神話と古代王朝の時代
塔の魔法使いの弟子 前編
ここ数年〈塔の魔法使い〉を訪ねた者はいない。だから〈弟子〉は〈師匠〉がしばらく塔を留守にすると告げて周遊の旅に出たとき、何の気負いもなく送り出したのだった。弟子は半人前だったけれど、どうせ客など誰も来ないから、という師匠の言葉を信じてしまった。
ところが客は訪れる。
「魔法使いに望みをかけるときは、魔法の力を及ぼす範囲を、人間に支払える代償の内側におさめなければならないのですってね」
(そのとおりだよ、かしこいお嬢さま)
魔法使いの弟子〈緑の帆〉は内心でぼやいた。そして残念なことに、依頼者の望みの大きさを量ることが、緑の帆にはできない。まだ半人前の〈弟子〉だから。
来客は上機嫌のようだ。扉の向こうにいるので、緑の帆の眼にはその女性の姿や表情は見えない。楽しそうな声だけが扉越しに聞こえてくる。
午前中に部屋の掃除をして、昼食の用意をしようと丸机の上の薬草を片付けていたとき、誰の訪れも告げないはずの樫の扉が、ノックの音に揺れた。それがついさっきのこと。居留守を使ってみたけれど、奥の部屋で煮込んでいた薬鍋の蒸気を扉越しの声に指摘されては、知らんぷりにも限界がある。〈塔の魔法使い〉は不在です、弟子の緑の帆しかいません、と言ったのだけれど、その客からしてみると、魔法使いの弟子も、魔法使いも、〈魔法使い〉に思えるらしい。
緑の帆が師匠から聞いているのは、半人前の魔法使いは〈量りの魔法〉が使えないから半人前だということだ。一人前になるためには、認定官の前で〈量りの魔法〉を披露して見せる必要がある。それができない者は、どんなに優れた魔法を扱えたとしても、半人前で、客をとれない。人間の分を超えた望みは、現世に破滅を顕現させる。だから見極める魔法の習得は必須だった。魔法使いたちは破滅を世に導かぬよう厳しい掟で縛られている。
という魔法使いの規則を緑の帆がさんざん言っても、まるで聞き分けてくれなくて、引き受けると承諾をしないうちから依頼者は向こうの事情を話し始めてしまったのだ。扉の外で。
「魔法使いたちのお説教は聞き飽きているの。人間の分際で何をば願わんと言われても、その分際を見極められるのは魔法使いたちだけなのだから、つまり、あなたたちに良いと言わせさえすればいいということなのでしょう? 人間に支払える代償っていったいどういうさじ加減で決めればよい? 破ってしまったらほんとうに破滅が顕れるのかしら? そもそも分相応かどうかは、願った本人しか分からないのではなくて?……なんて言われても、あなたも困るわよねえ。だから、私なりに分をわきまえた望みを考えてきてあげたの。あなたたちが頷けるだけの望みを用意してきたの。つまり、招待状だけ作ってくださらないかしら。そう招待状よ、舞踏会のね!」
かしましい囀りがようやく終わりを告げて、緑の帆は無意識のうちに詰めていた息を吐いた。ようやく終わった。だが。
(舞踏会の招待状?)
緑の帆はいまさらながら、扉の向こうの客人が、やんごとなき貴人の淑女である可能性に気が付いて、塔の中で身を縮めた。薬草や、獣物除けのまじないなら、まだなんとかごまかせたかもしれないが、これはもうダメかもしれない。師匠も口を酸っぱくして言っていたはずだ。曰く、貴族のお願いを断るのは大変に骨が折れる……。
「誰にも疑われない舞踏会の招待状。私の依頼はそれですの。ねえ頼まれてくださいな、〈塔の魔法使い〉さま」
「あの何度もお伝えしましたが、わたしは魔法使いの弟子です。弟子は客をとれないのです。申し訳ないのですが、お帰りください」
「でも魔法は使えるのでしょう? ならば困っている無辜の民に手を差し伸べるのが力を持って生まれた者の義務でなくって? 私、本当に困っているの。舞踏会に出ることができなければ、生を受けてからのこれまでの十九年間が無駄になってしまうのよ」
緑の帆は、だんだんこの迷惑な来訪者の招待に検討がつきはじめていた。渡りのカラスが言っていた。俗世では新しい王様が即位した。慣例では〈四剣家〉からふさわしい者をお妃さまに選出するならいだったのだが、今度の王様は、それを舞踏会で選ぶらしいのだ。もちろんお相手は四剣家に限られない。王様がこの国中にばらまいた一千の招待状を手に入れた者ならば、誰にでも参加の権利があるという。
四剣家の中で、もっとも貧乏で、子飼いの部下が少なくて、政治力が弱い家がある。
そしてその家には十九歳を迎えるうら若き娘が一人いる。
そのとき、水気を含んだ生暖かい風が窓から吹き込んできた。通り雨の前触れだ。干していた洗濯物を取り込まないと。それから、湿気に弱い〈金溶紙〉を保管庫に戻しておかないと。帰ってきた師匠にきっと怒られてしまう。
「ねえ、お願いよ……あら?」
扉を開けた先には、噂通りの女性がいた。明るいブロンドの巻き髪を高く結い上げた美しい娘。〈黄金姫〉のあだ名を冠する姫君は、緑の帆がまさか扉を開くとは思っていなかったようだった。言葉を切って、緑の帆を上からまじまじと見つめてくる。
「塔の魔法使いの弟子? まだこんな小さな子どもだったのね」
居心地悪く、緑の帆は目深にかぶっていたフードをさらに引き下げた。
「もうじき通り雨がきます。玄関先でいつまでも立たせるのも申し訳ないですし、とりあえず中へどうぞ。雨雲が去るまで、お茶くらいはお出しできます」
