第4話 音なき歌(後編)

「聖んちの裏の林、まだセミがいるらしいぞ」

 そんな話をクラスメート、雲本誠太郎から聞かされたのは、二学期が始まってしばらくしたころだった。

 耳栓を補聴器と偽って装着している手前、学校では『大音聖は聴力が弱い』という設定になっているのだった。彼、誠太郎は普段からそんな聖に気を使って、少し大きめの声で話してくれる。嘘をついていることを申し訳なく思いながらも、彼の優しさは聖にとって癒しでもあった。

「……っと。あー、ごめん。お前、耳が悪いから聞こえないかな」

「ううん、気にしなくていいよ。こんなに寒いのにセミがいるの?」

 この辺りに秋が来るのは早く、九月に入るとセミの声はマツムシやツユムシ、コオロギといった秋の虫たちに取って代わられる。少なくとも、通常モード、つまりは耳栓をした状態の聖の耳には、セミの声など届いてきてはいない。

「俺がじゃなくて、うちの爺ちゃんが。……山菜採りにあそこの林に入ったら、奥の方でセミ見たって言ってた。いつもならとっくにいなくなってるのにな」

「そだね。確かにもう時期じゃないよね」

「地球温暖化の影響だったりして」

 笑いながら地球レベルの話を振って、誠太郎は「不思議だよな」と首を傾げた。聖も一緒に笑おうとして、ふと『蝉』という単語が心に留まった。

 急に黙り込んだ聖に「どうかした?」と、誠太郎が不思議そうに呼びかける。

「ねえセータ、そのセミ鳴いてた?」

「え? ええと、爺ちゃんは羽音で気付いたって言ってたかな。ってことは、鳴いてないんじゃないか?」

 鳴かない蝉は雌だ。

 唐突に、夏休み中の出来事が頭を駆け巡った。嘉章を見つめる物言わぬ少女の話と、雌の蝉は鳴けないと言った澪の声、誠太郎との会話がすべて繋がるとしたら? 彼女が現れたのはいつ頃だった? 嘉章はまだ彼女を見かけているのだろうか? もし、万が一その蝉が彼女だとしたら?

 そういえばここ数日、嘉章から黒服の少女の話を聞いていない。

「それってどの辺の話? 見に行ってみたいから、だいたいの場所教えてよ。お願い!」

 ヨシ兄と夏休みに話した時、なんで言えなかったんだろう。後悔にさいなまれつつ、聖は誠太郎の肩を揺さぶりながら舌を噛みそうな勢いでまくし立てる。その勢いに押されながらも、誠太郎は快くルーズリーフに略図を書いてくれた。


 上の空で残りの授業を受けた聖は、放課後、隣の敷地にある小学校――嘉章の職場――を訪れた。校門の辺りで生徒たちに帰りの挨拶をしている嘉章を見つけて駆け寄ると、彼は「おう、お疲れさん」と片手を上げた。

「中学も今日は早かったんだな」

「うん。……ねえ、ヨシ兄さ、最近好きな人に会った? プール開放の時に会ったっていう女の人」

「どうした、藪から棒に」

「いいから答えてよ」

 嘉章はちょっと前の誠太郎のように、聖の勢いに多少驚きながらも「……ここ五日ほど見かけてないな」と寂しげに呟く。聖は焦りとともに、思わず嘉章の腕を取って引いていた。

「今ちょっと抜けられない? 一緒に来て欲しいところがあるんだ」

「今すぐ?」

 必死の形相で何度もうなずく聖を見て、嘉章は真面目な顔で「何かあったのか」と尋ねる。とにかく急用と言い張る聖に根負けして嘉章は一旦校内へと戻ると、他の先生に後を頼んできた、と再び現れた。

「僕についてきて。なるべく急いで」

 言うが早いか、聖はくるりと向きを変えて駆けだした。どちらかというと遠慮がちでおっとりしている聖がこれほど強引に行動したことは、嘉章の記憶には後にも先にも今、この時だけだった。嘉章は訳も分からずに聖の後に従いながら、先を行く従兄弟に尋ねる。

