星の地平 前編

 シスは〈ドーマリオ〉で働く小間遣いだ。この国で最も大きい商会の〈ドーマリオ〉には膨大な数の幹部と受付嬢と会計係と出納係と、他に、さらに膨大な小間遣いが勤めている。シスはその底辺にいる。

「もう泣いたって許してやらねえぞおぉお」

 そう言ってシスの頭を鷲づかみにしてくるこの男の名前を、シスは知らない。シスが寝床にしている〈ドーマリオ〉の常連客だということは知っている。地下迷宮に潜った冒険者たちが戦果を売りさばきに来る巨大な商会〈ドーマリオ〉。この男は冒険者なのだ。

「冒険者のくせに」歯の抜けた声でシスは呻いた。「金にならないことをするつもり?」

「たしかに、おまえを殴っても、金にはならねえなあ」

 だがおれは満足する、と続けて、男は本当にシスを殴った。



 気が付くとシスはいつもの森の中にいた。

 暗く、深い、奥底の知れぬ古い森。薄靄がたなびき、木々が茂る向こう側を見通すことも叶わぬこの場所を、シスは〈行きどまりの森〉と呼ぶことにしていた。〈行きどまりの森〉はシスの夢の中にある。現実がどうしようもなくなったときに、たびたび眠りの中のシスはこの森を訪れてしまうのだった。それも、もうずっと前から。

〈行きどまりの森〉を訪れるとき、シスは決って巨大な獣の姿を取った。シスは森の王者だった。森の中を気ままに闊歩する。誰にも傷つけられることなく、静まりかえった夜のとばりをうかがう。森は足を踏み入れるごとにその姿を変えるので、白紙の地図に降り立ったシスは、お気に入りの場所を見つけるまで、徘徊を続ける。そして朝がおとずれてもう一度残酷な明るい世界に戻されるまで、お気に入りの場所に寝転んで、幸せな気持ちでまどろむ。笑いだしたくなるような全能感を、ここでは隠さなくてもいい。

 森の中を獣が早足で駆ける。獣の鼻が水場の匂いを嗅ぎあてて、今夜の行く先がようやく定まる。全身を跳躍させて疾駆する獣は、ほどなくして静かに水をたたえる湖のほとりに達した。水辺には背の高い水草が茂り、そこだけ開けた森の天井から、澄んだ月光が湖面に柔らかく注がれている。獣が選んだ場所は、水際にぽつんと置かれた平たい巨石の上だった。冷えた石に腹這いになる。気持ちよさに喉が鳴る。

 獣の声を人間の耳で拾って、シスはこの獣が本当に自分であるのだと、あらためて不思議な気分に陥った。

(ずっとこの森の中で暮らせればいいのに)

 シスは目を閉じた。

 現実の裏側がこの森であるように、この森の裏側は現実につながっている。シスは心地よくまどろみながらも、けっして眠りにつかないように気を配っていた。意識が沈めば、また〈ドーマリオ〉……シスを殴った男のような者たちがたむろしているあの場所に逆戻りだ。

 心穏やかな休息の時間も思考を捨てなければ暗澹となる。シスは目を開いて立ちあがった。こういう日もある。こういう日は、体を休めるよりも走り回った方がいい。せっかくなのだから、あの場所を探してみるのもいいかもしれない。この森には面白い場所があるのだ。シスは勢いのついた気分のまま森の中へと踏み入った。あの場所。〈ささやき木立〉、とシスは呼んでいる。そこは現実世界とこの夢の森が重なる場所だ。現実の人間の影だけが、〈行き止まりの森〉に降り立って、彼らの心の声が、風渡る梢のささめきとなる。最初、偶然にシスが〈ささやき木立〉の秘密に気がついたのは、〈ドーマリオ〉の顔役であるオローの声を聞いたからだ。平均的な成人男性よりもやや大柄な黒い影が、薄闇の木立を歩きながら、十七になったばかりの娘がついに余所へ嫁ぎに行くのだと嘆いていたのだ。その影の輪郭と(オロー・マガシュは実際に太っている)、つぶやきの中身から、シスがからくりを推測するのにそう時間はかからなかった。オロー・マガシュ。〈ドーマリオ〉でシスが殴られているとき、五回に一回くらいは止めてくれる男。「よせ、汚物の後始末をさせられる者の身にもなってみろ」「また床が汚れるだろう」……それが、「おお、マリアベル。おまえがここを離れる日が来ようとは」だ。あの強面で? シスが少し笑ったあの夜からもう何年も経った。それから、実に多くの人間が、〈ささやき木立〉を訪れた。

