第24話 この、確かな声を【3】
澪は、何をするでもなくただ座っていた。
昨日、聖は来なかった。今日も訪ねてくる気配はない。
昨日今日といわず、恐らく彼はもう二度とこの山へ登ってはこないだろう。澪の願いを聞かない聖ではないはずだから。これで、聖を煩わせることもないし、彼から未来を奪わずに済む。
いくらそう思っても、欠けた胸の中は埋まらぬまま。
虚ろな理由などとうに明らかだったが、澪はあえて考えないようにしていた。考え出すと、空っぽのはずの胸に、刃物がゆっくりと押し込まれるような痛みを覚える。心が音もなくどくりどくりと血を流し、止まらない。
化け物がヒトに心を寄せるなど、あってはならなかったのだろうか。
――いや、あってはならないはずがない。聖がそう教えてくれたではないか。
目を閉じれば、瞼の裏に聖の顔が浮かぶ。聖が話していた、人間とあやかしたちの幸せそうな話が耳にこだまする。
住んでいる世界が違っていたって、幸せは掴むことができる。そんなことは分かっていた。自分の身を捧げてまで澪を生かしたいという、聖の覚悟だって本物だと知っていた。彼を食らう覚悟がなかったのは――。
「……覚悟がなかったのは、儂の方か」
また独り言だ、と澪が投げやりに笑おうとすると、誰かが相槌を打った。
「何の覚悟ですか?」
予期せぬ声に、澪は跳ねるように顔を上げた。考え込んでいたせいか、何者かが縄張りを破っていたなんて全く気付かなかった。
そこに立っていたのは、きつい目の光を放つ長身の男――高嶺だった。
――聖では、ない。
当たり前だ。聖にもう来るなと言ったのは、澪自身なのだから。
高嶺は澪の心中など知らず、相変わらずのわざとらしい丁寧さで挨拶する。
「ご無沙汰しておりました、澪さん」
「ふん」
「相変わらずつれない」
高嶺は喉の奥で、くくっ、と笑った。澪から言わせてもらえば彼の方こそつれないのだが、そもそも対等に話ができる相手でもない。
聖とのあれこれでただでさえ弱っているときに、高嶺の相手は辛い。だが、こちらに闘う用意がない以上、今日もやり過ごさなくてはならないだろう。
ずかずかと人の縄張りに入ってきた高嶺に苛立ちを抑えつつ、まずは様子見と、澪は軽く嫌味を呟く。
「ひとの山には入らないと言ったのは、どこのどちら様だったか」
「おや、ずいぶんとご機嫌斜めですね」
誰のせいだと思っている、と言う代わりに、澪は高嶺を半眼で見つめた。そんな視線などお構いなしに、彼は続けた。
「たまたまそばを通りかかったんですが、いつもの人間の臭いがなかったものでね。今日なら、澪さんとじっくりお話ができるかと思ったわけです。無断でここまで上がり込んだことは謝りますよ」
高嶺は、形だけの謝罪をしてみせる。
わざわざ聖がいない日を狙ってきたということか。
先日高嶺が訪れたときも聖はいなかった。高嶺の性格を鑑みるに、聖に興味がないということは、すなわち高嶺が聖の能力に気付いてはいないということだ。もし気付いていたなら、きっと今頃聖は環と同じ運命にあっただろう。今のところ、高嶺は聖を邪魔な人間としか認識していないのだ。
それは、こちらにとっては好都合だ。
「謝るくらいなら、出て行ってはくれぬものかのう」
「それは無理ですね」
「では、用件をなるべく簡潔にお願いしたい。……少し、疲れておるのでな」
「私を早く帰らせたい、と」
「……そういうわけではないが」
「私とあの子供が鉢合わせするのを、どうにか回避しようと思っているのでしょう? そんなに、あの人間が愛しいのですか」
即答はできなかった。
――儂に、聖への思いを口にする資格などない。いや、聖の身の安全を考えれば、高嶺にそう思わせてはならない。
だからこそ、澪は高嶺に本当のことを告げた。
「違う。……あやつはもうここには来ぬよ。先日、追い払ったばかりじゃ」
「嘘の臭いしかしねぇんだよ」
