花嫁泥棒の歌 後編

 仲間たちの手荒な祝福からほうほうのていで逃れて、住み慣れた我が家にたどり着いたときには、すっかり日が落ちていた。小屋の中は妙に静かで、中で姉が炊事の用意をしている気配はなかった。弟は首をかしげながら中へ入っていった。少なからず、今晩のごちそうを期待していたので、がっかりした気持ちもあった。すでにたらふく食べてきた身ではあるけれど、身内からの祝福はまた別の話だ。

「姉さん、いるの?」

「いるとも」

 声をたどっていくと、姉は寝室の中で作業をしていた。見たことのない剣の鞘に刺繍糸のようなものを縫い付けている。昨日の怪物の剣とはまた別の剣だ。

「何してるの?」

「これが刺繍以外の何かに見えるのかい」

 悲しそうな顔で姉が答える。刺繍糸のようなもの、はまさしく刺繍糸だったらしい。鞘の先端を補強する革の部分に、へたくそな長弓の輪郭がかたどられている。

「もしかして〈弓引き〉の紋章でも作るつもり?」

「よくわかったね」

「それにしたって、まだあと二つの長弓と、十五の矢が足りないように見えるけど。いまさら慣れない刺繍なんてやって、いったいどうしたの。そもそも、姉さんの出発は明日なんだろ。間に合うの?」

 驚きをごまかそうとして苛立ちをぶつけてしまったことに、弟は遅れて気が付いた。今日は弟の成人の儀だ。そして明日は姉が剣を捨てるための旅立ちの日だ。だというのに、いったいどうして、姉はこんな……まるで意味のない刺繍に興じているのか。厭世なのか投げやりなのか、あらゆることに対して他人事みたいなところを持つ姉だったが、さすがに今夜の仕打ちは弟に堪えた。姉は作り途中の刺繍に眼を落とした。「間に合わない」と言った。

「今夜では出来上がらないから、帰ってきたときに続きをやろうと思うんだ。なあおまえ、あの荷物をちょっと見てくれないか」

 弟は姉の指が示した方向を見た。寝台の上には簡単にまとめられた旅の荷があった。弓、ナイフ、雪刀、矢と矢筒、薬草、保存食、外套、油脂、火打石、地図、毛皮と鉤爪つきの投げ縄。そのほかこまごました物。それらが獣の腸を縒って作った紐で背負い袋にくくりつけられている。弟の眼にはいつもの旅支度と同じものが映っている。姉が何を言いたいのか弟にはわからない。

「準備をしていて気が付いたんだが、その荷物以外に私がこの家に置いていくものが何もなかったんだ。いまこの袋の中にあるもの。それが私の全ての持ち物。この集落に帰ったときに持ってきたものが、そのまま入っているだけなんだ。身一つでこの家に帰ってきて、再び同じものだけをもって外へ行く。昨晩おまえは戻ってくる気があるのかと聞いたね。なにごともなければ、私は戻るだろう。でも何かが起きてしまったとき、それでもなおここに帰ってきたいという気がしないんだ」

 トントンと姉の指先が柄を叩いた。使い込まれた跡が見えた。

「この剣は……父さんがおまえのために残した剣だよ。成人したら渡せと言われていた。〈さすらい人〉をしているときに、何度も私たちの命を助けてくれた」

 と言って、弟のほうに差し出してくる。父親の形見に作りかけの刺繍をつけた。弟のお祝い品だから、姉はこの続きを仕上げなくてはならない。ちっぽけな義務だけを、この集落に戻ってくるための動機にして、遠い南の煮え立つ海へ旅立つという。直前の、前日の、思い付きとしか思えない行動でしか、無事に旅を終えるための動機を作ることができないと言っている。弟はゾッとした。姉はそういう人間だとわかっていたつもりだったけれど。

「なんだよそれ。そんなもので戻ってくる気になるわけないだろ」

 無意識に手が出て、弟は姉の腕から剣と鞘を弾き飛ばした。土の床が跳ねる。

「いままでだってちゃんと帰ってきたじゃないか。どうして……」次の言葉をひねり出すのは大変な勇気が必要だった。「僕は姉さんの帰りを待っている。どうして、僕のために無事に帰ってくるって言えないの」

