星の地平 後編2

 洗い場では噂好きの女二人がまだ話を続けていた。二人の横では、我関せずの表情をしたナンナが白いブラウスの水気を切っている。色褪せた茶色の瞳で、呼び出しから戻ったシスをちらりと見た。

「手が空いてるなら」と、ナンナが顎で示した先には、洗われたシーツが折り重なったかごがあった。「あっちを片付けて」

 言われるがままにシスはかごを手に取った。嵩を見るとシーツの枚数はだいたい三、四枚で、中庭に干してまた洗い場に戻ってくる頃には、ナンナたちが次のシーツを洗い上げているだろう。かごの網目に荒れて痛んだ指先が食い込む。水気を吸った布地はいやな重さがあった。シーツを干さなければならない。キアを運んだときの記憶を首を振って追い散らす。足を動かさなくてはならない。

(でも、足が痛いんだ……)

 シスはかごを抱えたまま呆けたように突っ立っていた。

「なにやってんだい」

 ナンナの叱責が遠い。音と意味がばらばらになって突き刺さる。階段で打ち付けた足がぐらぐらする。耳の中には干からびた心臓の鼓動ばかりが響いている。血の詰まった肉袋のことを思い出す。背中にうっすら汗が浮いてくる。シスはかごの中を見た。洗い立ての濡れたシーツがある。ナンナが干してこいと言っていた。でも足が痛い。干さなければならない。中庭に行って、足を動かして、かごを持って……わたしは足が痛いのに。シスはもうずっと痛みを感じ続けていた。我慢できたのは自分で決めた約束があったから。なのに約束は破られた。こんなに痛いのに、我慢しているのに、家にもう帰れない。

 二度と。

 この者ではない、とあのひとは言ったのだ。その一言で十分だった。シスをずたずたに引き裂き、めちゃくちゃにして、二度と立ち上がれないように打ちのめすことができるたったひとつの手段は、わずかの慈悲もなく行使された。この世界の誰もシスの気持ちを待ったりしてくれない。認めたくなくても、理解するしかなかった。

(わたしは捨てられたんだ)

 とうとう停止していた時が動きはじめて、堰を切ったように喉元に熱いものが込み上げる。シスは息をつめた。森の狼を失い、帰る家を失くしたことを、認めなければならない。以前の自分は死んでしまった。もう二度と取り戻せない。あの言葉はシスを引き裂いた。皮膚が剥がれ、血は抜け落ち、肉はこそぎ取られた。

(なのに、どうして)

 最後に残った小さなシスは、喪失をかすかに歓迎していて、それに気がついてまた自分で傷ついた。

(もう待たなくてもいいって、安心しているんだ……)

 ほんとうはもうずっと前から諦めていたのかもしれない。心を満たす安堵の正体は虚勢なのか、生まれ変わった祝福なのか。見分けがつかないまま、シスはとりあえず足を前に出した。サンダルの裏が土を踏む。キアの吐きかけた唾の跡はほとんど消えていた。

 涙はシーツが吸い取った。精神の生きる死ぬよりも、当面は、拳固を避けるためにシーツを干さなければならなかった。



 夕食後、シスが厩舎の番犬に残飯を与えていると、下働きの男が呼びにきた。

「オローさまの命令で、使用人は皆集められてる。おまえもそうだ。本館の広間だ、早く行け」

 そのまま男は雑な足音で走り去った。きっと、屋敷の隅に散って仕事を片付けているほかの小間使いたちを呼びに向かっているのだろう。男の去っていった方向をぼんやり見ていると、こらえ性のない犬たちが、押し合いへし合い餌の催促をしてきた。脛に押し付けられる湿った鼻先に辟易しながら、シスは残りの残飯を厩舎の床にまき終えた。

 当たり前のことだったが、シスが狼じゃなくなっても、あのひとに捨てられても、犬たちは態度を変えなかった。餌の時間になると、相変わらずシスに媚びを売って食料をせしめようとする。犬とシスの間には、なんの関係もない。犬にとってシスは餌をばらまく二本の腕にすぎない。腕が何を考えていようと、腕が何に惑おうと、犬には関係ないのだ。

(犬はいいな)

 耳の後ろをくすぐると、かわいい甘え声を出して身を摺り寄せてくる。獣のなまぐさい臭気さえどこかいとしい気がする。暖かい毛玉と一緒になって地面に座り込んでいると、狂おしいような、耐えがたいような気持ちが芽生えてくる。

(わたしはもう狼じゃないんだ)

 しばらく犬たちの体温を楽しんだあと、シスは鳴き声に見送られながら厩舎を離れた。

 広間への道すがら、例の男に呼ばれたのか、他の小間使いたちが二人合流してきた。その中の一人によると、この呼び出しの経緯はこんなところだった。

 夕刻、ドーマリオに上客が来た。上客が言うには、これから先、南から大量の難民が流れてくる。それを捌くための人手が必要だから、国王陛下の命を受け、大手の商会にあたって余分な人員がいないか勧誘をして回っている。〈ドーマリオ〉のほかにも、迷宮商売をしている商会には片端から声をかけているが――

「ここが一番働き手が多いし、一番ガキどもを仕込んでる。安く簡単に働き手を買えると思ってるのさ」と言って、小間使いの男はシスの肩を小突いた。「手を上げたら案外すぐ王室仕えになれるかもしれねえな」