「そんなに焦って、どこに」

「アパートの裏の森」

「何で」

「ヨシ兄の好きな人に会えるかもしれない」

「好きな、人?」

 聖と違って現役学生ではなく、むしろ運動不足気味の嘉章には距離を離されないようにすることだけで精一杯だった。質問するのも息も絶え絶えといった苦しさの中、ほとんど単語のみしか口にできない。

「……セータに聞いた。うちの裏に、まだ蝉がいるって」

「蝉と、彼女と、いったいどういう」

「雌の蝉は鳴かないんだって、僕の――友だちが言ってた。ヨシ兄がその女の人に会うようになったの、蝉を逃がしてからすぐじゃない? その人、もしかして無口なんじゃなくて声が出せないんじゃないの?」

「お前まさか、あの子が、蝉だって」

 聖はその返事に、初めて立ち止まると嘉章を振り返って待った。もう、気味悪がられるなんて言っている余裕はない。あの時勇気を出せていたら、もっと違った流れが作れていたかもしれない。自分の不甲斐なさのせいで、嘉章に辛い思いをさせることになるかもしれない。ならばせめて今、従兄弟のためにできることをしたかった。

 追いついた嘉章は上半身を折るようにしてぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していたが、聖を直視する目はまるで射るような鋭さだった。気圧されそうなほど強い視線に、しかし聖も負けずに答える。

「僕には、証拠はないんだ。でも、可能性はあるでしょ?」

「そんな――」

「その人が蝉じゃないって確率の方が大きいけど、万一そうだとしたら、今行かないと一生逢えなくなるかもしれない。どうする、ヨシ兄」

 選択を迫る聖を、嘉章は穴が開くほどに見つめていた。

 蝉が人の姿に化けて会いに来る。そんな荒唐無稽な話があるのだろうか。

 聖の耳が特別製だということも彼が自分には聞こえない世界を知っていることも、嘉章は理解しているつもりでいた。しかし面と向かって、しかも自分に深く関わることについて言及されたのは初めてだ。

「急に言われても、俺には分からないよ」

「僕も、本当はどうしたらいいのか分からないんだ。……でももしもの時には、僕の耳がきっと役に立つ」

「ひー。お前、耳を使うって本気で言ってるのか」

「うん。都会にいた頃のことを思い出しちゃうと怖いけど、ヨシ兄のためならできる。だから、行ってみるだけ行ってみようと思ったんだ。……一緒に、来てくれない?」

 嘉章は思い出していた。聖の懸命な表情は、何ヶ月か前に泥まみれで家に帰って来るなり『草刈り鎌、ある?』と尋ねられたときに似ている。

 あれから、彼が少しずつだが確実に変わってきたことに、嘉章もおぼろげながら気付いていた。人の感情を受け止めすぎて壊れそうだった聖に、田舎で一緒に住まないかと声を掛けたのは去年。たとえ過去の記憶と闘いながらのやせ我慢だったとしても、震える息づかいを必死で封じ込め、聖は正面を向いて進むことを選んだのだろう。

「彼女が何であったとしても俺は会いたい。たとえ万が一でもチャンスは逃せないな」

「ありがとう、ヨシ兄」

「さ、連れてってくれ。……信じるよ、お前の勘と耳を」

「じゃあ、また走るからね!」

 俺も、選ばなければ。笑顔で再び駆けだした聖の頼もしい背中を、嘉章はひたすら追いかけて走った。


「この辺だと思う」

「黒くて長いワンピースの、三つ編みの子なんだ」

 誠太郎の地図に従ってたどり着いたのは、どうやら夏休み中に嘉章とともに蝉を放しに来た場所のようだった。秋になり、木々の見た目ががらりと変わったので確かではないが、なんとなく見覚えがある。聖は足元の藪に足を取られながら辺りを見回したが、人影はない。

 目で分からなければ耳を使う。聖が耳栓を外そうとしたところで、嘉章は声を上げた。

「待て! ……誰か、いる。倒れてる」

 やはり足をもたつかせながらも嘉章はとある木の方へと走り出す。

「ひー、あの子だ!」

 その声で、聖もようやく彼女に気付いた。草むらの中にうずくまる、蒼白と言っていいほどの白い肌に黒服、黒髪の高校生くらいの少女。嘉章が一歩、また一歩と踏み出して呼びかける。一瞬、彼女を通り越して向こう側、つまり地面が見えたような気がして聖は慌てて目を擦ったが、取り越し苦労だったらしい。特になんの変わりもなく少女はそこに居続けていた。