何の前触れもなく、高嶺の口調ががらりと変わった。鋭い目が、先ほどまでとは別人のような凶暴さをまき散らす。
「正直に言えよ。あの餓鬼がお気に入りなんだろ?」
高嶺は澪の顎に指を掛けると、澪の抵抗など気にかけず、無理やり上を向かせた。
唇の端から覗く鋭い犬歯が、いやおうなく澪の目に飛び込んでくる。ヒトの態をするときにも、彼はこの牙を隠さない。刃のような歯が自らの首に付き立つ画を想像して、澪は身震いした。
これが、環が警告していた高嶺の本性なのか。澪は、合わない歯の根を隠すように唇を引き結ぶ。
「追っ払う理由なんかねえだろう」
「嘘はついておらぬ。あの人間との縁は切った。あやつと儂は、もう無関係よ。些細な喧嘩が元でのう。……もう、顔――も、見たくない……」
こころが痛かった。聖のことを口にするたび、胸の奥の傷が開く。澪は、自分で自分の傷口を抉っていった。
「白々しい」
高嶺はいきなり腕を伸ばしてきた。大きな手が澪の首を楽々と掴み、喉を潰すように力が込められた。澪は自らの首元に手をやってもがいたが、高嶺の力は緩まない。
「何を――する」
「てめえごときが俺に敵うかよ」
そのまま後ろに勢いよく押され、澪は地面に後頭部と背中をしたたかに打ち付けた。目が眩み、視界が真っ白になる。
「……う、うう」
ぶつけた頭が痛み、澪は思わず唸った。
遠のいた意識を取り戻したときには、仰向けで倒れた澪の腹の上に、高嶺が馬乗りになっていた。いつもの薄笑いではなく、こんな顔を隠していたのかと驚くほどに嗜虐的な表情で澪を見下ろしている。
「お下がりは好きじゃねえんでな。さっさと寝取ってやるよ」
「求婚だの手元に置きたいだのと散々甘い言葉を使っておいて、今度は寝取るじゃと? 素直に食うと言うたらどうじゃ」
「食って、力を取り上げて、俺の庇護なしでは生きられないようにしてやる。間違っちゃいねえだろう?」
「……この程度のあやかしなどほかにも沢山おるだろうに、何故儂なのだ」
「見た目が好みだと、前に言ったがな」
「嘘の臭いがするがのう」
澪が高嶺の言葉を借りてそう言うと、本人は鼻で笑った。
「そういうやせ我慢ができる度胸もいい。……それに免じて一つだけ言やあ――俺と同じだからだ」
「何?」
「さてね」
彼は澪に考える余裕など与えてはくれない。
「てめえは、自分の身よりあの餓鬼のことが心配なんだろう? 安心しろ。人間には興味はねえよ。それに、あいつを生かしておけばてめえの命は繋がるんだろう? その間、俺はお前で遊べるわけだ。まだ使えるおもちゃを捨てるほど阿呆じゃねえ。消えねえ程度に加減してやるよ」
高嶺に組み敷かれたまま、澪はにやりと笑った。
聖と添えず、高嶺に飼い殺されるくらいなら足掻いてみたい。死に急ぐのは趣味ではないが、最後の一蹴りを食らわして散るのも悪くない。環には謝らねばならないだろうが、『やっつける』のは無理でも、一撃加えるくらいはできるかもしれない。
「覚えておくがよい。儂の体と力がお主のものになっても、胸の中まではやらん。……こころは、他の誰にも、開かぬ」
言い終わるが早いか、澪はあらん限りの力で念じた。
高嶺の背中で、風が捲く。それはやがて轟音となって森の木々を揺すった。解け残りの雪がまるで吹雪のように空を舞う。
風で飛ばされた枝や石が高嶺の体や顔を容赦なく打ち、その度に鈍い音を立てた。折れた枝が彼の頬を抉った。しかし、いくらものが当たり傷ついても、高嶺は澪の腹の上に座ったまま表情を変えない。
やがて、澪の目から赤い色が引いていった。もともと乏しかった力を使い過ぎ、精も根も尽きた。澪の一撃は、確かに高嶺に届いた。届いたのだが――。
「終わりか?」
高嶺は頬を伝う自らの血をぺろりと舐めた。狼の性を剥き出しにしている今の高嶺には、朱く染まった唇が妙に似合っている。それが綺麗だと思ってしまった自分が悔しくて情けなく、澪は臍を噛んだ。
