塔の魔法使いの弟子 後編
「あなたには選択肢がある」
塔の中に入り込むなり姫はそう言った。緑の帆は板張りの床に仰向けの姿勢で転がされたまま口上を聞いていた。雨音が塔の石壁を叩いていたが、姫の声は良く通った。
「一つ、私と契約を交わして舞踏会の招待状を魔法で作りだす。そのかわりあなたは口うるさい魔法使いたちの規則に違反してしまう」ちょっと首をかしげて、「ねえ違反したらとは言うけれど、どうなるというの?」
緑の帆はさまざまなまじないがぶら下がっている天井の梁を見ていた。鳥の尾羽を縒り合わせて作った青い糸が強力な魔石を数珠繋ぎにしている。隣には木目の杯と薬草の束。遠い南の異国から買い付けた色鮮やかな乾燥果実。
――ぼくは故郷を探しに行く。見つけるまで戻らない。
師匠の声が聞こえてくる。
――戻ってきたら、これを端から燃やしてしまおう。塔は焼いてしまおう。
手足から這い上がってきた楔の冷気は喉元でようやく止まっていた。吐く息さえ冷たい気がする。緑の帆は首だけで姫のほうを見た。
「魔法使いの規則を破った者は、しるしをつけられて、追われる身になります」
黄金の瞳がきらめいて、緑の帆を見下ろした。姫はかがみこみ、申し訳程度に緑の帆の頭を隠していたフードを払いのけた。黒髪がこぼれて床に落ちた。最後に散髪したのは十日くらい前のことだった。〈塔の魔法使い〉がいなくなってしまってからはずっと自分で散髪していた。だから不揃いで、緑の帆は自分の髪が嫌いだ。
「追われるの? 誰から?」
緑の帆はちらと部屋の隅をうかがった。塔の内壁に寄りかかるようにして立つ男を見た。魔女は緑の帆を床に下ろしてからずっと無言だった。魔女というものは魔法使いの住処とあらば物色するとばかりと思っていたのだが、その魔女はただ静かだった。黒いフードの下から垣間見える色つやのない肌は彫像のようだった。ぴくりとも動かない。
「掟破りは」と言って、壁際の魔女から眼を引き剥がす。
「魔女と父親から追われるのです。魔女に捕まると硝子にされて砕かれる。父親に捕まると……彼らの国へ招かれる」
告白して、緑の帆はぶるっと震えた。恐怖と冷気が身体を縮こまらせていた。
「まあ」黄金の姫君は好奇心を隠さなかった。「あなたの父親の国へ? それは……魔女に砕かれるよりはマシではなくて? だったら」
「姫さま」
緑の帆が否定の言葉を口にするより、魔女の警告めいた呼びかけのほうが早かった。
「夕方までに帰るお約束です。本題を進めませんか」
暗に無駄口を叩くなという意味が込められているようで、緑の帆は驚いた。辺境の魔法使いにすがるほど落ちぶれているとはいえ、古王国の〈四剣家〉の一角を占める名家の娘に口をはさんだのだ。緑の帆が忙しく二人の様子を窺っていることに気付いているのか、いないのか、黄金の姫はしばらく沈黙を守っていた。やがて唇が薄く開いた。
「ルフ」
それは命令だったのか叱責だったのか定かではなかったが、魔女は一つ頷いて再び物言わぬ彫像に戻った。
「そうね。あなたたち魔法使いの生態をいま掘り下げたって仕方がないものね。話を戻しましょう。あなたの選択肢の話」
と言って、姫は突然緑の帆の頭を撫でた。えっ、と声をあげたが手は止まらなかった。細くて繊細な指先が、四肢を楔で打たれて動けない魔法使いの弟子の髪の毛を、くしゃくしゃにかき混ぜた。間近で見る姫はますます眩く美しく、いい匂いさえした。
「私の言うことを聞いて掟破りになるのが嫌なら、あなたはもう一つの道を選ぶことができる。もう分かっているでしょうけど、四剣家の次期頭首に楯突いたかどで硝子になる道よ。でも大丈夫。きっとルフはあなたを大事にしてくれるわ。ねえルフ?」
「はい。魔法使いの硝子は貴重品ですので。たとえ半人前のものでも、半分くらいの価値はあります」
「ですって。ねえ安心して硝子になる決心はできた?」
緑の帆は黄金の姫が何を考えているのか分からなかった。掟破りに同情を見せながら、それが嫌ならば安心して死を選べばよいと囁いてくる。優しい手で子ども扱いしながら、破滅への道を説いてくる。
(いやだ。わたしはまだ硝子になりたくない)
かといって掟破りも論外だ。魔女に捕まって硝子にされるほうがまだ良かったと思えるような運命を、自ら引き寄せる愚か者にもなりたくない。ならば選ぶものはもう決まっている。
〈魔女〉は人間ではない。そして〈魔法使い〉も人間ではない。だが〈魔法使いの弟子〉は特別だ。人間か妖精か、まだ住む世界を選んでいない、ゆらぎの存在。生まれたときから〈魔女〉は〈魔女〉だが、〈魔法使い〉は人間として生まれる。自ら人間を捨てる選択をして、量りの魔法を習得するまでの間、魔法使いは人間でいることができる。
「わたしは掟破りにはなりません」
緑の帆が告げると、壁際にもたれかかっていた魔女がゆらりと身を起こした。黒外套の裾から影のしずくが滴り、床を侵食していく。黄金の姫が顔をしかめた。
