笛吹無残 前編 熱病の噂
可哀想に、東に住む三叉の川のヒトが、熱病にかかってしまったそうだ。
と〈血みどろ星〉のヒトが女王陛下の前で奏上した途端、煌めく夜光貝の宮殿は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。女王陛下は眼を伏せて、先触れたちに手を引かれて宮殿の奥に引っ込んでしまったし、残された楽士や踊り子たちも、陽気なふりはできなくて、明るかった大広間に木枯らしが吹きこんでしまった。
やだやだ凍っちゃう。
寒い、寒い。
招待客は口々に囁きあって、血みどろ星の余計なお節介にブーたれながら、白けてしまった大広間から次々に逃げていった。中庭からヒトビトは飛び去る。静かな夜に輝く羽の軌跡が描かれる。注意深く見ると〈血みどろ星〉を呪う魔方陣になっているかもしれないけれど、わたしは夜空を見ているどころじゃなかった。慌てて女王陛下を追いかけて、追いかけながら、春の歌を歌うことも忘れない。頭の後ろの妹と弟に笛と竪琴を奏でさせて、わたしは歌った。駆けだした足元からひゅるひゅると風が吹き出して、冷たい石英の床の隙間から緑の芽が伸びて、つぼみが膨らんで、小さな可愛らしいお花が咲いた。回廊に春が訪れる。
そうやって息を切らして歌って通り道を片端から花畑に変えているから、宮殿の奥に去ってしまった女王陛下になかなか追いつけない。でも、凍えてしまった宮殿に春の歌を呼び温かな風を吹かせるのはスズランの役目なのだ。わたしは三つ子スズランで、この役目を投げ出すことはできないんだ。
妖精には生まれたときに役目が決まっている者とそうでない者がいる。
わたしと弟妹は音楽を奏でる役目を負って生まれてきた。役目と役目に付随する約束事を守っている限り、わたしたちは少しずつ歳を重ねることができる。冬季に凍結せず無事に千の年を経ると、常春の国への架け橋を渡ることができる。常世の国は冬がないらしい。優雅な舞踏を踊らなくったって、心騒ぐ音楽を奏でなくったって、寒さに凍えなくてすむ。役割を持たない妖精は悲惨だ。役目以外の方法で歳を重ねなくてはならない。そう、たとえば……
「きゃっ」
突然、大きな黒い影が行く手をさえぎった。わたしも驚いたけれど、立ちふさがった影のほうもよほど驚いていたようで、影はぶるっと震えあがってよろめきながら後じさり、回廊から中庭に転げ落ちてしまった。カシャカシャと渇いた音がする。回廊の端に寄って、そっと中庭を覗き込む。折よく天の二つ月が雲の隙間から顔を出していた。柔らかな草地に倒れていたのは、大きな、おおきなおおきな、ボロ布だった。あの布の中にわたしが十人くらい入れそう。ほつれて黄ばんだ布地をじっと見ているとのどの奥がきゅっとしめつけられる。なんだろう、この感じ。このヒトは大きな身体をツギハギだらけの布に隠して、うずくまって、月光の下で震えている。なんていうか。なんていえばいいのか……可哀想な……?