「無駄に暴れちゃあ、俺の取り分が減るじゃねえか。並のあやかしなら相当に効いてただろうが、あいにくと打たれ強いんでね。……鹿は久しぶりだ。味わわせて貰うぜ」
澪は、はあはあという荒い呼吸でそれに答えるほかなかった。
――もはや、これまで。儂は、高嶺殿のものになる。
動けなくなった澪の体に高嶺が覆い被さった。抵抗する力は、澪にはない。さっき見た鋭い牙が、澪の肩口に食い込もうとしている。たまらず、澪は静かに目を閉じた。
思うのは聖のことだった。雫が一筋、目尻から伝う。
――儂の心は聖ひとりのもの。……さらば、聖。
ぷつりと皮膚が切れる音がして、鉄に似た臭いが澪の鼻に届く。同時に、すうっと気が遠くなった。
耳元で、愉悦に浸る高嶺の声が聞こえる。水っぽいぴちゃぴちゃという音がする。
「旨いな」
首元を生温かい液体が流れてゆく。高嶺はその傷に直接口を付け、舐め、食って――いるらしかった。『食われる』ことはどれだけ苦しいだろうかと思っていたが、思いのほか痛くはない。澪の中には、何の感情も生じなかった。冷たさも温かさもない。ただ、思考が止まり、意識が薄れ、体が軽くなっていくような気がする。
「澪さま!」
よく知るヒトの声が、澪の耳を打った。
そんなはずはない、と澪は自分の考えを打ち消した。ひどい言葉を投げつけて、一方的に背を向けたのだ。来てくれるはずが――助けに来てくれるはずがないではないか、と。助かりたいあまり、聞こえもしない声を聞いたに違いないと。
――違う。儂が、聖の声を聞き違えるわけがない。たとえば吐息のひとつでさえも、聖のことならば分かる。覚えている。
しかし、それでも信じられぬまま、高嶺に押さえ込まれた体をできる限りよじる。視界の隅に少しだけ見えたのは、見覚えのある靴だった。
「またお前か。……邪魔だ!」
地鳴りのようにも聞こえる高嶺の怒号が、山に響き渡る。
普通の人間なら足がすくんでしまうほどの威圧を感じるであろうその声にも、彼は動じなかった。泥だらけの靴を履いた足が、迷い無くこちらへ駆けてくる。体と体がぶつかり合う音がして、視界を占めていた高嶺の姿が消えた。
代わりにこちらを覗き込んだのは、聖だった。
「澪さま」
澪が慌てて上半身を起こしたところで、聖が肩を貸してくれた。澪は、もはやひとりで立つことすらできなかった。すでにかなりの力を使い、また、高嶺に食われていたのだ。
聖が澪のふらつく体を支え、まだ体勢を立て直すことができていない高嶺から少し離れたところへと運ぶ。
「怖かったでしょう?」
温かい手が澪の涙を拭い、夢か幻と思えた聖の姿が現実だと、澪は知った。
「来るなと言ったろうが」
「そんなこと、聞いてません」
「この――うつけ」
澪が弱々しく毒づく。
うっすらと雪化粧した獣道。日陰の斜面は凍り付いていてよく滑り、何度か転んだ。立ち止まったぬかるみに自分のものではない足跡を見つけ、それが高嶺のものであると聖は直感した。そこから大急ぎで山を登ってきて、なんとか間に合った。
――いや、間に合ってない。自分がもう少し早ければ結果は違ったかもしれないのに。
澪と高嶺との間にいったい何があったのか、聖は分からない。ただ、高嶺に襲われている澪を見て、頭に血が上った。助けなくては、と思った。
聖は、息も絶え絶えな様子の澪をそっと横たえる。澪の真っ白な着物は胸元が大きく開かれて、その襟には何か赤いものが見える。どうも、怪我をして出血しているらしかった。いつもなら隠しているはずの、毛皮に覆われた耳や尾が露出していた。かろうじて人型を保っている、といったところだろうか。
「やりやがったな。一張羅が台無しだ」
高嶺は泥を払い、起き上がった。底冷えのするような光を瞳に湛え、言葉とは裏腹に笑う。今日の高嶺はこの前会ったときとは違い、もう本音を隠してはいないようだった。頬はざっくりと切れ、そして口の周りは赤黒く色づいている。そのせいか、いかにも狼のような、ぎらりとした鋭さが強調されていた。
