その、幽かな声を
良崎歓
第1話 至上の声(前編)
この上に、何かいる。
学校帰り、聖(ひじり)は久々に、耳に突き刺さるような声に思わず頭を抱えた。息が詰まるほどに強烈な耳鳴りとひどい頭痛。音の出どころを求めてあたりを見回すと、道路脇の藪の中に小山の頂上へと続く獣道が目に留まった。
道の向こうから、すすり泣くような、悲鳴のような嘆きが尾を引くように続いている。この泣き声は体と心に悪い。
思い返してみると、耳栓をしていてなお聞こえてくる声の持ち主はヒトでないものがほとんどだ。例えば桜の精だとか淵のヌシ、山の天狗さま、そんな彼らとの交流も聖にとってはすでに日常になっていた。それらの声はたいてい耳栓をすり抜けて響き、場合によっては頭痛や吐き気まで招くどよめきとなる。
転校を繰り返してこの山あいの中学校に巡り合い、やっと静かに暮らせる、そう思った矢先にこれだ。登下校のたびにこの声を聞かされるのではたまったものではない。聖は大きなため息をつくと、頭痛を堪えながら山の方へと歩み出した。
ウグイスやヒバリの囀りを聞きながら、山というよりは丘と表現した方がふさわしいだらだらと続く傾斜を登る。熊でも出てきそうなうっそうとした藪をかき分けながら道を辿っていくと、十分くらいでやや開けた場所に出た。その辺りだけは若干土が踏み固められていて、足下は相変わらず草むらながら見通しはいい。
聖はひととおり見回したが、声の主の姿はなかった。広場の真ん中には朽ちかけた小さな祠がひとつ、その隣にすっかり薄汚れた四手が寂しげな締め縄が巻かれた太いスギの木と、白い肌を晒す大岩。しかし、木の方は幹こそ立派だが見上げた梢はすでに枯れ、寒々しい格好を晒していた。
「誰かいるんですか」
『……儂の声が聞こえるのか?』
古めかしい言葉づかいとはミスマッチな、若い女の鈴を転がすように美しい声。先ほどまでよりは絞ったボリュームで、鼓膜を震わせない『音ではない声』が聖の耳に届いた。かつて聞いたことがないほどの佳音にうっとりしながらも、聖は頷くと「僕はちょっと特殊なんです」と返す。
「あなたが誰なのかはわからないんですが、僕はあなたに危害を加えるつもりはありません。ただ、もう少しだけ小さい声で話してもらえればと思って、お願いに来ました。あなたの声は僕には大きすぎるみたいなんです」
「これでよいのか」
気を遣ってくれたらしく、今度は耳栓が役に立つ音、生の声がごく近くで聞こえた。直接語りかけるのを止めてくれたおかげで頭痛は嘘のように去っている。いきなり喧嘩を売られたらどうしようかとビクビクしていたけれど、話の通じる相手で良かった。
聖が辺りを見回すと、いつの間に現れたのか、聖と同じくらいの歳の女の子が祠の横に座っていた。雪のように白い着物に、木漏れ日を受けて輝く栗色の髪の毛がよく映えている。長い睫毛も栗色で、黒目がちの大きな目を花々しく縁取っていた。
しかし、見た目は完全に人間に化けていても――どれだけ美しくても、恐らく人外の何かのはずだ。
「ああ、楽になりました。ありがとうございます。僕、耳が良すぎるみたいで、ちょっとした音もものすごい衝撃なんです。……僕は大音聖(おおど ひじり)、中学二年……十四歳です。ええと、あなたのお名前は」
「儂か。……そうじゃな、必要なら澪とでも呼んでくれ」
「みお、さん。澪さま、の方がいいですか?」
「どちらでも構わぬ、どうせもともと名もなき身。……して、お主はいったい何者じゃ? 耳が良すぎると言っておったが、もしや『聞き耳』か?」
澪は静かに立ち上がり、腰のあたりを何度かはたいて聖の方へと歩み寄る。背はそう大きくなく、この姿の澪と同じ程度。まん丸い目にまっすぐな黒い髪が素直そうな印象を与える少年は、なぜか耳に詰め物をしていた。
澪が数十年ぶり、もしかしたらそれよりも久しく見る人間の姿は、彼女の古い記憶とは少々違っていた。カラスのように黒い窮屈そうな服を着込み、紐がじゃらじゃらと付いた丈夫そうな履き物を身につけている。その膝から下が泥まみれになっているのを認めて、澪の胸は痛んだ。ここにたどり着くまでの道程がそこまで荒れてしまうくらい時が流れているのでは、どうりで山の外の人間の様子がすっかり変わってしまうはずだ。そんなに長い間ここには誰も訪れていないのかと、改めて肩を落とした。
「僕はただの子供ですよ」
「ただのヒトであるわけがなかろう? 聞き耳とは神の声を聞く巫女。男わらしの聞き耳とは珍しいのう」
