺には敵わないのだ。

「棘がずいぶん柔らかくなったのでは。どうもしっくりしないんですよ。その素直さ、一体誰に教わったのかが気になりますね」

 大神が、うなだれる澪に追い打ちをかける一言を放つ。

 そうだ、聖!

 そこで澪の頭に真っ先に浮かんだのはなぜか聖の顔で、背筋が凍る思いがした。日の傾きを見れば、いつもなら聖がやってくる頃合いになっていた。この場に居合わせてしまったなら、面倒ごとに巻き込んでしまうのは火を見るより明らかだ。物事がそう都合良く進むとは思わないが、今日に限って遅れてきてくれるなどということはないだろうか。

 ――恐らく、ない。

 ならば、腹を括って隠し通し、できるだけ早めに帰ってもらうしかないのだ。

「……自前じゃよ。お主の棘は相変わらずじゃな」

「私はあなたには優しいはずですよ。違和感を感じるほどには、澪さんを知っているつもりですしね。……そうそう、今日は求婚のために伺ったのですよ」

「きゅ……?」

「嫁に貰う、ということです」

 澪が絶句していると、高嶺はまるで取り引きでもするかのようにしれっとした顔で続けた。

「どうやらお困りのようですが、私がついていればあなたは自由に外を歩ける。山を治めるのにも力を貸します。昔のように、もう少し見目よく化けることだってできるようになります。私はそちらの姿の方が気に入っていたのでね。……悪い話ではないと思いますよ」

「と――唐突に何を言っておる」

「分かりませんか? 恩を売りに来たのですよ」

 焦る澪をさらに萎縮させるかのように、高嶺の威圧感が増した。姿形は何も変わってはいないが、瞳が金色に輝いている。

「高嶺殿ほどのお方が、どうして儂などに執着する?」

「言ったでしょう? ……昔の姿の方がいいと。今の澪さんがあの姿を維持できないほどに磨り減っていることが、私にとっては耐え難いのです」

 獣の目が正面から獲物を捉えた。澪が最も苦手とする表情だ。そういえば、いつか聖が追い払った千里眼の少女もこんな目をしていたと思い出す。もっとも、高嶺と彼女ではその恐ろしさは比べるべくもない。

 これはまさに取り引きなのだ、と澪は悟った。高嶺は綺麗な姿の自分を人形のように側に置きたいだけなのだろう。だから澪が力を無くした――まさしく人形にふさわしい――今になって、こうして力を見せつけに現れたのだ。

 考えるまでもなく、闘ったところで高嶺に敵うはずもない。しかし、黙って白旗を揚げるわけにはいかない。彼の支配と引き替えに手に入れる自由などに、いったいどれほどの価値があるだろうか。

「こ――この山は、細々とでも自らの手で守っていきたいのじゃ。高嶺殿の手を煩わせるまでもない些事」

「しかし、澪さん――」

「今日は引き取ってはくれぬか。この通り、まともな話ができる状態でもない。……もしも儂を憎からず思うておるというならば、意を汲んではくれぬものかの。いずれ、また後で」

 何かを言いかけた高嶺の言葉の上から、澪は自らの震える声をかぶせた。今の澪には、哀れさをも武器にするしかなす術がない。

 高嶺の鋭い目の光が少しだけ揺らいだ。首根っこを押さえたはずの餌食から逆に提案を受けたのだ、思わぬ申し出に面食らうのも当然といえば当然の反応だろう。

 うまく同情を買うことができたのか、高嶺は意外にもあっさりと引いた。

「わかりましたよ。脅しと取られるのも不本意ですしね。その代わり、今度お会いするときにはじっくりと……ね。それまでに身の振り方を考えておいてくださいよ、澪さん」

 意味ありげににやりと笑うと、どう聞いても脅迫のような台詞を置きみやげに高嶺は踵を返した。単に澪をいたぶることに飽きただけなのか、他に何か思惑があるのかは分からないが、とにかく嵐は去っていく。

 その背中に何気なく目をやった澪の顔は、たちまち強ばった。

「澪さま――と、ええと」

 高嶺と向かい合うかのように困惑しきった顔で佇んでいたのは、他でもない聖だった。

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