「食事の邪魔を」
「食事だって?」
手の甲で口を拭き、さらにその手を舌で舐め取る高嶺。その赤が澪の血だと気づき、聖は言葉を失う。本性を表した高嶺と、急激に弱りゆく澪。首には血が滲んでいる。それらが何を意味しているのか、聖は悟った。
高嶺を前にしているにも関わらず、聖の体は恐怖ではなく怒りで震えていた。全身の血が沸騰でもしたのではないかと思えるほど体が熱い。
「お前、澪さまを」
「まだ途中だったんだがな。無粋な輩が乱入してきたんでね」
澪を征服した昂揚感からか、上気した高嶺の顔。それが、聖には歪んで見えた。それほどまでに強く、聖は高嶺を睨み付けていた。
――食ったんだ。こいつ、澪さまを。
体のどこかから、ぎりっ、という硬質な音がした。聖自身の歯ぎしりだった。
罵倒の言葉など、多くは知らなかった。言いたいことは数え切れないほどあったが、声にならない。
「この――けだもの」
「間違っちゃいねえな。俺は昔からそうしてきた。強いものがより旨い肉を喰える、それが当たり前だろう? 枯れかけの澪にはそんなに期待はしちゃいなかったが、なかなかだ。あの娘――赤い眼鏡の千里眼よりも、数段いい」
「赤い、眼鏡?」
意外な単語に、聖は少しだけ冷静になった。
千里眼とは環のことだろう。先日、何故か道端に落ちていた彼女の伊達眼鏡は、聖の机の引き出しにしまってある。
しかし、高嶺がなぜ環のことを知っているのか。そういえば近頃、環のことで何か引っかかることがあった気がしたが何だっただろう――少し考えて、すぐに思い当たった。おととい聖が澪の心を聞いたとき、なぜか環の名が出てきたのだ。
環は先日、聖のところにも顔を出してくれた。澪のところにも行くと言っていたけれど、その途中で高嶺ともめ事でもあったのかもしれない。いかにも衝突しそうだ。
「環さんが、何だっていうんだ」
「この餓鬼、何も知らねえのか? 知り合いならば教えてやるのが親切ってもんじゃねえのか、澪」
「それは」
澪が不自然に口ごもる。
聖は澪を見た。澪は相変わらず横になったまま、何かを訴えるようにこちらを見つめ返している。とても悲しげな目をしていた。
『すまぬ、環。もはやこれまでじゃ。……環はただのヒトとなった。高嶺殿に――』
澪の心を最後まで聞くことなく、聖は目を見開いて高嶺の方に向き直る。高嶺は何も答えず口元を緩めただけだったが、聖の耳は彼の声を捉えていた。
『たまき、なあ。そんな名だったのか。味は良かったが大した力じゃなかったな。磨くのを怠ったヒトの力など、所詮あんなものか』
――環さんを――澪さまだけではなく、環さんまで食っていたのか。
高嶺は、自分が手に掛けた者たちの名すら覚えていない。
きっと、環が名乗る間も与えずに食らったのだ。彼女がどんな思いで力を封じて生きる道を選んだのか、高嶺にはその長い一生を掛けたって分かるまい。それを、あんなものと片付けるのか。
「あんなものか、だと? ……ふざけるなよ。あの人はこれから生き直すはずだった。それを踏みにじって、よくそんなことが言えるな!」
「それ以上はやめよ」
苦しい息の下から、澪が聖を鋭く制止する。次いで、聖だけに向けて声が飛んだ。
『早まるな。高嶺どのは、そこまで口にはしておらぬ』
しかし、すでに遅い。高嶺は顎に手をやって首を傾げていた。
「どうもおかしいとは思ってたんだよ。てめえは、消えかけた山奥の鹿にどうして気付いた? 今、俺の心をどうやって読んだ?」
聖を値踏みするように高嶺の目が光る。頭の奥まで見透かされそうな視線に、聖は体を硬くした。
「さてはてめえも異能だな。腹の足しになる力か?」
「それほどの強さがあっても、他人から盗らずにいられないのは――なぜなんだ?」