 姉はわざとらしく考えこんだあと言った。

「なぜって、おまえはもう大人だからなあ。ひとり立ちしたんだよ」

 床から剣を拾って、姉はもう一度差し出してきた。

「ここは〈弓引き〉の集落だからもらったって使わないかもしれないが、これでも〈金床〉のデーンから奪ってきた黒金の剣だ。どんなものでもよく切れる」

 いつまでも弟が受け取らないので、仕方なく姉は剣を床に置いた。それから、今日弟がもらったばかりの、大人の証として授けられた名前を呼んで、弟を抱きしめた。ふたりは似ていないきょうだいで、背の高さだけが同じだった。姉は弟を見つめて、弟は姉を見返した。髪の色も違う、眼の色も、生まれた場所も、生まれた親も、育ちかたも、手を引く者も違った。そして明日には人生も別れてしまう。

「父さんが嫌いかい、〈隼〉」

 背中に回った姉の腕が弟を優しくなだめた。

「おまえの父さんは悲しい人だった」と姉はささやいた。

「外から来た母さんは娘を欲しがっていたけど、彼女はひとりだって子どもを産むことなんてできない体だった。だから父さんは〈金床〉デーンから娘をひとりもらってきた。〈黒の金床〉、身体の丈夫なデーンの民。〈さすらい人〉の後継にはもってこいの娘……だけど、それが逆に母さんを追い詰めてしまった。母さんが欲しかったのは、よく知らない異郷の風習であがめられている後継者じゃなくて、母さんと父さんの子どもだったんだよ。結局母さんは、父さんのためにおまえを産んで、亡くなった。氷の女王は知っていたのかなあ? おまえは女王から見逃された。しるしが付かなかったんだ。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど……」

 弟の眼が驚きに見開かれる。ちょうど今朝の空を写し取ったような、晴れわたる蒼穹の青がまたたいた。この集落には一枚の鏡もない。行きかう人の姿が鏡の代わりになっていた。銀の髪と灰色の瞳。皆が同じような姿をしていた――弟以外の皆がすべて。

「姉さんはデーンの民なの?」

「生まれた場所を聞いているならその通りだよ。でも私は〈大狼〉の娘の〈狼〉だ。そして〈隼〉の姉でもある。生まれなんてなんの意味もないよ」

 姉には何も関係がないのだと弟は悟った。生まれに意味はなく、そして家族という概念さえ姉にとっては枷にならない。何も持たず、どこまでも流れていく〈さすらい人〉だった。

「なんでそんなことを言うの。いままで黙っていたなら、どうしてそのまま黙っていてくれなかったんだ……」

「さっきも言ったよ。おまえがもう大人だからさ」

「なんだよそれ……」

 グズグズと泣き出した弟は、いつの間にかそのまま眠ってしまっていた。こんなのでも成人だからなあ、と姉は少し首を傾げたあと、弟を毛布にくるんで、自分もまた寝転んだ。明日の朝、まだ日が昇る前に集落を出ようと決める。日が昇って気温が上がって、ホロスト山の機嫌が変わってしまう前に。

 翌日、姉は予定通り暁を待たずに出立した。集落の見送りはわびしいもので、弟と〈狐〉くらいのものだった。〈双子姫〉は現れず、此度の使命を課した首長さえも姿を見せない。弟が腰に剣の鞘を下げてくれていたことが、少しだけ姉の気持ちをなぐさめた。

 そしていま、そりを引くトナカイの背中の向こうには、あかがね色の曙光に染まった大地が延々と続いている。〈狼〉の視界をさえぎるものは時折目に飛び込んでくる冷たい雪だけだ。〈狼〉がふと振り返ると、背後に見えていた小さな集落の黒い点は、ますます遠ざかっている。もうじきその点さえ雪の中にかき消えるだろう。集落を出てすぐの頃のような、後ろ髪を惹かれる思いは徐々に摩耗しているようだった。そのかわりに取り返しの付かない喪失感が襲ってくるような、うそ寒い思いが吹き溜まりつつあった。しかしトナカイがそりを引き、雪が押しつぶされていくギシギシという音にだけ精神を集中すると、その感傷はすぐに去っていった。

 遠く南にうっすらと見えてきた目的の山々のふもとに目を凝らす。〈狼〉がいる位置からでも、白い威容が感じ取れるようだった。日が沈むまでにあそこへたどり着かねばならなかった。