人間の姿をとるにも、今の澪には子供の外見をなんとか保つ程度の力しか残されていなかった。この姿にさえかなりの労力を注ぎ込んでいる。この頃では現世に形を成すこそすらおぼつかず、体が透けるように感じることさえあった。そんな今の自分に気付くほどの力の持ち主ならば――そんな淡い期待をそっと排して、声なき声を聞き取ったという目の前の少年を見澄ます。
「しかし、しばらく村に下りぬうちに人間の格好もずいぶん変わったものじゃな」
物分かりのいい化け物かと思ったら、人の話なんて全然聞いていない。澪の大きな瞳から穴が開くほどに視線を注がれて、正体が異形のものと頭の中では分かっていながらも聖はむずがゆくなって俯いた。
聖はこれまでにも何度か聞き耳と呼ばれたことはあったけれど、いずれも異界の住人からの言だった。澪が聖に関心を持つのは当たり前のことで、聖のような能力者は人間社会にとっては異分子でも、澪たちにしてみれば大切なメッセンジャーになり得る。特に『聞き耳』は自分たちの思いを人間に直接告げるための数少ない手段の一つだ。
しかし、耳がいいとは言っても、聖にはそのほかの力は何もない。例えば、妖怪退治やお払いができるとか、結界を張れるとか、霊感が強いとか、そういう実用的な能力は何一つ備わっていない。だから、澪のように人間でない者と触れ合うときには、身を守るために細心の注意を払う必要がある。
バスケットシューズを物珍しそうに眺めている澪に、聖は言葉を掛けた。
「必要以上に干渉するのはご迷惑だとは思いますが、僕を聞き耳と呼ぶ方ならお分かりですよね。できればもう少しだけ静かにしていただけるとありがたいんですが」
一方、澪はようやく聖の観察をやめると肩をすくめた。
「まさか、聞き耳が通りかかるとは思わなかったものでな。……どうせ、儂がここにいられるのもあとわずかじゃ。お主の憂いはいずれ近いうちに除かれよう」
狩りの神様じゃ現代ではあやかりたい人は少なそうだと、聖は先ほどの下草に埋まった獣道を思い出していた。自分のお節介さを恨めしく思いながら、聖はあきらめの境地とも言える心境で聞いてみた。
「澪さま。……失礼ですが、泣いていらっしゃいましたよね。あとわずかって、どうしてですか?」
この前、他人に名を呼ばれたのはいつのことだったろうと考えてみたが、澪には思い出せなかった。澪、と誰かが呼ぶための名前、それは呼ぶ者がいなければないに等しい。
祀ってくれる者がいないと存在する意味がない、神としての自分の命と同じ。自分を現世に繋ぎ止めるためには詣でてくれる人間の思いが必要なのだ。このままでは、いずれは存在することさえできなくなる――と、澪はすでに悟っていた。自分が神となったのも運命なら、忘れられるのもまた運命なのだろう。
「儂はこの山のヌシ、本性は銀の鹿じゃ。昔は風の化身だ、狩りの守り神だと篤く信じられておったのじゃが、今ではこの体たらくよ。……よく見ておれ」
澪は聖の目の前に自分の手をかざした。着物と同様に真っ白い澪の指は聖が見ほれるほど綺麗で細かった。言われたとおり見つめていると、その手のひらは何の前触れもなくすっと透けて向こう側、澪の顔が見えた。聖がぎょっとして澪を見ると、彼女はぼろぼろの祠を振り返って自嘲の笑みを浮かべた。
「分かったろう。儂はもう消えかけておるのじゃ。お主がここに来たおかげで幾ばくかは長らえそうじゃが、それでもあとわずかしか持たぬ。今日か、明日か。……やかましいのは、もう少しだけ我慢してくれぬか」
きっと、目の前の少年が、言葉を交わす最後の人間になるだろうと澪は覚悟していた。しかし、いくら聞き耳とはいえ、こんな雛鳥に打ち明け話をする姿を想像したことがあっただろうか。
「儂は、時を経るごとに存在自体が弱くなってきておる。みなが、儂のことを忘れてしまっているからじゃ。……消えてしまう前にせめて一度で良いからこの山を下りて村を目に焼き付けておきたかったんじゃが、儂の今の力では村へ行くなどとうてい無理。それが心残りでな」
「もう、諦めてしまっているんですね」
「不躾な小僧だのう。……まあよい。そうじゃな、たとえ明日逝ってもお主に儂のことを聞き覚えてもらえれば満足じゃ」
あまりに優等生的な返答に、聖は眉をひそめた。