 奇妙なことに、〈ささやき木立〉をさまよう影たちは、皆〈ドーマリオ〉の人間か、そこに滞在する人間か、〈ドーマリオ〉に併設されている娼館の人間とその客に限られていた。シスはそれを現実のシスから距離が近い者の姿しか見えないのだろうと考えている。そもそもなぜ〈ささやき木立〉などというものが……ひいては〈行き止まりの森〉が存在するのかどうかという根本への疑問は、すでに枯れ切っているので、もう沸かない。そういうものとして受け止めるだけだ。シスの心を慰めてくれる、優しい暗闇の森は、ただそこにある。積極的に疑念を抱く理由などないのだった。

 耳を澄ませながら森の中を駆ける。声が聞こえるはずだ、人間の声が。静まりかえった夜の森に響く声は、とても目立つ。だからシスが足音を殺して歩き回れば、〈ささやき木立〉はすぐに見つけることができる。

 ほら。見つけた。

 森の木々の中に青い燐光が浮かんでいる。薄闇の木立に目を凝らすと、色の濃い影がさ迷い歩く姿が浮かぶ。〈ささやき木立〉だ。今日は、影の数が六つ。まあまあいつも通りだ。

(何を聞かせてくれるかな)

 影の一つにすり寄って耳を立てる。細く長い影は、若い男の声で呟いている。「……どこへ……」「どこへ行くのです。どこにも行き場はない。外は危険だとあれほど……」「……戻ってきなさい……」声の主は去ってしまった何者かに向けられているようだった。その人は外を危険だという。外ってどこだ? 商会〈ドーマリオ〉の外? それとも娼館の外? どちらにせよ……シスにしてみれば外のほうが明らかにマシだ。だからおかしくなって笑った。獣が喉を鳴らす音が夜の森を震わせる。

 次。

 奥の影は輪郭がおぼろげに崩れていた。今にも消えそうな姿の、痩せた男の影だ。木枯らしのような呻き声が聞こえる。「……誰かが見ている……」「暗いところから見ているのだ……」「暗い森の中から……」シスは思わず全身の毛を逆立ててその影から飛び退いた。男の影はまださまよいながら声を発している。「獣の眼が見ている」はっきりとそう言った。「怯えた獣の眼が……」ひとっ飛びだ。シスは溜めていた力を放って男の影を噛み砕き、暗闇の森から退場させた。歯の隙間に生臭い気配が残り、吐き気がする。向こうからこちら側が見えている? そんなはずがない。口内の違和感を唾と一緒に吐き捨ててシスは唸った。

 あと四人分をまだ見るべきか?

 今夜はもう止めておいたほうがいいような気もするし、シスが万能を得られるこの森の中で後退の姿勢を見せることがなんらかの不吉につながる気もする。暫し湿り気のある唸り声を続けて、シスは見回りを続けることを選択した。気を取り直すように身震いして、頭をもたげた先で、それを見つけてしまった。

 子どもがいる。十かそこらの少年が、特別大きな、太い幹の根元にうつむき加減で座り込んでいる。それだけなら〈ささやき木立〉では珍しいことではない。子どもの悲嘆は特別なものではない。現実の〈ドーマリオ〉や〈娼館〉で、胸やけがするくらいに大盤振る舞いされているからだ。

 だが、そこにいる子どもは特別だった。薄ぼんやりとした影の姿ではなく、色と重さを持った現実の姿としてここにいる。〈行き止まりの森〉で色と重さを持つ者は、シスたった一人だけだったはずなのに、子どもはそこに存在する。

 接触するか?

 排斥するか?