 日が沈むと同時に猛烈な吹雪が襲ってきた。

 一足早く外輪山のふもとにある隧道にたどり着いていた〈狼〉はすばやく隧道の奥へと身を隠した。雪が吹き込まないほど奥まで侵入した時点で手にしていたたいまつを地面にねじ込む。雪刀を刺してトナカイの手綱を固定する。そりから火種と少量の薪を取り出し野営の支度をする。薪に火が移ったのを確認して、たいまつの火を消す。干し肉を突き刺した枝を火のそばに置き、一息つくように地面に座り込む。尻の下には灰色狼の毛皮を敷いた。集落を出る際、〈狐〉が餞別として寄こしてくれたものだった。一人で外へ行くのは初めてだった。最初は〈大狼〉が一緒で、〈大狼〉がいなくなってからは〈梟〉が相棒だったから。

 火が肉を暖めるのを待つ間、手持ち無沙汰になった〈狼〉は腰に下げていた剣を鞘から引き抜き、その黒味がかった鋭利な切っ先を眺めた。

「おまえを海に捨ててやる」

 声は壁に反響し、隧道の孕む闇に吸い込まれていった。反響した声は自分のものでない言葉を返してくるようだった。暗がりから返るのは死者の言葉。とりわけ〈大狼〉と〈梟〉の言葉だ……〈梟〉は遠からず死にそうだった。剣を南の果てに捨てに行くまで、彼の命は待っていてくれるだろうか。

 死にかけの〈梟〉と、冷たくなった〈双子姫〉は並んで寝ていた。〈梟〉が生きているほうの〈双子姫〉を追い払って、その場には〈狼〉以外に誰もいなかった。

「信頼と妄信をはき違えるなよ、賢い〈狼〉、偉大なる〈大狼〉の娘」死にかけの男はそう言った。「俺は間違ってしまった。かばわなかったほうが死ぬかもしれないとわかっていた。わかっていて、もしかするとあいつならば生き残れるかもしれないと思ってしまった。氷の女王が彼女を護るのではないかと……だがあいつは氷の女王に召された」

 それはそうだろうね、と言わないだけの分別が〈狼〉にはあった。だが、わざわざ奥方を追い払ってまで伝えたかった内容が、惨劇の悔恨だけなのだろうかという疑問があった。少し考えたあと、〈狼〉は首を傾げた。

「つまりこういうことかな? 私は〈梟〉や弟の強さを思ってる。死ぬわけがないと信頼している。だけど死ぬんだ。だから、私は急いで剣を浄化しなければならない」

「そういう向きもある」〈梟〉はやんわりと否定した。ではどういう意図なのか。〈狼〉は続きを促したが、男は眼を閉じた。毛布の下から腕を出して、部屋の隅を示す。〈狼〉は部屋の隅に視線を転じた。

 次に〈狼〉が目を覚ましたとき、ぼんやりとした視界に消えかかった熾火が映っていた。毛皮で厳重に包み込んだはずの体はすっかり冷え切っていた。ひどい頭痛と悪寒がした。毛皮を身に付けたまま身を起こし、体をぶるりと震わせ悪寒を追い払う。二日前の集会所の記憶がこぼれ落ちて、現実が戻ってくる。

 酔っ払って外で寝て、そのまま氷漬けになってしまった帝国人の知り合いのことを〈狼〉は思い出していた。

 使えそうな熾きを選び取り鉄のカンテラに放りこむ。昨日から地面に差し放しのたいまつと雪刀を回収し、たいまつには再び火を灯す。途端、薄闇に包まれていた隧道の中が明るくなった。昨晩地面につけておいた目印から隧道の奥へと進む方向を確かめ、手早く野営の名残を片付け、トナカイの手綱をとってそりを引き始めた。歩き始めてしばらくの時間が過ぎた。隧道は奥に進むにつれ狭くなるということもなく、ただ変化の無い岩壁がひたすらに続いている。〈狼〉は時折口に干し肉を含みながら黙々と歩いていた。三つめの欠片を飲み込んだところで、毛皮のブーツの底が地面の感触の変化を伝えてきた。地面は氷と土が交じり合ったむき出しの凍土から、足場の悪い泥の道に変わっていた。前に通ったときはこうではなかった。

 突然、辺り一帯で土の匂いが強くなる。足元がぐらついて、地割れの音が聞こえてくる。

「行けッ」

〈狼〉は叫んでトナカイの尻を叩く。哀れな獣は悲鳴を上げて、猛然と前に駆けだした。〈狼〉もまた駆けた。トナカイが牽いていたそりの引き綱を半分奪い取る形で腕に力を込める。荷を置いていくのは論外だった。ホロスト山麓から最初の人里にたどり着くまでを着の身着のままで乗り切れると信じるほど、〈狼〉は外の世界に無知ではなかった。背後で轟音が響いて、突風が土埃を吹き付けて、たいまつの火が消える。肺の中を暗黒が満たしている。トナカイが恐慌しなかったのはほとんど奇跡だった。〈狼〉とトナカイはそりを引いたままひた駆けて……不意に視界が開けた。