「ここ最近、姿が見えなかったから心配してた。……こんなところにいたんだな」

『…………!』

 少女は聖たちを認めると辛そうに身体を起こし、一生懸命口を動かす。しかし、嘉章にはもちろん、聖にさえも彼女の声が聞こえることはなかった。

「ごめん。何て言ってるのか俺には分からないんだ」

『こんなにもお慕い申しているのに伝えることすらできないなんて』

 聖が慌てて耳栓を外すと、とたんに美しい声が耳に飛びこんでくる。苦しそうに胸の内を叫ぶ声は、忘れもしないいつかの蝉のものだった。しかし、今はその可憐な声もただ悲痛に叫ぶだけで、こんなに近い距離で見つめ合っている二人なのに思いを伝え合うこともできない。好きだとただ一言を訴えたいだけなのに、嘉章には届かないのだ。

「何で聞こえないんだろうな。こんなに近いのに、何で!」

 嘉章が彼女の隣で、指が白くなるほどに拳をぐっと握りしめている。聖にはまだ経験のない感情――想う人を前にしても何もできない自分に対しての怒りが、嘉章を見たことのないほど険しい表情へと変えていた。

 その声に背中を押されて、聖も彼女の方に踏み出す。今、両方の言葉を聞いて二人の心を繋ぐことができるのは聖だけだ。少女を安心させようと無理矢理に笑顔を作ると、「僕、あなたが言ってること分かります」と聖は語りかけた。

「二人に幸せになって欲しいから、できることなら何でもします。僕は彼の従兄弟で聖っていいます」

『ほんとうに? どうしてあなたには聞こえるのか分かりませんが、甘えさせていただいてもいいのでしょうか?』

「任せてください。……あなたは、蝉なんですよね?」

 聖がうなずくのを見ると少女は目を見開いて、『ありがとう』と安心したようにぱっと微笑んだ。ほつれた三つ編みを軽く整え、藪の中できっちり正座をして、彼女は聖と嘉章の方に向き直ると一礼する。

『私は、かなでと申します。お分かりのようですが、あなたとあの方に林まで連れて行っていただいたひぐらしです』

 やっぱりそうだったんだと、彼女を無事に嘉章に引き合わせられた安心感で聖の身体からやや力が抜けた。しかし、自分が必要になるのはこれからだ、と慌てて気を引き締める。

「ヨシ兄。今からこの人の言うこと僕が代わりに伝えるから、しっかり聞いてて」

「……お前、聞こえるんだな。彼女の声が!」

 聖がうなずくと嘉章は心底嬉しそうに目を細めた。

 その笑顔に、聖の胸はずきんと痛む。蝉の成虫の寿命は約三週間、嘉章と聖の部屋に蝉が迷い込んできたのは一月ほど前。だとすると、彼女にはとっくにお迎えが来てもいいはずだ。嘉章だってかなでのことが好きなのに、二人が一緒にいられるのはこの瞬間だけなんてあまりに残酷ではないだろうか。

 嘉章は聖とかなでを交互に見ると、すぐに悲しそうな顔で自分の耳を指さした。

「でも、お前――」

「僕の心配はいいんだよ!」

 嘉章が大声にびくりと震えたのが分かった。聖自身も、自分の声で引き起こされた耳鳴りに思わず頭を抱える。目を見張る嘉章に、聖はかなでを振り返り早口で諭すかのように訴えた。

「怒鳴ってごめん。でも、ヨシ兄がいま一番気にしなきゃいけないのはこの人のことでしょ? 僕は大丈夫だから、ちゃんと聞いて欲しいんだ」

「ああ。……そうだな。お願いだ。彼女は俺に何が言いたいんだ、『聞き耳』」

 何かを決意したように、嘉章が大きくうなずく。そこでやっと憂いの表情がはげ落ち、彼はいつもの飄々とした風情を取り戻して聖と向き合った。

 人間から『聞き耳』と、冗談めかしてではなく真剣に呼ばれたのは初めてのことだった。例えつかの間の幸せだって、自分がしっかりしないと彼らからそれさえも取り上げてしまいかねない。聖は襟を正し、手短に彼女があの時の蝉の化身であること、話がしたくても声が出ないことを嘉章に伝える。

