星の地平 中編2

 夜の森はざわめいている。獣は下草を踏みつけひた駆けていた。風景は背後に飛び去り、地面は足元を滑るようだ。息を切らし、走れば走るほど、獣道は暗い闇に沈んでいく。だが、現実のすべてをまるきり裏切って、獣の足は鳥の羽のように軽かった。この足があれば、なにもかも置き去りにして、どこまでも逃げることができる。振り切るように走り続けている途中で、ふいにシスは覚醒した。つかの間獣が走っている理由を考えて、ようやく思い出す。

(声が聞こえたから、獣は走っているんだ)

 少女の悲鳴だ。きっと〈ささやき木立〉の影たちの誰かの声だろう。どこかで聞いたことのある声だった。耳に残るとがった声が、やがて、すすり泣きに変わる。

(キアだ)

 獣は跳ねるように声を追いかけた。夜を見通す眼に、やがて、淡いぼんやりとした青い光が見えはじめる。〈ささやき木立〉をさ迷い歩く影の姿は、いまは小柄な影が一つきりだった。その影がするすると木立の間を抜けてゆく。何者かを追うように――あるいは逃げ惑うように。シスもまた影を追いかけた。影は「いや」と言っていた。

「いやよ。あたしも行く。なんで、あいつらが選ばれて、あたしはダメなの?」影が腕を伸ばした。その先にいる何者かによって、腕は強く振りほどかれる。

「なんで? あいつらなんかより、あたしのほうが、身体も強いし、頭の回転だって良い。どうせ嘘をつくなら、あたしのほうがうまく……」

 突然影が身をよじった。シスは追跡の脚を止めた。

「なにするの」ゾッとするような声だった。「やめて」「やめて、お願い。ごめんなさい。おね、おねがい」「おねがいします、おねがいしますぅ……あっ……あひっ……あ、ああ……」のたうつように影は地に身を伏せて、じたばたともがいて、やがて声も動きもまったく止まった。

 全身の毛が逆立っていた。

 木々の間から流れてきた薄靄が、影を優しく包んで、ぼんやりとした輪郭が乳白色の中に溶け込む。一陣の風が吹いた。影は靄ごと吹き散らされて、黒い塵になって、風下のどこかへと流れていった。森の奥がざわめいていた。青白い燐光が瞳のように瞬いて、塵を追いかけるようにおっとりと流れていった。

 地面に前脚の爪が深く食い込む。なにか凶暴なものが心臓の近くで騒ぎ立てている。それが血のように全身を巡り、爪先まで震わせて、もう一度心臓まで戻ってきたとき、衝動が獣を支配した。シスは狂乱して咆哮した。森の中を奔走し、木の幹に体をぶつけ、木の根に脚をひっかけ、見つけた泉に飛び込み、睨んだ巨岩に踊り上がり、身体を震わせて水を飛ばし、爪を立て、また夜の風を切って疾駆した。

(息が苦しい)

 だが死んでいない。

(心臓が破れそう)

 だが死んでいない。シスは生きている。キアはいなくなって、シスはまだ生きている。

(違う)

 キアはいなくなった。

 現実を覗き見ている最中に相手が死ぬことははじめてではなかった。死んだ者はみなあの霧に連れていかれる。シスは吠えた。獣が息切れして足がもつれる。それでも無理矢理に四肢を動かし、駆けずり回る。キアはいなくなった。

(違う。わたしは喜んでなんかいない)

 ではなぜ心臓の鼓動は興奮をおさめてくれないのか。内なる反問に応えるすべを持たない獣は、狂奔に身を委ねて走り回ることしかできない。草にまみれ、小枝にまみれながら、シスは獣の脚で駆け続けた。

 そんなだったから、足元への注意がおろそかになったのは当然の帰結だった。

 突然柔らかいものが足の裏と地面の間に挟まって、獣の身体が平衡を失う。泥に滑るような感触を確かめようと、シスは我に返って足元を確認し、地に横たわっていた人間を無遠慮に踏みにじっていたことを知った。

 あっ、と思ったときには、不安定な足場に踏ん張ろうとした前脚に、いよいよ全身の体重がかかる直前だった。慌ててシスは獣の身体をひねった。前脚の力を抜いて、前方に身を投げ出すようにして転がる。勢いのついた身体は思いのほかゴロゴロ滑って、獣の突進は、ひときわ太い木の幹に背中をぶつける形でようやく止まった。尻尾は上に、頭は下に。腹を見せて逆立ちしているみたいな姿勢で息を荒らげている獣の顎に、衝突の揺れによるものなのか、落葉が二つ三つ降りかかった。