「行儀が悪いわよ。ルフ」
「申し訳ありません、姫さま」
閉め切っているはずの塔の中に生臭い風が吹いていた。どうやらその風は、はためく魔女の黒外套から吹き付けている。
〈魔女〉が近づいてくる。右手に黒い楔を持って、緑の帆のそばにかがみこむ。地をならすような手つきで額にかかる前髪を払いのける。楔を打ち込みやすい場所を探しているのかもしれない。魔女に場所を譲るようにして姫が立ち上がる。もはや緑の帆からは興味が失せたように、失望の表情を隠そうともしない。
「残念だわ、〈魔法使いの弟子〉さん。ではまた次の魔法使いを探さなければならないのね……」
「それには及びません」氷を踏み抜くような心地で言った。「次の魔法使いはここにいます」
首を振って魔女の手を払いのける。下から見上げていたから、フードの下に隠されていた魔女の顔がよく見えた。師匠の魔法使いよりも、ちょっとだけ若そうな男だった。その男の驚いたような表情が見えた。ますます緑の帆の気は逸った。
(硝子になんかなってやるものか)
緑の帆は怒っていた。今日一日の怒りが、ようやく発露したのだった。勢いのまま、緑の帆は呼んだ。生まれてからずっと呼んだことのなかった父の名を呼んだ。妖精の名は人間の耳には聞こえない。緑の帆は口の形だけ覚えていて、ただ喉を震わせた。魔女が慌てて姫を引き寄せる。不思議そうな顔の黄金の姫が、魔女の黒外套にすっぽりと包まれた。
そのとき、「我が子よ」と、向こう側から返事が返ってきた。
瞬間、緑の帆の心臓は灼熱に輝き、熱波にのまれて爆散した。
灼熱の奔流が肉の残骸を破り、緑の帆は塔の石壁ともども粉々に吹き飛んだ。一瞬の光芒を残して夜空に散る流星のように、細かな破片が放物線を描いて大地に降りそそぐ。薬草を煮込むための大鍋。梁の上の乾燥果実。師匠である〈塔の魔法使い〉が収集していた各地の伝承をまとめた書物。万年筆。インク壺。塔に拾われてからずっと一緒に暮らしてきた身の回りのこまごまとした懐かしいものたち。緑の帆はそれらと一体になって、飛び散り、降下した……。
顔を上げると、緑の帆は巨大な手のひらの上に立っていた。
そこは〈魔法使いの塔〉ではなかった。薄暗い、夜の森のような場所だった。暗がりの中にはそこらじゅうに何かが潜んでいて、立ち尽くす緑の帆を見つめていることが分かった。緑の帆を支える手のひらは、色の薄い手首につながっていて、手首の先の巨人の正体は、暗闇にのみこまれて見通せない。だが緑の帆には直感があった。これが父だった。
ぽとりと何かが降ってきた。
足元に眼をやって、それが先ほどまで緑の帆を穿っていた魔女の楔だと分かる。ぽと、ぽと、と残りの楔も落ちてくる。もう一度顔を上げて、楔が落ちてきた方向に眼を凝らす。遠く暗闇の向こうに、青白い妖精の顔が見えた。
「見せて」
と顔は言った。
緑の帆は少しだけ迷って、とうとう呪文を唱えた。魔法の声に応えて、小さな天秤が宙に現れる。左の皿は砂の色。右の皿は灰の色。〈量りの魔法〉だ。
「死にたくない」
緑の帆が呟くと、天秤は揺れた。少しずつ揺れの幅は大きくなり、やがて砂色の皿が傾いて、沈んだ。
「生き延びたい」
また別の願いを口にすると、天秤がもう一度傾きを戻した。今度は少しずつ揺れの幅が減じて、両の皿が水平に並んだまま静止する。ふいに辺りを笑い声が包んだ。森の中から緑の帆を窺っていた者たちが一斉に声をあげたかのようなざわめきがまきおこる。
「ようこそ」と声が言う。
「魔法使い」また別の声が言った。
「緑の帆」
「小さな魔法使い」
「おまえの天秤はいつかおまえを裁くだろう」
眼を開けたあと、緑の帆が最初に考えたのは、最後に聞こえた声は誰のものだったのだろう、ということだった。次に考えたのは、さてこれからどうするかということだった。緑の帆は塔の中に立っていた。少し離れた場所には、魔女と黄金姫がいた。塔は吹き飛んでいなかったし、彼らの姿勢は、緑の帆が爆散する前と全く同じだった。姫をかばうように抱き込んだまま、魔女は警戒の眼を四周に放っていた。
仕掛けるなら、魔女が我に返るまでだった。
「お姫さま」
緑の帆は先ほどから出したままだった天秤を掴んで、丸机に音を立てて叩きつけた。振り向いた魔女の眼がぎらりと光り、外套の裾が夜の色にはためいた。不穏な空気にそ知らぬふりをして、緑の帆は促した。
「つい先ほどわたしは〈塔の魔法使い〉を襲名いたしました。ですのであなたの望みをかなえることができます。天秤に望みをかけてください」
外套の下からするりと抜け出すと、黄金の姫はひとつ頷いた。
「私に舞踏会の招待状を」
天秤が傾き、ゆらゆらと揺れ始めた。
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