聖は、それがずっと気にかかっていた。もちろん、聞き耳から話を逸らし、時間を稼ぐ目的もあった。しかし、それだけはどうしても高嶺の口から聞いてみたいと思っていたのだ。
「美しいものと強いものが好きなだけだ。……澪は俺好みに仕上がってたんだが、どこかの人間のせいで台無しだぜ」
『目の前の恐怖に耐える顔もなかなかそそるもんだが、昔の澪は怯える表情がそれは美しかった。同じ恐れを知る者として、これでもいろいろと気に掛けてやったんだがな。……いや、そんな昔のことなどとうに忘れた、か』
自らの言葉――実際は、声にならない声、というやつだが――を、すぐに打ち消す。挑発的な表情は崩さず、高嶺は聖の後ろにいる澪を見ていた。
同じ恐れ、と言ったのだろうか。これほど強靱な心と体を持つ神、高嶺ともあろうものが忘れたい記憶とは何だ。澪と同じ恐怖とは何だ。今、彼女が直面している恐れとは何だ。
――それは、力が尽きて消滅すること。
聖の中で、何かが、すとん、と収まりのいいところに落ちたような気がした。もしや、高嶺も澪と『同じ』ように、消えかけたことがあるのではなかろうか。
だとすれば、一度消えかけたことがある澪に執着するのも納得はいく。その孤独を共有する相手は、きっとそう多くない。その中で、いちばん身近にいて高嶺のお眼鏡にかなったのが澪だったのだろう。
他人を食ってまで自分を高めたい心理も、それなら分からなくもない。そもそも高嶺は狼だから、弱いものを自らの血肉にすることにためらいはないのだ。そうだとしても、澪や環にしたことはとても許せるものではないけれど。
「どうして、澪さまにこだわる」
「さてね」
案の定、高嶺は答えない。
「そろそろ、俺の質問にも答えて欲しいんだが」
「どうせそれを聞いた後で、僕も澪さまも食うんだろう?」
「よく分かってるじゃねえか」
「だったら、嫌だ」
少しでも時間を稼ぎたい、と思った。
冷え切った澪の体に、包み込むように優しく触れる。高嶺の目から守るため、聖は彼女を抱きかかえた。
――これで、高嶺には僕の背中しか見えないだろう。
聖は、澪にしか届かない小さな小さな声で囁いた。
「澪さま」
「……すまぬ」
「謝るのは変です。僕、初めて自分の力を自分の幸せのために使おうとしてるんですから」
「儂は人間ではない。獣じゃ。鹿じゃぞ。それに、お主の何十倍も生きておる年増じゃ」
「知ってます。そんなの、どうでもいい。一目惚れなんです。この耳は、きっとあなたに出会うために授かったものだって、今は思ってる。僕、澪さまの声をずっと――できるなら死ぬまで、聞いてたい」
「この、大馬鹿。口ばかり上手くなりおって。……嬉しいことを」
言うなり、澪は聖の胸に顔を埋めた。
「み、澪さま?」
『もう少し、寄れるか?』
澪は口には出さずに、直接心で伝えてきた。聖は返事をせずに、頬が触れるほどの距離まで顔を近づけた。
『温かいな。聖の側にいると、儂も温かい。そんなことは、とうに知っておったのに。……先に詫びておくぞ。本当に、すまぬ』
閉じかけた瞼を細め、澪が微笑む。彼女が何を詫びたのか、聖にはすぐに分かった。
遠くで高嶺が何か言っている声、近づく足音が聞こえるような気がした。しかし聖は無視して、澪の声に集中するため、目を閉じる。
『見ての通り、ちと、高嶺殿に食われてな。儂が不甲斐ないせいでこのざまじゃ。もう少し力があればこんなことにはならなかったろうに、口惜しくてならん』
落ち着いた口調のなかに滲む気迫のようなものが、澪の覚悟を示していた。これが、恐らく『聞き耳』が捉える最後の声になるだろう。聖はじっくりと味わいたくて耳を澄ます。
『なあ、聖。愚かだと笑うものもおろうが、儂は聖と同じものを見聞きしてみたい。……それゆえ、お主を――お主の力を、儂のものにする。よいか?』
次の瞬間、聖は澪を思い切り抱きしめた。巻き付けるかのように強い力を腕に込める。普段の聖からには似合わない、荒々しくぎこちない動作だった。