聖に隠し事ができる者は、おそらくこの世には存在しない。この力にお人好しな性格とは、何て損をする星のもとに生まれてしまったのだろう。気味悪がられたりうざったいと思われたりしても、困ってる人、いや人でないものの嘆きでさえ見捨てることなんてできやしないということは自分がいちばんよく知っている。
落ちぶれたとはいえさすがは神と言うべきなのか、姿を現してからの澪は漏れ出す声を見事に抑えこんでいて、聖が聞き取れたのはごくかすかな囁き程度に過ぎなかった。しかしその想いや山の外で聞いた憂いの声は今の彼女の話とは大きく食い違っている。
――もっともっと大きな声を聞かなくては。
「澪さま。……僕は物心付いたときから音の洪水の中で暮らしてきました。最近は耳栓さえしていればどうにか人並みの聴力で生きていけるって分かって、おかげで同級生が自分のことをどう思っているかとか、家族が僕の力のせいでどんなに苦労しているかとか、いろいろ知らずにすんでいます。でも、それじゃいけないって思うときもあるんですよ」
澪がきょとんとして見守る中、聖は軽く伸びをして心を落ち着けると、多少ためらいながらも耳栓を外した。途端に音の嵐が聖に襲いかかってくる。鳥の声はもちろん、木々のざわめき、蝶の羽ばたき、村の外を走る車の音、遠くから駆けてくる子供の足音、そしてひときわ大きい、絹を裂くような澪の心の悲鳴。ともすれば騒音に自らを攫われそうになりながら、聖は必死で耳を澄まして彼女の声を拾った。
「僕の耳には、場合によっては他人の心の中の叫びとか、人ではないモノたちの呻きまで、周りのありとあらゆる音が勝手に入ってきます。相手が自分ですら気づいていない本音まで嫌でも聞き取ってしまう、異常な耳なんです。だから、分かっているつもりです。……澪さまのお話は建て前だ。心残りなのは村を見られないことじゃない。僕には聞こえて――」
「黙れ。……儂に意見するとは何様のつもりじゃ、小僧。化け物や神などというものは誰にも祀られず忘れられてしまえば消えゆく運命。ヒトに見向きもされなくなった今、儂など要らぬ。それが世の習いじゃ」
瞳が赤く輝いたかと思うと、瞬く間に澪の姿は消え、ごうごうという山鳴りとともに強い風が吹き出した。とつぜんの轟音に聖は一瞬気が遠くなりかけたが、倒れながら、飛ばされないように足下の蔓を掴んだ。すでに消えかけている神とは思えないほどの力が辺りの木々を揺らし、まるで滝に打たれているような風圧に息をするのも辛い中、聖は声を張り上げた。
「こんなことに力を使っちゃダメだ! 消えるのが早くなっちゃう!」
しかし澪の操る烈風は止まず、聖の叫びを端からかき消していく。姿を隠したままの澪の、抑揚のない声が聖の頭へと響いてきた。
『去るがいい、聞き耳』
「澪さま!」
『久々に話し相手が来てくれて、楽しかったぞ。……さらばじゃ』
「み――」
ひときわ激しい風に握っていた蔓が鈍い音を立てて切れ、宙を浮く感覚を最後に聖の意識は途切れた。
澪に吹き飛ばされた聖が目を覚ましたのは、先ほどの参道の入り口だった。日は大きく傾き、辺りが黄昏の色に染まりつつある頃。広場にいた時間はそう長くはないはずだから、割とのんびりと気を失っていたことになる。
余裕はなかっただろうに、変なところで気を使ってくれる神様だ――ご丁寧に木にもたれかかるような格好で座らされていたのに気づき、聖は思わず苦笑いした。学生服には泥や枯れ葉がまとわりついていて、まるで遭難して一晩山を歩き回ったかのようなひどい格好だった。ちゃんとクリーニングに出しておかないと、と考えたところで、聖は現実を噛み締めた。
あれだけの無理をして澪は果たして無事でいるのか、それだけが気がかりだった。澪の本当の願いは自分にしか分からないものだったのに、ちゃんと聞いてあげられなかった――聖は、それをひたすらに悔やんだ。
澪の声はもう聞こえなかったので、聖は仕方なく耳栓を身に着けた。向こうの世界にあまり関わらない方がいいとは思うものの、このままではあまりにもやるせない。こんなに後味の悪い別れ方があるものか。
あの美しい声をもう一度聞きたい。
まだ間に合うのならどうにかして澪を救いたい、けれど果たして何かいい方法があるのか。澪の話に、何かヒントはなかったか。
幸い明日は休日だから、少し夜更かしと早起きをすれば考えを練り、山に入る時間は充分に取れる。聞き耳には、聞き耳にしかできないことがきっとあるはずだ。
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