ヒカリアレ
夜半より吹きすさぶ風は魔物の爪の様相を呈していた。とうに凝固しているはずの固い雪面を抉り引きはがし、隊列の前に灰色の瀑布を撒き散らす。四周は一面の白。視界はまるで利かず、遭難が時間の問題であることは誰の目にも明らかだった。
「駄目だ、ここで止まろう」
戦士オズの提案は反対もなく受け入れられた。狩人インゾルフェイドが雪刀で箱状に地面をくりぬき、戦士オズが切り出された直方体の雪塊を煉瓦のように積み立てて簡易の雪小屋を建てる。魔法使いスワンクが小屋の中に灯りを招き入れて、三人はようやく落ち着いた。互いの膝が触れるくらいの狭い小屋だったが、外を吹き荒れる暴風から身を守れるならばなんでも良かった。
「スワンク。足はどうだ」
沈黙を破ってインゾルフェイドが尋ねる。スワンクは首を振った。
「もう腰だけで動かしている感じだ……たぶん、おれはもうここから出られない」
狩人インゾルフェイドは否定の言葉を返せなかった。スワンクのはいていたブーツを脱がせていたオズが一瞬息を止めた。凍傷による壊死が進行しているのだろう。こうしている今も痛痒あるいは激痛が満ち引きする潮騒のようにスワンクを苛んでいるに違いない。スワンクの命のともしびは潰えようとしている。そしてこの一行の灯りと暖を提供する役目である魔法使いの命運は、いずれ遠くないうちにインゾルフェイドとオズにも降りかかるであろう。
これはダメだな。
とインゾルフェイドは決めつけた。もとより出立の前から成功の目も出ない様子だったが、それがいよいよここにきて、押しも押されぬ、認めざるを得ない段階まで局面が極まった。そう思えば腹も立たなかった。ただ、この任に選ばれた他の二人が哀れに感じられたのだ。死地に向かわされた彼らは故郷に何を置いてきたのだろう。名誉か、金か。あるいはインゾルフェイドのように罪科だろうか。
「背負えるか? オズ」白い息を吐いて狩人は尋ねる。戦士オズは厳めしく頷いた。
「ならば次の行進からはそうしてくれないか。先導は私が代わる」
インゾルフェイドはことさら明るく笑ったが、そのまま嵐は三日三晩吹き荒れ、三人は小屋から出られず、スワンクの浅い呼吸はついに言葉を吐きださなくなった。壊死した足の毒素が頭にまで回っているのか、受け答えもはっきりせず、ときおり思い出したように痙攣を繰り返す。魔法の明かりは三日目の昼に消えた。その夜インゾルフェイドとオズはスワンクをかたく抱いて眠りについた。
四日目の朝、戦士オズが決めた。
「スワンクを置いていくか、スワンクの足を置いていくかのどちらかだ」
目に見えて減ってゆく糧食を数えていた手を止めて、インゾルフェイドは頷いた。「いいぜ」スワンクの頬を叩いて起こす。
「起きてくれ、スワンク。決めてほしいことがある……」
魔法使いの口元に耳をよせて返事を待つ。近づくと、呼吸は最初の夜以来、いつになく安らかで、かすかに酸っぱい匂いがして、インゾルフェイドは魔法使いから選択権を取り上げることに決めた。
「足を置いていくってよ」魔法使いの鼻をつまんで告げる。
オズの黒い眼が責めるような色を宿した。だが反論よりも速く、戦士の腕に雪刀を押し付ける。「なあまさかスワンクの声が聞こえなかったのか、戦士殿?」
折良く吹雪は止んでいた。戦士は少し軽くなったスワンクを背負い、雪の道を分けて行く狩人に続く。先導は若く体力のある戦士の役割だったが、スワンクという荷物が増えたのだから役割の交代は当然のことだ。幸い、スワンクは雪小屋を出た翌日の昼に正気付いた。風避けのまじないをかけるくらいのことはできるようだったので、インゾルフェイドたちの死期も、少し伸びた。
「まったく、まったく。これでは帰路が怪しくなってきたなあ」
ついつい、狩人の口からは愚痴がこぼれた。再び雪小屋を作って一晩を過ごす、山頂まであと一日という道程だった。両足に巻きつけた獣の毛皮靴をほどき、指先が凍傷にかからないように按摩する。雪山に足を踏み入れてしばらくは、まだ必要ないと判断し、これを怠っていた。だが、想像以上に魔法使いスワンクの装備が貧弱だったのと、彼が忍耐強い性格だったことが悪い方向へ作用した。あとの行程は惨憺たる有様だ。雪を踏む足は鈍り、糧食は尽きようとしている。
「さて、登頂すると退路が無くなるかもしれないが、どうするか決めたか?」