「名前は、かなでさん」

 自己紹介が嘉章に伝わると、かなでが問いかけた。

『聖さん、あの方のお名前は何とおっしゃるの?』

「ヨシアキです。里中、嘉章」

『嬉しい。やっとお名前が分かりました、嘉章さま』

 味わうように何度か嘉章さま、と繰り返しながら、かなではゆったりとした動作で少しだけ嘉章に近づき、彼の目の前でにっこりと笑った。

『迷い込んだ私を助けて下さったときからずっと、お慕いしておりました。あなたに焦がれるうち、気付けば浅ましくもあなたと同じ、人の姿になっていました。……見ているだけでも幸せだったけれど、私にはもう飛ぶ力さえも無く、ここしばらくはそれさえ叶いませんでした。まさか会いに来てくださるなんて、嬉しくて言葉もありません』

 聖はその隣に座り、かなでの言葉を一言一句間違えないようになぞって嘉章に伝える。かなでの、恐らく最期になる声は、彼の心にしっかりと届いているのだろうか。そっと表情を窺うと、嘉章は淡く微笑んだまま聖の声を聞き、かなでを優しく見つめていた。一緒に暮らしている聖の記憶にもないほどに、男らしい嘉章の顔だった。

『いつぞやは話しかけていただき、本当に幸せでした。あの時は何も伝えられずにお別れしましたが、こうして話ができて良かった。しかしながら、流れる時の早さが違いすぎました。私は虫、あなたは人』

「あなたは人。……私は、もう」

 そこで言葉を切り、聖は息を呑んでかなでを見る。それだけは、嘉章に伝えたくなかった。

「どうした、ひー」

 しかし、かなでの口が動くのをもどかしく見入っていた彼はすぐにしびれを切らし、鋭い口調で聖に催促する。口籠もる聖に、かなでは『辛い役をお願いして、ごめんなさい』と申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

『でも、嘘は吐きたくないの。私には、もう時間が』

「待ってください。ちゃんと言いますから」

 聖は大きな深呼吸ののち、かなでと同じように嘉章を見つめる。泣くことは後回しにできる。この時が訪れるのは、メッセンジャー役に全力を尽くすことに決めた際に分かっていたはずだ。眉を寄せて不安げに言葉を待つ嘉章に、聖は残酷な事実を告げなくてはならなかった。

「もう、こちらにいられません。嘉章さまに想いを伝えたいという未練だけでこの世に繋ぎ止められていましたが、それも叶った今、どうやら、さよならのようです」

『聖さん、あなたにはいくら感謝しても足りません。ありがとう』

 伝え終えると同時に、聖にだけ聞こえていた彼女の声はどんどん遠くなっていく。

 はっとして隣のかなでを見ると、ちょうど初めて会ったときの消えかけていた澪と同じように、彼女の身体は透け始めていた。みるみるうちに黄泉からの手に絡め取られるかなで。それは、澪とは比べものにならないほど急激に進んでいた。命の火が消えるときが来たのだと、聖、そして嘉章までもが直感的にそれを理解した刹那、嘉章の腕が奪い取るように彼女を抱きしめる。

『よ、嘉章さま!』

「ずいぶん、軽いんだ。……今の、俺の名前かな?」

 嘉章はかすかに動く彼女の口を食い入るように見つめると、やがてすぐに先ほどまでのように優しく微笑んだ。目を見開いたかなでは溢れる涙を拭おうともせずに、何度もうなずいて嘉章の名を呼んだ。

『嘉章さま。嘉章さま――』

「君の本当の声、聞いてあげられなくてごめんな。でもなんとなく、名前呼んでくれてるのは分かるよ。……俺だっていつも見てた。俺だって好きだ、かなでさん」

 かなではその言葉を聞くと満足げに破顔して、聖の耳だけに届く小さな小さな声で呟いた。

「何? おい、もう少し待ってくれ! 俺も――」

「行かないで!」

 叫んだ嘉章の腕も、かなでの手を掴もうとした聖の手もむなしく空を切る。二人が勢い余って草むらに倒れ込んだときには、もうどこにもかなでの姿はなかった。

 せめて『聞き耳』ができる最後の役目を努め上げようと、聖はため息を飲み込んで嘉章に伝える。

「……ありがとう、だって。最期の言葉」

「自分の言いたいことだけ、言いやがって。俺はまだ言い足りないのに。 ……俺も、好きになってくれてありがとうって、伝えたかった」

 嘉章は魂が抜けたような声で呟き、頭を抱えてしゃがみ込む。聖は動くことができずに彼の背中をぼんやりと眺めていたが、小刻みに震える肩をなるべく見ないようにとすぐに俯いた。