「ぐっ……」

 夜の森の木立に、シスが踏みつけた誰かのうめき声が、虚しくこだました。

 その瞬間、シスは狂乱が醒めたことを理解した。衝動は、憑りついたときと同様に、突然に獣の中から去っていった。

 シスはしらじらしい気分で木の幹から背中をはがして、四つ足で立ち、ぶるっと身震いした。五六歩戻って、倒れた人間を覗き込む。うつぶせで倒れている人間の、腹のあたりに鼻づらを突っ込む。甘く粘つくような臭いが獣の本能をざわめかせるが、シスは理性的に、前脚を踏ん張って軽そうな身体をひっくり返した。

 やはりというべきか、輪郭から淡い光をこぼすように艶めくその人は、前に見たあの少年だった。あの時シスを睨みつけた強情そうな青い眼が、いまは苦痛を耐えるように眇められている。

(こいつ、なんでまだいるんだろ)

 半ばあきれるような気分になる。邂逅も二度目となれば、ゆめまぼろしにはできない。あまり考えたくないが、この森はもうシスだけのなわばりではなく、この不躾な侵入者のものでもあるのかもしれない。

 少年は前に見たときよりだいぶやつれているようだった。鋭い刃物みたいだった眼つきも、いまは脂にくもったなまくらみたいにぼんやりしている。彼はシスにひっくり返されたあと、立ち上がろうとする姿勢を見せたものの、結局立ち上がれず、仰向けに倒れたままだ。力が残っていないのだ。

 一日しか経っていないのに、こんなに弱るものなのか。

 不審に思い、臭いをかぎ回る。彼を前に見たときは、血まみれだったが、身なりそのものは清潔で小奇麗だった。いまはどちらかというと、血の臭いが目立たないくらい、すえた甘酸っぱい臭いがする。鼻の上に皴が寄り、喉が勝手に唸りはじめる。牙の隙間によだれがあふれた。獣の食欲がそそられる。腐敗の香りだ。

「今度こそ食いにきたのか」と、少年が言った。

 声は弱々しくかすれていた。老人が身にたかるハエを払うような手つきで、シスのことを追い払おうとする。シスは当然取り合わなかった。鼻先を少年の身体に押し付け、腐ったようなにおいの出所を探る。脇腹、腰、太腿……と下がっていって、左足の脛のところで臭いが濃くなる。

(そういえば、昨日、怪我していたかな)

 だいぶ出血していたのか、左右の足でズボンの布地の色がはっきり違う。森の中は薄暗く、光源といえばときどきふらりとただよい出てくる青白い燐光だけだ。だが獣の眼は少年が負った傷を仔細まで見分けた。衣服と肉をまとめて切り裂いたのはよほどギザギザした鋼だったのか、脛を縦に裂いた傷口は、肉をはじけさせ、皮膚を勝手な方向にめくれ上がらせていた。血はほとんど乾いていたが、左足は腫れあがり、黒ずんでいた。

(水が死んだ古井戸の底みたい)

 ただし、染み出しているのは膿と透明な体液だ。傷の端を少し舐めてみると、舌の上に苦みが広がった。熱も持っている。少年が息を詰める気配がする。昨日押し倒したときと同じ、汗のにおいが鼻孔を満たした。彼は怖がっている。

 まあいいや、とシスは舐めた。

 傷の中心に舌を押し付けた。細い体がばね仕掛けみたいに跳ねる。投げ出されていた手指が握りこまれて、力が入る様子が横目に見えたが、容赦はしてやらない。獣の唾液で固まった血と膿が溶けだす。かさぶたが剥がれる。綺麗な肉にたどり着くまで、シスは熱心に舐め続けた。めくれ上がった皮膚の裏側まで、余すところなくべろべろ舐めまくった。血を濾したような透明な体液は肉の下から染み出すので、なかなか尽きることがない。

(顎が疲れた)

 気持ちは皿洗いをしているときに近かった。汚れを落としたあと、皿ならばかごに入れて乾燥させるが、この左足をどうするかまでは、あまり考えていなかった。どれくらい舐め続けたのか、シスもよくわからなくなってきたころ、獣の鼻があることに気が付いた。

(臭いが薄くなってる)

 傷口に突っ込んでいた鼻づらを持ちあげて、口の周りをひと舐めする。舌に残る苦い感じが抜けるまで待って、シスは倒れた少年の周りを一周した。やはり甘酸っぱい臭いが薄まっている。最初とあべこべで、古い血の臭いのほうが残っている。あらためて左足の傷口を見てみると、不思議なことに、大した怪我にも思えない、かすり傷のようなものになっていた。

(なんだこれ)