「それを、ずっと待ってたんですよ」
耳元で息を吐く音がして、澪が身を震わせた。澪の背中に回した手から彼女の低い体温が伝わってくる。
『また透けておる。いつかと一緒じゃの』
聖が薄く目を開くと、ちょうど澪の首が見えた。痛々しい傷跡と、さらによく見ると指の跡が赤黒く残っている。もともと透き通るように白かった肌が、今は完全に透けていた。
『聞き耳の力は聖にはかけらも残らず、すべて儂の命になる。その代わり儂は、お主から譲り受けた力でお主を守る。お主を看取るまで守り通してやろうぞ。約束じゃ』
聖は澪を抱きしめたまま頷いた。看取る――すなわち死ぬまで一緒だと告げられても、もとよりそのつもりだったから、聖は驚かなかった。彼女の選んだ幸せの中に自分がいる。自分の力と思いが、澪の中に生きる。それはなんて素晴らしいことなんだろう。
「澪さまと一緒に育てた聞き耳です。後悔なんかしませんよ。……僕の未来を奪ってしまう、なんて思わないでくださいね。僕の力がふたりの未来になるんです。いいですか?」
『あい分かった。遠慮はせん』
消えかけているのが嘘のように、澪は悪戯っぽく微笑んだ。幼い顔には不似合いな、妖艶な表情が浮かんでいる。
『……高嶺殿に見せつけてやるのもよいかもしれん』
そして、澪は何の躊躇もなく聖の首筋を舐めた。
「うわ……!」
初めての柔らかさに、聖がびくりと震える。目を丸くする聖に構わず、澪はさっき自分が高嶺にされた通り、顎に力を込めた。
澪の歯が聖の首に甘く食い込む。彼女と一つになるのだと思えば、その感触は聖にとっては涙が出るほど嬉しいものだった。
『泣くな』
「ごめんなさい」
『男がみっともないぞ。……儂の器を満たすには、ちょうど良い。まるで、あつらえたようだのう』
聖と長年共にあった何かが、徐々に体から抜けていく。ときには自分を苦しめ、あるときには喜びを運んできた『聞き耳』。形はないけれど、確かに存在したはずのもの。それが、澪に食われている――澪の新たな力となるため、自分の中から出ていく。
代わりに、空になったところは幸せで満たされていく。心と心が直に触れ合い、混じり、また二つに別れて戻ってくる。
気が遠くなるくらいの幸福感。そして実際、聖の意識は徐々に白んでいく。
「いい加減にしろよ」
高嶺が二人のすぐ側まで迫る。聖に歯を立てたまま、その肩越しに澪は高嶺を睨み付けた。死にかけだった澪は、聖の力と心を得て、此岸へと舞い戻っていた。瞳は燃えるように赤く、高嶺に食われる前よりも爛々と輝いている。
澪は、ぐったりとした聖を優しく横たえた。
高嶺を睨め付けて不敵な笑みを浮かべる澪は、先ほどまでのように透けてはいなかった。小さな体は生気と自信に溢れ、高嶺の前に立ちはだかっている。神をも恐れぬというのはこういうことかと、聖は朦朧とした中で思った。
「邪魔をするな、無粋な輩め。……儂は、聖と一つになったぞ。もう遅れは取らぬ」
「……ぬかったぜ」
高嶺が舌打ちをした。
「まさか、てめえらがその道を選ぶとは!」
聖は凍てつく土の上に寝転がっていた。さっきまでの澪とまるで同じ、動けない状態で、上半身だけを二人の方にねじる。対峙する澪と高嶺が見えた。
生まれたときから体の一部だった聞き耳は、全く機能していない――いや、無くなっているようだった。いくら努力しても人間並みにしか聞こえない。澪が言ったとおり、聖の力はすべて彼女の中に取り込まれたのだろうか。
初めて人並みの聴力で聞く世界は途方もなく静かだった。静けさを望んでいた頃もあったが、いざそのときを迎えてみれば、心は落ち着いていた。
「澪ならば、それだけはやらねえとたかをくくっていたんだが」
「追い詰めたのはお主であろう。……お主の十八番を盗ってすまぬのう」
皮肉混じりの反撃。
