星の地平 中編1

 シスはキアという娘のことが苦手だった。

「あんた、自分が特別だと思ってるんじゃない? そういう生意気なところがあるから、すぐ教育されるんだ」

 夕方、商会〈ドーマリオ〉の井戸端で下働きたちで汚れた食器類を洗っているとき、わき腹を突然押されて、シスは顔をしかめた。危うく皿が地面に落ちそうになった。

「落ちたらどうするの」

 睨みをきかせると、キアは鼻を鳴らした。

「またあんたが殴られるだけでしょ」

 シスの頬に残っている青あざを見ての発言だった。キアは自称十二歳で、シスもそのくらいの年頃だとオロー・マガシュに言われていた。年が近いからなのか、少女はよくシスに絡んでくる。「あんたが殴られる」、キアは簡単に言ったが、シスにはそうは思えなかった。たぶん二人とも殴られる。シスの表情を読んで、少女の口がゆがんだ。そばかすだらけの顔に凶暴な表情がよぎる。

「なんなの、その顔」

 もう一度遠慮のない力で押されて、また皿を取り落としそうになる。そろそろシスも我慢の限界だった。肩で息をついて皿をかごに戻し、キアに向き直る。

「いいかげんに……」

「やめな、クソ餓鬼ども」

 女の低い声がいさかいの気配をさえぎる。いま井戸端で食器を洗っている女たちはシスたちを含め五人いたが、彼女は一番の年かさだった。四十がらみの、愛想のない中年女の名はナンナといった。オロー・マガシュの跡継ぎ時代に愛人だったという噂のある、影のある女だ。とりたてて役職を持っているわけではないのに、〈ドーマリオ〉の下働きたちの中では珍しく個室を与えられており、噂の信憑性を増している……つまり、逆らうことが得策でない女ということだ。キアは唾を吐き、皿洗いに戻った。唾はシスのサンダルの上に落ちた。一瞬、かっと血の気が上りそうになる。

(くだらない。こんなの、どうでもいい)

 しいて自分に言い聞かせて、シスもまた自分の皿洗いに戻った。洗い場はしばらく無言だったが、やがて、五人のうちひとりが沈黙に耐えかねたかのように口を開いた。

「今日、市場でさあ、南の〈海の民〉を見たんだよ」

「海の民?」聞き返したのはキアだった。

「そうさ。こっからずうっと南の、海王国に住んでるとかいう、異形の民さ。驚いたねえ、ほんとに色かたちが違うんだもの」

「違うってどんな?」

「あたしが見たのは三人組の女だったんだけどね、みんな苔みたいな色の髪と眼だったよ。あと、指の間に」と言って、女は自分のてのひらをひるがえした。「でっかい水かきがあったのさ」

 嘘だあ、とキアが笑う。女はしばらく南からきた三人組について、潮の臭いがきつかったとか、足首に海藻を巻いていたとか、見聞きしたものについて語ったあと、声を潜めた。

「なんで海の民なんかがこの遠く離れた砂王国くんだりまで来たかっていうと、大嵐がきて、街がいくつも沈んでしまって、逃げてきたからなんだって」

(大嵐?)

「大嵐?」

 不思議に思ったのはほかの下働きたちも同じらしかった。海の民が暮らすのは海王国。大陸の遥か南に位置する国で、他の五国とは地理的に離れている。だからなのか、そういった噂に詳しいはずの冒険者たちの口からさえも聞いたことがない話だった。

「とんでもない大きさの嵐が、もうずっと続いているって。これからもっと南から逃げた人がくるって言ってたよ」

「ここまで来やしないよ。海の国はずうっと南にあるんだろ?」

「でも実際、その三人は逃げてきたんだ。先のことなんてわかんないよ」

「その三人、これからどうするんだろう」突然キアが言った。「南から逃げてきたんでしょ。逃げ出すなんて馬鹿みたい。よそ者じゃない。ここでうまくやれる保証なんてないのに」

「さあね、冒険者にでもなるんじゃないの?」

「だって女でしょ。冒険者になるなんて、いかれてる」

「そんなのあたしに言われても知らないよ」

 女の声に険が混ざる。取りなすように、隣の女が話題を変える。

「流民が増えたら、また人攫いが出るかもねえ」

 と言って、これまでずっと黙っていたシスのほうをちらりと見た。〈ドーマリオ〉に買われる前、シスはそういう人攫いの手によって、どこかの道端から、攫われてきたらしかった。東にある古王国が滅んでしばらくの頃は、ここ砂王国に難民が押し寄せ、人攫いが横行していた。〈ドーマリオ〉もさんざん旨い汁を吸っている。人攫いからシスのような子どもを買って、安く使っていたからだ。難民が冒険者という職と自らの身を守る手段を得るまで、砂王国で夜に出歩く者は、ほとんどいなかった。

 攫われてくる前のことを、シスはほとんど覚えていない。最初の記憶は、いつもあのひとと一緒にあった。不思議な草の匂いがする暖かい家の中で、あのひとは本を読んだり、鍋を混ぜたり、ときどき訪れる客人と話したりして過ごしていた。

 そして、日記。

 あのひとはいつも日記を書いていた。日々起きたことと……それとシスのことを。シスが動いたとか、止まったとか、走ったとか。そういうことを書いていた。いまはもう文字なんて読めないけれど、そのときシスは一緒に日記を読んだのだ。

 ずっと長い間一緒に過ごしていた。いまでも、なぜあのひとと自分が別れてしまったのか、シスには分からない。あのひとはシスを必要としていたはずだった。シスにもあのひとが必要だった。あのひとは、きっとシスを探している。そう夢想することは、陶酔と虚しさを同等にもたらした。