「え?」

「ま、ほかの奴だって、ここと王城なら当然城を選ぶだろうから、そう簡単にはいかねえか」

 男の手が移動して、シスの頭を軽く叩いた。叩いたというより、きっと、撫でていた。言葉の調子や手つきから、シスは自分が慰められていることに気が付いた。思わず隣を歩く男を見上げた。色の黒い肌には深い皴が刻まれている。初老の男は、たぶん、商会の主であるオローよりも年かさだ。長年〈ドーマリオ〉で働いている男なのかもしれなかったが、シスは彼のことを知らなかった。彼がどこで仕事をしているのか、彼に家族がいるかどうか。名前すら知らない。〈ドーマリオ〉には膨大な数の下働きがいるから、すべての人間の顔と名前を記憶することは難しい。だけどこの男は、きっとシスと……もしかすると、もう一人、キアのことも知っていたのかもしれない。

 落ち着かない気持ちでシスは顎を引いた。頭上のしわだらけの手を振り切るように、足早に歩く。

 うつむいて歩いていたせいか、大広間にはすぐたどり着いた。

 迷宮から引き上げられた財宝や秘術を売りさばいて利を上げる商会は、砂王国の王宮と対立しないように綱渡りの連続で、ときには賓客を招いて友好を喧伝するためのパーティーも開いている。この大広間は昔からそのたびに大勢の客を迎え入れていた。

 商会の本館にあるこの部屋は、燭台を吊るため天井は二階分の高さがあり、二百人もの人間を入れられるほどの広さがあり、冬季のために十二個の暖炉が備え付けられている。だが、いまこの広間を満たすのは、絢爛豪華な貴族たちではなく、着の身着のままの〈ドーマリオ〉の下働きたちだった。広間の北側に三百を超えようかという人数が押し込まれ、互いの身体に押されながら、戸惑いがちに整列させられていた。

 シスたちが列の末席に滑り込んだとき、ざわめく広間にオロー・マガシュの声が響いた。

「揃いましてございます」

 ひそひそ話と慇懃なお愛想笑いの中心には四人の客人がいた。

 北側にまとめられた従業員たちの対面、広間の南側には、どこからか引っ張り出してきた毛足の長い絨毯が敷かれており、彼らはその赤い絨毯の上に立っていた。オロー・マガシュはいつもより立派な恰好で、四人の客人に上機嫌な微笑みを向けている。客人のうち二人は金属の甲冑で全身を覆った長身の戦士で、身軽と金欠が身上に染みついた冒険者とは一線を画した姿だった。その二人を従えるように立つ男は、軽装鎧を身に着けた、これも背の高い若い男だった。整った造作の顔を惜しげもなくさらし、冠のような黄金の髪を備え、蒼穹の瞳で広間を睥睨する。彼がこの場の支配者であることは一目瞭然だった。隣に立つ商会の主さえ隅に寄せられた下働きと同列にしか思っていないということが、王者のような傲慢な眼つきからわかる。男たちの背後には、彼らに守られるように小柄な人物が控えていた。星灯りも吸い込むような真黒のフードを目深にかぶり、遠目に姿を見せないようにしているが、上等な黒の衣服から覗く手足は幼い。一人場違いな姿に、シスは眼を細めた。

「ほら、あの隅にいる子。五番目の王子様らしいよ」

「王子様? それ、あの金色の男じゃなくて?」

「そんなわけないだろ。いまの王様も王妃様も黒髪だよ」

「あんな隠れてるような子が王子様? そもそも王子様がなんだってこんなところに……」

「それをいまから言うんだろ。シッ」

 金髪の男が片手を上げて、下働きたちのざわめきが徐々に静まっていく。静まり返った広間に朗々とした男の声が渡る。要約すると、シスが道すがら男に聞いた話とほとんど同じで、つまり、王様の命で南からの難民を整理するため〈ドーマリオ〉から労働力として二十人ほど人を雇いたいということだった。長くかかる仕事なので、期間を定めて〈ドーマリオ〉から人を借りるのではなく、完全に王室仕えとして雇い直すのだという。話の流れが変わったのは、金髪の男が、突然人名を読みあげはじめたところからだった。

「調理場のアラカーン」

「厩舎のヨド」

「清掃婦のエイルダ」

 戸惑いがざわめきに変わり、下働きたちは互いの顔を見合わせた。

「呼ばれた者はさっさと前に来い! アラカーン、ヨド、エイルダ!」

 すぐにオローの怒声が続いて、名を呼ばれた者たちが慌てて赤絨毯の前に駆け付ける。いずれも心当たりがないようで、落ち着きなく金髪の男や甲冑の戦士たちを上目遣いに窺っている。金髪の男は下々の者の動揺など歯牙にもかけず、次々に名を呼んでいった。

 アラカーン、ヨド、エイルダ。ミリム、エンド、ジャン、ジョイア、ギル。男の声に迷いはなかった。あらかじめ呼ぶ名を決めてこの場に来たのかもしれなかった。

 そのとき、シスはいつもシスを殴る男のことを思い出していた。狼を失った夜、男はシスを川に沈めて、何と言っていたのだったか……

 ――ほぉら見たか、こいつは大当たりだ!

 もしかすると、商会に出入りする冒険者などに金を掴ませて、前々から引き抜く者を調べさせていたのかもしれない。だとしても、あんな男を使ってまで該当者を探すような仕事が、まともなものとは思えない。いやな予感が駆けめぐり、シスは身震いした。

「清掃婦のイラーナ。最後に、清掃婦のシス」

 金髪の結びの言葉はそれだった。

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