(それとも……一噛みで……いや、近くで見てから決めたっていい)

 相手は無力な子どもなのだ。シスに害を為せるとは思えない。心を決めて、シスは獣の足を動かした。下生えの草を踏みつけて、座りこむ子どもを目指す。近寄ると、子どもは淡い燐光を発するような様相を見せていた。その光が、薄闇の森の中であっても、子どもの姿を浮かび上がらせ、確たる存在を与えている。

 うなじのあたりで刈られた頭髪は、柔らかい耳元の輪郭にかかり、頼りなげな姿をますます弱々しく見せている。肌の色は青白く、やはり子どもの繊細さを際立たせるのに一役買っている。身に着けている衣服は上等なものに見えた。シスは衣服に詳しいわけではなかったが、きめ細かな光沢を見てしまえば、シスたち下働きが着ている洗いざらしのボロ着より、オローのような富める者が身に着けている立派な仕立てに近いことくらいはわかる。獣の鼻を鳴らす。どこか良いところのお坊ちゃんが、夜の森で迷子になっているのだ。

 その子どもが、急に顔を上げた。

 シスは驚いた。それまで全身からたちのぼる雰囲気でもって弱者であることを知らしめていたはずのその子どもが、険しい顔つきの、油断のならない眼光でシスを射抜いたからだ。

「お出迎えか」

 吐き捨てて、子どもが――少年が立ち上がる。〈ドーマリオ〉でたまに見かける貴族の子弟と似たような格好をしているその少年は、身体の前面をべったりとした黒で塗りつぶされていた。臭いは分からないが、どうやらそれは血であるらしい。シスは毛を逆立てた。こんなに血を流している人間を、いままでシスは幾度か見たことがあったが、その者たちはいずれ間もなく死んだ。だがこの少年はどうか。とても死にそうに見えないし、恐らくはこの血の大半が返り血なのだ。立ち上がる際に一瞬右足をかばう仕草を見せたものの、この少年が死を待つ身とは思えない。

「死ぬならば、ただでは行かぬと思え、森の主よ。おれは内臓を撒き散らすことを躊躇わない」

 物騒なことを言うものだと、シスは少しだけ考えを落ちつかせた。見たところ、少年は武器になるようなものを持ち合わせていない。にもかかわらず、この汚く死んでやると宣言する気概はどこからわいてくるのか。シスは獲物を狩る狼がまさにそうするように、少年の周りをぐるぐると回った。青い眼が狼の足どりを睨み据えている。まるで燐光を放つような輝きは、傷ついてもなお死を拒む者のそれだった。

 その眼が、一瞬、まばたきした。

 シスは跳んだ。少年のまぶたが開いた時には、彼の体は背中から根元に転がされ、両肩は大狼の腕に、首元は鋭い牙で押さえつけられていた。どく、どく、と脈打つ音さえ聞こえてきそうだった。汗のにおいがたちのぼる。恐怖のしるしを嗅ぎ取って、シスは満足の吐息を漏らした。息は少年の首筋に吹きかかり、抑えつけていた身体がわなないた。

 どれくらいの間そうしていたのか。気がつくと、大狼の下の少年からは力が抜けていた。そういえば、もとより怪我をしていたのだった。シスは気まずくなって、前足をひょいと除けて、すたすたと彼から離れた。その途端、少年の身体が跳ね起きる。青い眼を見開いて、膝立ちになり、また足が痛んだのか顔をしかめて何事かを罵った。外国の言葉だとシスは直覚した。異国の船乗りたちが〈ドーマリオ〉にきたとき、よく使う言葉だ。意味は知らないが、使われる大抵の場面でシスは殴られていたので、碌なものではないだろう。

(ああ、いやだ、いやだ、思いだしたくないのに)

 その外国語を聞いた瞬間から、大狼の身体は縮みはじめた。虐げられている小間使い、取るに足らない存在、無価値な子どもの輪郭が返ってくる。シスは哀れっぽく鳴き、少年の驚愕したような表情を最後に、〈行き止まりの森〉から現実の世界へと帰還した。