 肩のすぐ横に迫っていた暗がりは消失した。太陽の光と雪面の反射が瞼の裏を刺した。一人と一頭は土埃にまみれた姿で雪の斜面を走っていた。少し遅れて、背後からまた土煙が押し出されてくる。地鳴りはやんでいた。崩落は止まっていた。〈狼〉は隧道まで引き返して中の様子を確かめることはしなかった。埋まってしまったことはもうわかっていたからだ。走りながら〈狼〉は笑い出した。これでもう帰れないぞ。これでもおまえはまだ刺繍のために戻る気なのか? 昨日〈隼〉に言われた通りで、あんなもののために崩落した隧道を超えてまでホロスト山の牢獄に戻るわけがないのだ。

 息が上がってきたところで、トナカイにそりの引き綱を任せて、〈狼〉はそりの荷の上に乗った。戻るときのことは、またあとで考えればいい。隧道を抜けてホロスト山の南の斜面を下ってしばらくは無人の山野が続く。考える時間はいくらでもあるのだ。トナカイも自分を急かしていた主人の変化に感づいて、徐々に駆け足の速度を落としていった。昨晩の吹雪はおさまっていた。いつもの荷を牽くだけの速度に戻って、トナカイは処女雪の美しい表面を蹴って軽々と進みはじめた。下りの道だから牽引の力はさほど必要ではない。〈狼〉は前方の木々に荷をひっかけないように相棒を誘導するだけでよかった。

 そのトナカイの背が、少し沈んだ。〈狼〉が荷の山から腰を浮かしたときには、トナカイの姿は消えていた。クレバスに落ちたと直覚する。こんな場所にあるものではないはずだった。もっと標高の高い、外輪山の峰に近いところまで獲物を追いかけたときだけ注意すればいいはずの氷の裂け目が、前方で奈落のあぎとをひらいていた。〈狼〉は転がり落ちるようにそりから飛び降りる。勢いのついていた体は前方に投げ出され、トナカイの引き綱に導かれたそりごと裂け目に滑り落ちていく。足と手が空を切った。白一面だった視界が反転し、青い氷の裂け目に飲み込まれる。〈狼〉は夢中で手を伸ばした。氷壁ではなく、自分と同じように落下している荷に向かって。鉤縄を捕まえて、上だと信じた方向に投げつける。この落下が止まるかどうかは運次第だ――

 はたして粉雪の瀑布がおさまったころ、〈狼〉は一本の鉤縄をたよりに宙にぶら下がっていた。鉄の鉤爪が氷壁のどこかにうまい具合に引っかかってくれたらしい。少し遅れて、下方でそりの木組みが砕ける音がする。トナカイの悲鳴は聞こえなかった。下の深さを確認してみる。陽光を透かした氷壁は、地上付近では青白く輝いているが、そりとトナカイが落ちていった裂け目の底は暗がりに沈んで見通せない。一度上まで這い上がって、楔を打ってもう一度荷を取りに降りる必要があるが、どれほどの深みに落ちてしまったものか……。〈狼〉は白い息を吐いた。生死を分ける一瞬は過ぎ去り、生き残った者はこれからのことを考えなければならない。地上に這い登るため、鉤縄をつかむ腕に力をこめた。登りながら、この裂け目も、隧道の崩落に関係しているのかもしれないと考える。あのときに地面が揺れていたから、その衝撃で氷が割れたのかもしれない。ぐずぐずしていると雪崩の可能性だってある。奥歯を食いしばり、地上ににじりよっていく。地面付近に吹く風が雪を裂け目に吹きおろしてくる。首を振って〈狼〉は冷たい欠片を振り払った。

 あと人一人分の高さで登りきれる、というときだった。

 縄が切れた。

 落下は突然におとずれた。

 思わず〈狼〉は天を仰いだ。裂け目の外には青空が広がっている。地上はあまりに近く、遠かった。切れた鉤縄の端が踊るようにひるがえる。繊維がはじけ飛んだはずの断面は不思議と鋭利な面を見せていて、奈落の途上で〈狼〉は思い出していた。〈隼〉の眼を思い出していた。彼の瞳もこんな色だった。

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