「ねえ大丈夫?」
あわてて中庭に飛び降りる。冷たい! はだしの足の裏の下草にはいつの間にか霜がおりていた。大変だ。もうこんなに寒くなってる。弱いヒトならもう凍ってしまうかもしれない。わたしは焦って布の端を引っ張った。スルスルとボロ布が引かれて、倒れていた大きなヒトの姿があらわになる。おおきな、おおきな身体は、骨しかなかった。そこには四つ足の巨大な骸骨の獣物がうずくまっていたのだ。草地に投げ出された獣物の骨を見ていると、煌めく夜光貝の王宮が忘れ去られた廃墟になってしまったような、怖いような不安なような気持ちが押し寄せてくる。
怖いと思ったのは、その獣物がこの世のものとは思えないほど美しかったからかもしれない。白い骨は月明りに煌めいてまるで硝子細工のよう。複雑に絡んだ胸骨の奥に、真っ赤に燃える心臓がルビーのように輝いている。わたしが布を引き剥いだせいなのか、霜のおりた草地に倒れているからなのか、寒そうにガタガタ震えている。慌ててボロ布を巨体にかけ直したけれど、大きな背中に手が届かなくて完全に元に戻すことはできなかったし、布の下からは、カタカタ、カタカタと、震える骨の音がして、罪悪感が押し寄せる。ああ、このボロ布は、虚ろを見せないための目隠しだったんだ。
「ごめんね、わたし、急いでたんだ。よそ見しちゃってた。どこか痛いの? それとも寒い?」
頭蓋骨の前に回り込んで、頭を抱き上げる。冷たい。軽い。額の横からわたしの身体よりも長い双角がネジネジと伸びていたけれど、それを含めても小石より軽かったのだ。
「あなた、とっても軽いのね。ちょっと待ってて。あっためてあげるから」
片手で頭蓋骨を持って、もう片方の手で白い額をナデナデする。骨の獣物がびっくりしたみたいな感じで身じろぎしていたけれど、わたしはもう歌いはじめていた。何を歌うかは決っている。一番身体を温める歌、春の歌を。石英の回廊を緑が芽吹く小道に変化させたみたいに、骨の獣物にもたくさんの草木を詰め込んであげるのだ。妹が歌に合わせて笛を吹き、弟が竪琴をかき鳴らす。牙みたいに噛み合うあばら骨の隙間から緑のツタが生えてくる。ツタの周りに小さなつぼみが顔をのぞかせる。やさしい風をひと吹かせすると、ほころんで桃色の花弁をこぼしてくれる。足元の霜が溶けだして、草花が露をまとって月光を跳ね返す……こんな感じでどうだろう。歌をやめて、頭骨の頬をなでる。
「ね、あったかくなったかな?」
訊いてみたけれど、獣物の頭骨はカタカタ歯を鳴らすだけだった。喉に肉がついてないから声が出ないのかもしれない。
あ。いいこと思いついたかも。
わたしは頭の後ろにぶら下がっていた妹と弟をもぎ取って、獣物の口の中に押し込んでみた。
『なにをする!』
ほらね、妹の声で獣物がしゃべった。
『む? 私は……声が……声が出せているだと』
今度は弟の声だ。獣物がしゃべるたび、弟妹は獣物の呼気にビリビリ揺すられて、くすぐったそうに身をよじってる。いいなあ、楽しそうだなあ。
「こんばんは、骨の獣物さん。わたしは〈三つ子スズラン〉の長子。いまあなたの喉にいるのが、わたしの妹と弟。ねえ、身体は温かくなったかしら?」
『重い』
「え?」
『身体が重い。なんだ、これは。臓物代わりにツタが生えているではないか』
「お花もあるよ。ね、可愛いでしょ?」
『可愛いだと?』
「うんうん似合ってるしカワイイよ。ねえ、それで、温まったの? もう寒くない?」
『カワイイ……』
「寒いの?」
『いや寒くはない』
「じゃあよかった。わたし、お仕事があるから行くね。驚かせちゃってごめんなさい。さよなら!」
喉の奥の弟妹をぶっこぬいて自分の頭に盛りつける。弟妹は、とくに弟のほうは、骨の獣物の居心地をよほど気に入っていたようで、ぴーぴー泣いている。でも、わたしたちにも役目があるからね。中庭から回廊に上がって振り返ると、骨の獣物が立ち上がっているところだった。四肢をぴんと伸ばして立つ姿は、骨の姿だけれど、凛々しく見えた。頭骨の両眼のくぼみがぼんやり赤く光って、あばらの中のツタがざわざわ騒いでいる。きっとさよならを言ってくれているんだ。わたしもちょっと手を振り返して、今度こそ女王陛下が去っていった宮殿の奥を目指して走りだした。もちろん歌を歌いながら。
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