少し、いやかなり、早口になってしまった。緑の帆が師匠以外の人間と言葉を交わすのは、一月前に会った行商の男以来だったから。黄金の姫が思っていたよりもずっと綺麗で驚いたから。姫が誰もお供を連れていなくて途端に不安になってしまったから……いろいろだ。動揺しながら、緑の帆は姫に背を向けた。その瞬間だった。
「あっ」
左足首に冷たい感触が走って、膝から崩れ落ちる。氷を直接当てられているような、血を抜かれているような、不快で奇妙な感覚が足首から這い上がってくる。だが緑の帆には、この感触に覚えがあった。跪いた格好のまま、上半身をねじって背後を見やる。そこには、先ほどまでなかった男の姿があった。扉の影に隠れていたのだろう、男は黄金姫を背中に隠し守るように立ち、緑の帆のように、黒いフードを目深にかぶっている。その右腕は緑の帆に向かって差し伸べられている。だがそれは哀れな魔法使いの弟子を助け起こそうというものではない。緑の帆の左足に刺さっている楔を投擲したそのままの姿勢というだけだ。
「なんで……〈魔女〉がここに」
倒れこんだぶざまな体勢のまま呻く。足首からは冷たい脈動が這い上がってくる。〈魔法使い〉は〈魔女〉にあらがうことはできない。ましてや魔法使いの〈弟子〉など――
「魔法使いの塔を訪れるのに、〈魔女〉を伴わない貴人なんていませんわ」
黄金姫が微笑みながら回答をくれる。緑の帆は震えあがった。この女は、最初からそのつもりでこの塔にやってきたのだと分かってしまった。師匠の魔法使いが居たならば、まだマシな結果になったかもしれない。歳経た老獪さは塔の住人の身を守っただろう。だがここにいるのは半人前の弟子でしかない。
「あらあら、そんなに怯えないでくださいな。別にあなたに危害を加えようというんじゃありませんのよ」
(嘘だ。だったらどうして魔女に楔なんて打たせたんだ)
いまやその麗しい微笑みを無条件に信じられる状況ではなかった。楔は正しく緑の帆の力を奪い、左足は凍り付いたように感覚が失せていた。楔を打たれたのはこれで二度目だった。一度目は〈魔女〉の生態を知るために意図して打たれたもので、いわば魔法使いにとっての通過儀礼に過ぎなかった。野生の魔女に遭遇したのも、害意をもって楔を打たれたのも、緑の帆にとってこれが初めてだった。
「あなた、先ほどは塔の主が留守だと言ったわね。魔法使いも悲惨よねえ、留守を任せた弟子がこのていたらくなんですもの。でも、私にとっては僥倖」
緑の帆は息を吸った。女の間違いを指摘しようと口を開いた。僥倖などではない、愚かなふるまいを止め立てする者が不在だったのだからむしろ不運である――そのようなことを伝えようとしたのだが、魔女は緑の帆の無駄口を許さなかった。魔女の右手が閃いた。
「うっ」
今度は右の足首に楔が刺さっていた。ギシギシと身体が凝固する音が聞こえてくる。膝立ちの姿勢すら保てなくなり、緑の帆はうつ伏せに倒れた。へそのあたりまで冷たい感覚が這い上ってくる。草地を掴みながらなんとか顔を上げると、黄金姫の顔がすぐそばにあった。しゃがみこんで、至近距離から緑の帆を覗き込んでいる。
「両手足に四つ。額に一つ。魔女の楔を五つ受けた魔法使いは、硝子となり砕け散る。あなたどうするの? あと三つで死ぬわ。ねえ、招待状を作る気になった?」
「魔法使いの弟子は客をとれない規則だとお伝えしました」
「ええ聞いたわ。で、作っていただけるのかしら」
間近で見た姫の瞳は髪と同じく輝く黄金の色だった。金揃えの黄金姫はうっとりするような笑みを浮かべて緑の帆の返事を待っていた。緑の帆にできたのは、ため息のような小さな「いいえ」を返すことだけだった。美しいまなじりがつりあがった。
「ルフ」
呪文のような命令のような短い音は、魔女の名前だったのかもしれない。両手の甲にそれぞれ楔を穿たれて、緑の帆はそんなことを考えた。
(考えている場合じゃない)
あと一つで硝子になってしまう。緑の帆は今のいままで、こんな死に方をするわけがないとどこか決めてかかっていたところがあった。硝子になって死ぬ間抜けな魔法使いは、歴史を紐解いてもそうそういない。本に登場するのはたいていが規律を犯した外道の魔法使いで……だが現実はあと一つの楔まで迫ってきている。遠ざかっていた現実感が急に押し寄せてくる。四肢は動かず、自由になるのは首から上だけだった。その唯一自由な部位を使って、緑の帆ははじめて必死の声音を絞り出した。
「待って。待ってください。〈魔女〉が〈魔法使い〉を砕くのは、魔法使いが契約違反をしたときだけのはずでしょう。わたしはまだ何も」
言葉の途中で、緑の帆の体は抱え上げられていた。魔女が、そこらの荷を運ぶ要領で、小柄な緑の帆を肩に担ぎあげていた。硬い肩が胃の下を圧迫してくる。魔女の背中だけが視界に映る。
「ほんとうね。あなたの言う通り、雨が降ってきてしまったわ」
黄金姫ののんきな声が聞こえてくる。辺りはいつの間にか小雨に濡れていた。緑の帆は抱え上げられた姿勢のまま、うなじで滴を感じていた。手足はもはや何の感覚も寄こさなかった。
「ねえルフ、魔女ってむやみに魔法使いを砕いてはいけないの?」
「いいえ、姫さま」
塔の中に入るとき、姫と魔女はそんな言葉を交わしあっていた。
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