 長い長い間があって聖が物音に顔を上げると、嘉章が足下に転がっていた何かをそっとつまみ上げ、手のひらに乗せる。ゆらりと立ち上がった彼が聖に示したものは、蝉のなきがらだった。思いを告げるためだけに無理していたのが一目で分かるボロボロの翅が、聖には誇らしげで眩しかった。

「本当に、もう動かないんだな。もう逢えないのかな。あんなに可愛かったのに。……俺、今日のことは絶対忘れない。こんなこと言うとお前は怒るかもしれないけど、俺もかなでさんの本当の声を聞いてみたかったよ。いい声なんだろ?」

 蝉を手に乗せたまま、嘉章が呟く。耳を介して二人とすっかり同調していた聖はその気持ちが痛いほど分かって、声を詰まらせながら答えた。

「怒らないよ。本当に、きれいな声だった。……ねえ、ヨシ兄。どこかに埋めてあげよう。休ませてあげないと」

「……ああ」

 こうして、たった五分の対面は終わった。ぽたり、と涙がこぼれ落ちる音がすぐ隣から聞こえる。蝉がいなくなった森を吹き抜ける風の音がうるさくて、聖は静かに耳栓を着け直した。


 かなでとの別れから数日経って、ようやく気持ちの整理が付いた聖は澪に一部始終を打ち明けた。澪は黙って膝を抱え、聖と同じように広場の杉の木に背を預けて話を聞いていたが、やがてしんみりと呟いた。

「儚いものじゃな、好いた男の腕の中で罷るか。その娘、それで幸せだったのかの」

「きっと、そうだと思いますよ。ほんとに、最期の最期まで笑っていましたから。……それにしても、聞こえるだけじゃ駄目ですね」

「本当に、損な性分じゃな。儂は聞き耳でも何でもないが、お主の思っておることは聞くまでもなく分かるわ。どう頑張ったって、お主には『聞こえる』だけじゃぞ。それ以上のことを陰気にくよくよ考えるのはお主には似合わんと、先だっても言ったであろう。まあ、聞こえないふりができない心根、いくら止めても無駄であろうが」

 半ば呆れたような澪の言葉に、聖は苦笑いをして俯いた。澪には、彼が何を考えているのか手に取るように分かる。伝える以外に何もできなかったと自分を責め、悔いているのだ。

 澪からすれば、聖がたまたま『聞こえるように』生まれてしまったことにいったい何の責任が生じるのかとさえ思うのだ。たかが十年と少し生きた程度の聖、心意気はわからなくもないができることなど限られている。しかし、聞こえてしまった以上放っておけないのが聖の聖たる所以であり魅力でもあるのだった。

「聞こえるだけ、ですか」

「違うのか?」

「……いいえ」

「お主やお主の従兄弟が会いに行ったとて、かなでとやらの命が延びたわけではない。しかし、お主のおかげで笑顔で逝くことができたのだと思うぞ。胸を張るがよい」

 飾り気のない澪の優しさが、聖のひび割れた心を覆っていく。ここ数日ですっかり疲弊していた聖にとっては、その直球が心地よかった。

「聞こえることを受け止める器も作らねばならん。急ぐのはよいが、急ぎすぎると潰れかねん。都会で暮らせず移り住んできたのだって、恐らくそのような理由であろう? ……せっかく出会った聞き耳を潰しては、儂も夢見が悪いからな。助力は惜しまぬ。困りごとは儂の耳に入れよ」

 澪に聞いてもらうと、嘘のように心が軽くなる。見た目は同い年くらいでも実際は大先輩だということをこういうときに思い知らされる。ぶすっとした顔で返事を待っている澪を見て、聖は多少しょげながらも、同時に言いようのない安心感にも包まれていた。