「でも」シスの物思いは女の声で遮られた。「王さまが変わって、人攫いは斬首刑って決ったじゃないか。人攫いなんてやるかねえ」

「人攫いは斬首刑ったって、あれをやられたのは最初のバカひとりだけじゃないか。人攫いが人買いに名前を変えただけ。攫ってきたんじゃありません、ちゃんと対価を払って連れてきたんだって、言ったもん勝ちじゃないか、あんなもん」

「そういえば昔にいたわねえ。あたし、お使いの途中で見たわ。中央広場で、処刑台を作ってさ……」

「女ども、無駄口叩いてんじゃねえ!」

 声と同時に、シスは自分の側頭部が衝撃に揺れたのを感じた。洗いかけの皿が吹き飛んで、地面に顔面から突っ込む。口の中に汚水と混じった泥が入ってくる。

(殴られたんだ)

 ずきずきとした痛みはあとからやってきた。ほとんど反射的に、手放してしまった皿を探す。皿は柔らかい草の上に落ちていたようで、割れていなかった。ほっと息をつく。これで追加の折檻は免れる。よろめきながら立ち上がった。視界がぐらぐらと揺れる。

(わたしはしゃべってないのに)

 誰もシスをかばう者はいなかった。他人のために弁解して拳を引き受けるような物好きはいないし、いたとしても、そういう奴はすぐにどこかにいなくなる。

 シスを殴り飛ばした男は、商会で会計をしている男だった。男は他の四人の女にまだ何事かをののしっていたが、ナンナの姿を認めて、やや気勢を削がれたようだった。

「おまえらのようなクソ女どもはな、使えなくなったら隣に売ったっていいんだ」

 最後にそう捨て台詞を吐いて男は井戸端から去っていった。男の背が建屋の中に消えた途端、キアのこれ見よがしな舌打ちが響いた。

「死んじまえ、クソ男」

「やめなキア」

 たしなめる声を聞きながら、シスは落ちた皿を拾った。持ちあげるときに、指に痛みを感じて、気が付いた。ヒビが入っている。指が引っかかって、少し切れて血が出ていた。

「ああ、残念」目ざとくその様子を見ていたキアが言った。ほとんど笑い出しそうな声音だった。「教えてあげなきゃ。シスが皿を一枚だめにしたって」

 シスは無視して口の中の泥を吐き出した。泥はキアのサンダルにかかった。そばかすだらけの頬が燃えるように赤くなる。一瞬、殴りかかってくるのかと、シスは身構えた。だがキアは舌で唇を舐めただけだった。「あんたなんか」吐き捨てるように言った。

「あんたなんか、また人攫いに連れてかれちまえばいいんだ。もっと汚い、真っ暗な、掃きだめみたいなところで、みじめに死ねばいい。ここはあんたに上等すぎる、あんたなんかに!」

「キア。いいかげんにしな」

 ナンナの疲れたような声を、シスはどこか遠いところの声のように感じていた。キアの弾劾がこだまする。もっと汚い、真っ暗な、掃きだめみたいなところ。昨日の夜に捨て置かれた路上より、ずっと何もないところ。

(そんなところには行かない)

 シスが帰る先はあの家だ。そう決めていれば、身に刺さるようなキアの憎しみも、側頭部の疼きも、これから待っている折檻も、まだ我慢できる。こういう態度がますますキアを苛立たせているという自覚はあったし、現実のシスはあの家を失って、〈ドーマリオ〉にいる。誰かの特別などではなく、怯えて夢の中に逃げ込むただの子どもに過ぎない。

(だけど、いつかは迎えにきてくれるかもしれない)

 夢の中で走り回る狼と同じだ。空想で願うことは自由だった。



 夜になり、シスは予告通り皿の代償として一発殴られた。

 当たりどころが悪かったのか、いまも右側の眼がうまく見えない。会計係の部屋を出て、下働きたちの寝所に向かう途中ですれ違った女に聞いてみると、右のまぶたが腫れているらしかった。痛みに逆らって触ってみると、たしかにそいういう感触がある。下働きたちの中には、あまりにも苛烈な折檻を受けたあとに、眼の光を失う者や、手足がねじれたままになってしまう者がいる。これも、そのうちどこかにいなくなる。優しいひとと同じだ。

 女と別れる。陰鬱な気分のまま歩いて、あと少しで寝所というところだった。

 突然、視界の利かない右のほうから強く引っ張られて、よろめいた。声を上げようとしたところで、背後から伸びた手に口をふさがれて、くぐもった音になる。恐慌してシスは暴れた。唸り声を上げるシスをなだめるように、そいつは、生温かい吐息を耳に吹きかけてきた。

「よお、シスぅ」

 横手の暗がりに引き込んだのは、昨晩シスを殴ったあの冒険者の男だった。

「おっと、静かにしてくれな。ここにいることを見つかっちゃあ、まずいんだ」

 ここは商会〈ドーマリオ〉の奥深く、下働きたちの居住区画だ。男のような外部の冒険者がいるべき場所ではなく、シスにとって男のお願いを聞く義理など何一つなかった。出入り禁止でもくらえばいい。シスは構わず暴れ続け、すぐに代価を支払うことになった。

「おれは黙ってろって言ったよなあ?」

 鋭い舌打ちのあと、男の膝がシスの腹にめり込んだ。息がすべて肺から押し出され、胃液がこみ上げる。シスは吐いた。ビタビタとこぼれる音と、汚えだろうがと激昂する声と、冷たい床と、丸めた体を外側から叩く衝撃が――今度は蹴られている――感覚が混じりあい、シスを揺さぶった。遠くから誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。キアの笑い声も。吐瀉物にまみれてうずくまりながら、シスは意識が闇に落ちていくのを感じていた。

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