 鼻先を近づける。ずたずただった傷口は、もはや皮膚が少し剥がれているだけでしかなかった。黒く腫れていたはずの脛も、少年らしいほっそりした普通の足になっていた。戸惑い、少年の顔を覗おうとシスが振り返ったとき、突然少年が跳ね起きた。シスが後退するか噛みつくか迷う間に、猫のように身をひるがえした少年が、伸ばした腕で獣の首回りの毛束を握りこみ、反対の手で顎を抑え込んでいた。突然の反攻であっけなく牙を封じられたシスは慌てた。首を思い切り振ってみるが、締め付けるように回った腕の力が増すばかりで、顎はひらかないし、腕も外れない。

「狼は迷わない」少年の青い眼が激情に燃えている。彼は怒っていた。「あなたは魔法使いだな?」

 シスはそれどころではなかった。早くこの少年を振り落とさねばならなかった。引きずるようにして無理矢理走り回るが、ますます腕が首を絞めつける。爪で引っ掻いてやろうとしても至近距離過ぎて加速がつかず衣服を突き破れない。

(はなせ、はなせっ)

 シスと少年は二匹の獣だった。組みつき、転がりまわって上に下になりながら足で蹴りつけあい、上位を主張して互いをひっくり返しあう。クソ魔法使い、と背中から倒れた少年がののしる。シスも負けじと喉の奥で唸り返した。が、股の間に入った足でひっくり返されて、また形勢が逆転する。

 闘争は果てしなく続くかと思われた。いつからか、シスは深刻になることをやめていた。それは顎を抑えていた手が外れていたことに気が付いたからかもしれなかったし、少年の青い眼が怒りをおさめて無邪気に輝いていることに気が付いたからかもしれなかった。何度目かにシスをひっくり返したあと、少年は疲れたように言った。

「もうやめないか」

(あと一回、ひっくり返したらね)

 シスが体当たりすると、少年が毒づいて、またしばらく意味のない取っ組み合いが続いて、同じような停戦と再戦を繰り返す。少年が「今度こそやめよう」と、今度はシスに乗りかかられた体勢で認めたのは、三度目の調停のときだった。シスもいいかげんこの無意味な闘争に疲れていたので、少年の薄い腹の上から降りて、隣に腹這いになった。暴れまわって火照った身体に、森の冷えた柔らかい土が心地よかった。気分の良さに喉を鳴らす。隣を見ると、座り込んでいた少年は、いまさらながら自分の傷の具合を見分して驚いているようだった。

(この人、どこからきたんだろう。なんでこの森にいるんだろう)

 獣の視線に気が付いたのか、青い眼がシスを見た。きれいな深い青色だ。奥底に暗く輝く星の光のようなものが見える。夜空の星とは違う。じっと見ているとどこか落ち着かない気持ちにさせられる。水面で揺れていた〈星招き〉を見たときと同じ気分だった。どこか追い立てられるような、怖いような色をしている。獣の姿をしていなかったら見つめることに躊躇っていたかもしれない。

 そのとき、凪いだ湖面のように静かだった少年の表情が、警戒にゆがんだ。

 少年が立ち上がり、厳しいまなざしを木立の向こう側に投げかける。つられてシスも身を起こした。辺りはなにも変わり映えがないように思われた。薄暗い夜の森と、湿った白い靄と、青白い燐光がまたたくいつもの〈行き止まりの森〉だった。首を巡らせる。なにもおかしなものは見つからない。獣の眼も鼻も、警戒するべきものをなにも伝えてこない。

 ふと背中の上に軽い感触が落ちた。

 それは獣の背中で一度跳ねて、土の上にぽとりと落ちた。

(木の実だ)

 どこから落ちてきたのか。シスは梢を振り仰いで、落下の途上にあった大きな影と目が合った。爛々と赤い眼を燃やした大きな影が、木の上から飛び降りてくる。影の落下の先には少年の姿があった。彼は影の存在に気が付かず、まだ森の奥を警戒している。間に合わない、とシスは思った。影のお目当てはシスではないのだ。

 迷いのようなものは、たぶん、なかった。彼は「狼は迷わない」と言ったのだ。狼は迷わない。影と少年の隙間に獣の身体を割り込ませて、落下する影を迎え撃つ姿勢をとる。シスは下から飛び掛かり、影の体に牙と爪を突き立てた。いままで〈ささやき木立〉で消してきた影たちみたいに霧消させてやるつもりだった。

 牙が影を切り裂いた瞬間、雷に撃たれたような衝撃が跳ね返ってきた。激痛が走り抜けて悲鳴が出た。目が回って視界が真っ暗になる。四肢は地面を掴めない。落下の途中なのか、着地したのかも、わからない。鼻は焦げたような肉の臭いをかいだ気がしたが、すぐになにもわからなくなる。身の置き所がない世界でシスは暴れたが、そこはなにも見えず、なにも聞こえず、なんの臭いもなく、地面もない闇の中だった。

 シスは認めたくなかった。

 獣の身体はただの冷たい肉塊になろうとしていた。

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