ヒカリノアト

 あれはいつのことだったか。人間たちの世界を久しぶりに覗こうと思ったのが、運命の分かれ道だったのか。わたしは、同じ夜に生まれたきょうだいたちと連隊を組んで、北の裂け目を翔破し、境をまたいでいる最中だった。

 突風が吹いて、その瞬間、空が真っ赤に燃えた。

 きょうだいたちが鳴きながら赤い空の中を逃げまどっていた。なぜなら、いままさに潜り抜けてきた異界の裂け目が、みるみるうちに閉じていったからだ。あちら側に帰れないことが、わかってしまったからだ。わたしは身構えていたので、きょうだいみたいに鳴かずにすんだ。北の裂け目が開いてそろそろ百年だか、二百年だか知らないが、とにかくしばらくの時間が過ぎていた。うすうすこんなことになるんじゃないかと思っていた。人間たちが閉鎖しにくる頃合いだと思っていたのだ。

 でもそれが良くなかった。

 きょうだいたちは我先にとその場からめいめい飛び去っていったけれど、やっぱりね、と一呼吸の間に冷静になったぶん、わたしは出遅れてしまったのだ。気が付くと赤い空に独りでぼんやり浮いていた。空は燃え、煙と灰の世界の中、黒々とした虹が天にかかっていた。虹を引き裂くように天地を結ぶ巨大な火柱が燃え盛っていた。火柱の周囲は炎の雨が渦を巻き、その外側を猛吹雪が吹き荒れていた。

 あの火柱が異界を閉じたんだ。

 ことの次第の原因になった火柱を見て、火柱の根本に眼をやった。そして、いにしえのまじないのにおいがする祭壇と、そいつらを見つけた。

 人間が三人。

 一人は泣いていた。体の大きな男。小さな男と、もう一人の男を降りかかる火の粉からかばいながら、祭壇の下から退避しているみたいだった。炎の雨からよろけるように逃れでて、躓きながら、猛吹雪の世界に逃げてゆく。大男が両腕に抱えている二人の男は、どちらもぐらぐらと揺れて引きずられている。

 抱えられているうちの一人は死んでいた。体の小さな男。

 もう一人のほうも死にかけていた。そして、たぶん、偶然だと思うのだが、その死にかけの男は、どうやらわたしの縁者みたいだった。父さんと同じ匂いがする。

 きょうだいは去り、わたしは異界で独りきりだった。だから、その父の匂いに引き寄せられてしまったのは、仕方がないことなのだ。

 おい、そこのヤツ。

 と声をかけたのだが、凄まじく吹き付ける氷雪が荒々しく声を奪っていった。そうだそうだ、ここは冬山の山頂だった。なんでこんなところに人間がいるのかなあ。まあ仕方がないので、もっと力を込めて叫ぶ。

 おいっ、そこの、おまえっ! おまえだよ、死にかけの魔法使い!

 抱きかかえられていた男が、弱々しい動きで顔を上げた。狂風がフードを撥ね飛ばす。ああ、なるほど。父さんのかんばせにそっくりだ。でも、鼻の先が青黒く変色している。凍傷があまりにも辛そうだったので、父に似ている顔に免じて、わたしはふーっと息を吹きかけた。男の顔からひゅるひゅると赤い花が芽吹いて、氷漬けの顔面を花弁が優しく包み込んだ。

「スワンク?」

 魔法使いを抱えていた大男が驚いている。

「おい、なんだこれは。おまえの魔法か?」

 魔法使いは口から生えていた花をぺっと吐き捨てた。

「違う。そこに」と、魔法使いはわたしを指差した。「妖精が来ている。やはり眉唾だったのか? 異界を閉じる儀式など、なかったということか。……インゾルフェイドにはすまないことをした」

「妖精だと?」

 そうそう。

「正気か?」

 そうだね、妖精の血を引いてない者には、姿が見えないし、声も聞こえないから、びっくりするだろうね。

「正気だ。気をつけろオズ、妖精は異界の住人、暗闇の森に棲む邪悪なモガモガ」

 わたしたちは、妖精の国、妖精の森に暮らす、歌と踊りをこよなく愛する、愛の狩人だ。嘘をさえずる魔法使いの口に赤い花をいっぱい生やして、静かにしてもらう。魔法使いは花に咳き込んで、大男が慌てて花をむしり取っている。面白いから、そのままにしておくことにした。あの魔法使いには、しばらく口から花を生やしてもらおう。

 大男が魔法使いにかかりきりになったので、もう一人の男、冷たくなった死者は、雪面に投げ出されていた。細身の若い人間の男だ。真っ白な顔、凍りついた顔。かばう者がいなくなればたちまち雪が降り積もる。冬の雪山に似つかわしい姿だ。

 可哀想だな。

 そう思った。迷ったのはほんのちょっとの間、わたしと死者の間に、猛吹雪の雪片が二つ三つ舞うくらいの短い時間だった。わたしは息を吐いた。荒れ狂う冷風の隙間をぬって、くるくると渦を巻いて、冷たい顔に吐息が吹きかかる。たちまち白い花が咲き乱れて、雪原に小さな花畑が現れた。

 もっと咲け。もっと。

 吹雪から花たちを守るように両手を広げると、花たちが面白いくらいに狂い咲く。冷たい男を包むだけでは飽き足らず飛び火のように広がっていく。雪の上を新しい白で塗り替える。火柱を支える祭壇まで伸びたものは即座に焼き払われ、炎の雨を受けた花弁は黒く枯れ落ちる。

 でも、もっと。

 と、がんばりたかったところなのだが、炎と花のせめぎあいは、結局、わたしの力負けに終わってしまった。祭壇の周囲を除いた一帯を白い花で埋め尽くしたところで、なんだか疲れてしまったので、わたしは両手を閉じた。白い花たちはたちまち広がるのをやめた。花弁が右に左に風になぶられながら揺れている。

 まあこんなものだろう。

 そしてわたしは白い花に覆われた冷たい男の頭を抱いた。向こうのほうから、父に似た魔法使いの呻き声が聞こえる。やめろ、だってさ。でもやめてあげないよ。凍えた頬に手を添えて、耳元に口を寄せて、ささやく。

 起きて。

 凍り付いたまぶたが震えて、うっすらとひらいた。赤い瞳がわたしを見た。まばたきを繰り返して、不思議そうな顔をしている。

 おはよう、赤眼の人。

 これからよろしくね。

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