 明け方の目覚めは最悪だった。

 昨晩シスを殴った男は、シスを商会の建屋の外に捨ててきたらしかった。ごみのたまり場を漁りにきた猫に脛をかじられて、シスは飛び起きた。硬い地面ではなく、柔らかい腐敗物に投げ出されていたおかげで、殴られた頬以外は痛みを訴えることはなかったが、とにかく、臭かった。手の臭いを嗅いで、顔をしかめる。

 こんな臭いがついてちゃ、また殴られる……。

 シスは星の位置を見定めて、まだ夜明けまでいくばくかの時間が残されてることを知った。〈輝きの川〉で水を浴びて商会の小間遣いたちが休む寝所へもぐりこむくらいの時間は残されているだろう。シスはよろめきながら立ち上がった。

 路地を出る。市中を北に向かってしばらく歩いて、川辺にたどり着く。思った通り、岸には先客がいた。

〈輝きの川〉、希望へと続く川。そう願って名前を付けた奴がいたのだ。昼間に眺めたならば、虹色の油膜が浮く水面が見えるだろう。そして夜は、身体を洗う娼婦たちのたまり場だ。よく分からないものが混ざった粘液を落としあい、彼女らは囁き、笑っている。シスはあの笑顔が苦手だった。水面にはじけて消える濁った泡のことも。ただ、シスには彼女らをわざわざ避けて、余所の河原まで足を運ぶほどの余力がなかったし、そもそも娼館から一番近いこの川岸を避けてしまっては、娼館の女たちをまもる護衛の兵隊もいない。ここらの界隈で、なんの確証もなく安全にはだかの水浴びができると思ってはならない。

 ざらざらした麻のシャツを脱いで、水に浸して、身体にこすりつけているうちに、小さな傷がいくつかあることに気がついた。とがった石を踏んだ足の裏、猫にかじられた脛、見覚えのない手の甲の切り傷。殴られた頬の下。傷を数える作業は日記をつけることに似ている、とシスは考えた。あのひとは一日一日の出来事を紙に記して記録に残していた。シスはそれを隣で眺めていた。

 シスだって、傷を数えることで、日々の出来事を思い出せる。半分くらいは。

 濡れたまま上着を着直したところで、ひとりの女が近寄ってきた。

「ぼうや、またきたのね」

 また、と言われてシスは焦った。この女は誰だったか。〈星招き〉を誰かが地上に呼んでいたので、川はうっすらと発光していた。白い光が女の輪郭を淡く照らしている。眼の青い、金の髪の、豊満な体つきの、異国の姿……

「アデレイドさま」思い出した。記憶は勝手に世辞を紡ぎだしていた。「今夜もお美しいです」

「それはどうもありがとう。ぼうやは今夜もみすぼらしいわね。こんな時間に水浴び?……いいわ、別に、答えなくても」

 女の視線は頬の傷の上に一度落ちて、あとはシスから興味をなくしたように、付き人の少女に顎で合図を送る。若年の少女はアデレイドに取りすがり、服を脱がせ、柔らかそうな布で身体を清めていく。水に浮かぶ薄明りが、女の丸みを帯びた豊満な体つきに反射する。シスはそっと自分の胸元を隠した。アデレイドから眼を逸らした先で、視線が川面に光る星明りに行き当たる。あの光は〈星招き〉だと言われている。地上に呼ばれた星の光だ。水に触れても、水の中でさえも、消えることのない火を灯すのだという。

 夢の森で見る燐光と同じだ。

 不意にシスは気が付いた。〈ささやき木立〉で見る薄明りと、川面の光は同じものであると気が付いた。異界の灯りがなぜ現実の地上にあるのか。

 こんなことが気になったのははじめてだった。ぞわぞわと鳥肌が立ち、シスは川の下に身を沈めて、手早くズボンと下着と脱いで、シャツと同じようにぐしゃぐしゃに洗った。もう一度水面に顔を出し、大きく息を吸う。雑な手つきで衣服を身に着けると、シスは逃げ出すように川辺から上がった。水気を絞る。息を整える。もう一度、川辺を振り返った。

 いつもの光景が見える。夜の〈輝きの川〉は娼婦たちを侍らせて静かに流れている。

 シスは帰路をたどりはじめた。 

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