 澪の言う器とは、つまり聖の心の余裕のことだろう。今回も、聖自身の他に嘉章、そしてかなでの心までも感じ取り、胸一杯に溜め込んだ思いの波が引くまでに数日を要した。聞いて伝えることすら精一杯なのに、処理しきれない過多な情報で消化不良を起こしている状態が今の自分だ。

「ありがとうございます。確かに僕はまだまだ修行の余地があるみたいですが、澪さまが手伝ってくださるなら頑張れるかもしれません」

「よく言うわ」

「本当ですよ。……頼りにしてもいいんですか」

「お主に救われた魂、お主のために使うのは当然のことぞ。……おう、それで思い出した」

 まるで慈愛溢れる母のような笑みを湛えた澪は、やがて年寄り臭くぽんと膝を打った。

「忘れるところであった。……お主、まだあやかしというものを理解していないようじゃな。儂を見ろ。命が尽き肉体が朽ちている身で、こうして存在できておる。これも、お主のおかげじゃ」

「僕のおかげ?」

 突然話題が変わり、聖は置いてけぼりをくらった。なぜ今その話なのか、聖がまさしく鳩が豆鉄砲を食ったような顔で首を傾げていると、澪に「もう忘れたか?」とジロリと睨まれた。

「よいか、誰かに求められることが儂らのようなあやかしの存在する意義であり条件。つまり嘉章とやらの思いがまことであれば、その娘もいつかは戻ってくるのではないかの」

「あ、そうか!」

 聖が、消えかけた澪の名を思いを込めて呼び続けたことで彼女はこちら側に戻ってくることができたのだった。聖の思いが澪を生かしているとするならば、嘉章の思いがかなでの魂を呼び戻すかもしれない。澪は、その可能性に賭けろと言いたいのだ。


 嘉章はしばらくは浮かない顔をしていたものの、ここのところは普段の明るさを取り戻していたように見えた。嘉章にとってかなりショックなできごとだったのは確かだろうが、彼は元来悲しみをそう引きずらない――実際後を引いていないかどうかは別として、外へ漏れ出さないようにするのが上手い人間だ。だから、そのうちにいつも通りの楽しい先生の顔に戻っているはずだとばかり思っていた。

 しかし、それは違った。唐突に、聖の耳の覆いを突き破るように嘉章の叫び声が飛び込んでくるときがあるのだ。

『……かなで! かなで。かなでに――会いたいな』

 嘉章の心の中の、聖が思っていたよりもずっと深いところに、かなでの思い出はしっかりと食い込んでいる。その傷は今もなお疼いてやまない。


 もたらされた朗報に、聖の胸は止めようもないほど高鳴った。居ても立ってもいられなくなり、跳ね起きるように立つと思わず澪の両手を取る。手を引かれて立ち上がった澪に、聖は上気した顔で「ありがとうございます!」と礼を述べた。

「何、構わぬ。それがお主の憂いを――」

「ヨシ兄なら絶対かなでさんを取り戻せるはずです。僕、今すぐ帰ってそのことをヨシ兄に伝えてきます!」

 澪がああ、と答える前に、聖は背を向けて駆け出していた。木の根を、溜まった落ち葉を軽やかに飛び越えて走る。と、小さくなった影が立ち止まって振り向いた。澪に向かって大きく手を振り、何か叫んでいる。

「あ、澪さま!」

「なんじゃ」

「この耳、もしかしたら好きになれるかもしれません。……それじゃあ、また明日!」


「……せわしない」

 下り坂を転がるように去っていく聖の背中を、澪は羨ましく見送った。なんて一途で、めまぐるしく動く生き物だろう。

 柄にもなく聖の従兄弟とかなでとの幸せを祈っている自分に、澪は微苦笑していた。人とあやかしは相容れないものだと思ってきたが、嘉章とかなでのように心を通わせられる者たちもいる。蝉も人間も澪から見れば短い一生だ。その中で好いた相手と互いに思い合い、必要とし合いながら、少しでも長く一緒に過ごしたいのだろう。

「好いた相手、ねえ」

 自分はこの先、そのように在ることができるだろうか。消えた後ろ姿を追いながら澪はため息をつく。聖に握られた両手だけがかっと熱を持っていた。

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