糧食は今すぐにでも引き返したとしても復路のぎりぎりで、余裕はまるでなかった。そしてこれから山頂を征服し、かれこれ数十年もの間、氷に閉ざされていた烽火台に炎を甦らせねばならぬのだ。炎を熾すのにどれくらいの時間がかかるのかは、烽火台をむしばんだ歳月と、山頂の天候のみが知っている。
つまり、ここが最後の分岐点なのだった。インゾルフェイドはもとより片道で構わなかった。だが他二人はどうか。
「どこからでも見えるらしいな」不意にスワンクが言った。
魔法使いが呪文以外の言葉を紡ぐのはかれこれ一日ぶりだった。彼が言うのは、烽火台から燃え上る炎の柱のことだ。
「『其は天を割くほどの巨大な火焔』……というやつか。炎の雨が降り、天に七色の薄布がかかると聞いているが、本当かねえ。この世ならぬ楽園がそんなに近場にあるとは思えんが」
ついつい懐疑的な口調になるのは、狩人は異界の伝承を信じていないからだ。狩人がこの無謀な北進に参加させられるときに聞いた話はこうだ。
古きまつろわぬ異形(男は「神」という言葉を恐らく避けていた)が撒いた災厄の一つが、男の一族によって北山に封じられて三百余年。かつて男の先祖が残した予言によれば、北山に留まり続けた災厄の吐息が、山脈を残らず穢れた大地に塗り替えたとき、封印は解かれ、異界の地が顕現するという。だから定期的な浄化が必要なのだと。
だが穢土とやらの増殖を待たずとも、王国が倒れるのはそう遠くない世のことだろう。
インゾルフェイドは薄く笑った。彼ら三人に語ったその男は、すでに人間ではなくなっていたのだ。この国の王の息子だと名乗った男は、まごうことなき犬の頭をしていた。なにも北ばかりから異界が侵食するわけではない。美しくきらびやかな血で彩られる王城の内部は、さぞ面白いことになっているに違いない。
王家は定期的に烽火台に炎を焚くことを義務付けられていたが、高貴な血筋に極地の環境は過酷にすぎた。行軍は全滅のたびにその規模を縮小し、いまでは日雇いの三人が最小単位として認知されて久しい。王国は既に追い詰められている。穢土の浄化に罪人たちがかりだされるほどに。狩人は鼻を鳴らし、また顔を青白くしている魔法使いの頬を小突いた。
「どこからでも見えるとして……だったら何だっていうんだ。戻るのか、戻らないのか?」
狩人は苛立ちをそのまま言葉に乗せる。対する魔法使いは冷静なものだった。
「どこからでも見える。王都からもな。おれたちが役目を果たしたことを皆が知るだろう。約束は……果たされる」
白い息がたなびいた。彼は微笑みを浮かべたつもりなのだろうか? インゾルフェイドは目を細めて魔法使いの青ざめた顔を見たが、埒が明かないと判断して、それまで無言を貫いていた戦士にも同じ問いを投げた。
あんたは戻るのか?
「進むさ。スワンクは軽いし、おまえは頑丈だ。戻る理由はない」
「犬王子が約束が守らなかったらどうする? 無駄死にだ」
残酷な問いは、夢見がちな頭を外の冷気以上に冷やしてやれるだろう。だが狩人の目論見は外れた。魔法使いも戦士も、薄ら笑いを浮かべていた。久しぶりに見た、王都で最初に落ちあったときに見せた表情だった。残酷な雪の女王が裾を翻すたびに剥がれ落ちていった自信、矜持、明日への覇気。いつの間に取り返したものか、狩人は気がつかなかった。
「皆に見えるのだ。ならば皆は犬が約束を破ったことを知るだろう」
戦士との会話はそれきりで終わった。あとはもう余計な口は利かずに、登頂に至る手順を確認するだけに努めた。
狩人インゾルフェイドはここからほど近い雪山の生まれだった。死出の旅路への道先案内を買われた理由がそれだ。王都で犯した殺人を見逃すと言われてここまで来た。山頂に至らなければ同行した戦士と魔法使いがインゾルフェイドを処断する。狩人にとってはそういう約束だった。戦士と魔法使いにはまた別の約束があるのかもしれない。
狩人は最後の夜だというのに目が冴えて眠れない。明日にも死が迫ると分かっていると意識すればするほど、殺人の瞬間の、温かく降りかかってきた体液の記憶がまぶたの裏に蘇るようだった。炎の雨が誰にでも見えるなら、姉にも見えるのだろうか。明るい空の下で笑う姉にも見えるのか。遠くの空に降る雨を見つけてくれるのだろうか。雪の下に眠るインゾルフェイドを。
あくる日、三人は深夜のうちに最後の出立をした。
山は晴れていた。降雪もなく、雪を踏む足音だけが、山頂を目指していた。
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