澪は凛とした威厳をまとい、高嶺と同じ目線でやり合っている。聖には、狼の喉元を蹴り上げる、鹿の力強い蹄が見えた。澪の小さな背中はかつてないほどに頼もしい。これが彼女の本来の姿――山の神としての力を湛えた、あるべき姿なのだ。
「お主に一つ教えてやろう。聖は聞き耳よ。よくよく練り上げた、偉大な力を持つ異能の子――で、あった」
「聞き耳? ……てめえにゃ、筒抜けだったってことか。澪にくれてやったのはもったいなかったな」
高嶺に睨まれ、聖は違うと言おうとしたが、腹に力が入らずに断念した。誰彼構わず心を読んでいるわけではない。聞き耳は、声の主が本当に強く思っていることだけを捉えるのだ、と。
「お主が食っても大して役には立たぬよ。お主、環を食らってどうであった? あの娘の力だってなかなかのものであっただろうに、お主の力はそう伸びてはおらぬだろう?」
高嶺が無言で澪を見る。
「人の中では優れた者は忌避される。たった十何年の間に聖がどれだけ涙を流したか、お主にはわかるまい? 『聞き耳』には、聖の想いが山ほど詰まっておる。それを自らに取り込めねば、食っても無駄じゃ。儂にならそれができる。聖と通じた儂ならな」
澪は、まだ血の跡が残る自分の胸元を押さえた。
「聖を食った儂も、その力と心をここに受け継いだ。儂はこれを持って聖と共に生きるぞ」
「人に撃たれて死に、人に裏切られて死にかけたんだろう? それなのに、てめえは人と生きるってのか? その餓鬼だって、いつてめえの前から消えるか分かったもんじゃねえ。そうでなくても、人は死ぬんだ。一緒にはいられねえよ」
「儂は、それでも人が好きじゃ。……それにな、聖は心変わりなどせんよ。寿命があるのも承知」
澪の声を聞きながら、聖はこの村で暮らすようになってからのことを思い返していた。
澪が自分を信頼してくれているだけで、聖は満たされる。誰かと想い合うことがこんなに力になるなんて、澪と出会うまでは知らなかった。
村に住むたくさんのあやかしたち。ある者は想いを貫いて結ばれ、またある者は叶わぬ願いに傷ついてもいた。けれど、人が好きで、人の側で生きたいと望む者ばかりだった。澪もその一人だし、異能の人間――環や、聖自身もそうだった。
「儂らあやかしには、長い長い時がある。その中のほんの少しの間だけでも、好いた者と共にありたいと願って何が悪い? それが偶々ヒトで、偶々異能を持つ男であった、ただそれだけじゃ」
高嶺は答えなかった。ただ、高嶺の周りにあった尖った空気はいつの間にか消えていた。
今、高嶺は何を考えているのだろう。心の底では、孤独を知る者どうしとして、澪と近づきたかったのではないのだろうか。それとも本当に、獲物としての澪しか見ていなかったのだろうか。
聞き耳があるうちに聞いておけばよかった、と聖は今さら思う。高嶺の本心は、もはや誰にも分からない。いくら耳を澄ましてみても、聖にはもう風の音しか聞こえなかった。
「馬鹿じゃねえのか。分かるかよ」
やがて口を開いた高嶺は、澪との対話を放棄した。これまで、澪や聖との会話さえも力ずくでねじ伏せてきた高嶺が見せた、初めての逃げだった。
澪もたたみかけるように攻勢を強める。
「棘の折れたいばらでも、枝で打ち据えるくらいはできよう。今度はただでは食われんぞ。儂らの想いが乗った蹄、試してみるか?」
「今のお前は、一人じゃねえ。ふたりだな。……そんな澪は、いらねえ」
高嶺は「ふん」と息を吐き、澪に向かって笑う。どこにも毒心のない、まるで澪を祝福するかのような飾り気のない笑顔だった。
「惚気を聞くほど暇じゃねえし、お暇するぜ」
「いつか、お主にもこよう。一人では、なくなるときが」
澪と聖を見比べ、高嶺は小さく舌打ちしながら言った。
「だったらいいがな」
こちらにくるりと背を向けると、高嶺は山を下りていった。
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