星の地平 後編1
目が覚めると水の中に沈んでいた。
ゆらゆらと揺れる水面を、川底から見上げていた。水面の向こう側がやけに輝いている。シスは夜の川の中を仰向けの姿勢で流れていた。身体はゆっくりと下流に向かっている最中で、後頭部がときどき川底にこすれて砂煙をあげる。ひどく時間がゆるやかに流れていた。
(死んだ?)
そんなことを考える。だが否定の材料はいくらでもあった。シスは冷えた身体と息苦しさを感じていたし、漂う時間の最後に男の声を耳にしたからだ。いつもシスを殴るあの男。
「ほぉら見たか、こいつは大当たりだ!」
突然、身体の下に大きな腕が入り込んで、シスを水底から引き上げた。飛沫が滝のように滴り落ちる。シスを抱き上げた男は、背後に向かって喚きたてている。男ががなり立てている相手は背の高い豊満な体つきの女で、女の傍らにはいつも見るような若年の少女がいる。皆がひざの半ばまで水に浸かっている。
(ここは〈輝きの川〉だ)
シスの意識は覚醒した。水中から見えた灯りは〈星招き〉の輝き。本能が命じるままに咳き込んで肺の中の水を追い出す。勢いよく逆流した水が鼻の中まで入って、つんと刺す痛みに涙があふれる。感覚は現実に戻ってきたことを否応なしに突き付けてくる。
「坊やを下ろしてあげて」
アデレイドの固い声が聞こえる。
「その子が本物だとわかったなら、なおさら丁寧に扱ったほうがいいわ」
「ああ、分かった、分かったよ、娼婦のお姫さま」
あざけるように男が応えて、シスの両脇を抱え上げていた腕が離れる。水音を立てて身体が落下する。膝の力が抜けて、たまらず川底に手をついた。立っているときは膝丈の嵩しかない水だが、四つん這いになって震えているいまのシスにとってはそれすら脅威だった。顎のすぐ下を川が流れて、また水を飲みそうになる。この段になって、ようやく男の言葉が頭に入ってくる。腹を蹴られた悪夢の続きだ。悪い夢はまだ上演されている。
「おら、行くぞ、立てよ。このおれが、おまえの汚ねえ身体を洗うため、わざわざ娼婦どもの川まで連れてきてやったんだ」
呼吸が整う前にシスは引っ立てられた。
(痛い!)
肩がねじれて悲鳴をあげる。
「なんだ?」男が不思議そうに言う。「今日はやけに素直じゃねえか。いつもは、殴ってやっても、生意気な面しか見せねえくせによ」
男は面白がってまた腕を引っ張って、シスを泣かせた。本気で泣きに入っている様子を認めると、男の顔に優しいとさえ見える表情が浮かぶ。シスを吊るしている腕と反対の手が、ふいにシャツの裾から内側に潜り込んできた。
「なあシス、おまえ、泣いてる顔が似合うなあ。ん?」
濡れて張りついたシャツと冷えた身体のごく狭い隙間を男の指が這っていく。石のように硬直したまま、シスは狼を呼んだ。
(わたしは狼だ)
狼だ。狼なんだ。狼は……狼は……。石になった狼の身体を男の指がぎゅうっと抓った。
「痛い……」
「痛くしてんだよ」
狼は来なかった。
次の夜も、その次の夜も、狼と夜の森はシスの眠りのもとへ訪れなかった。
森へ帰る道を失くしてしまった日からシスの暮らしは少し変わった。〈ドーマリオ〉で下働きの最下層として走り回って、怒鳴られたり、さげすまされたりすることはそのままだったが、殴られる回数が格段に減った。シスがいままでそうしていたような、口ごたえをしなくなったからだった。
「キアのことがあるから」と、同じ下働きたちは噂して、シスも特に否定をしなかった。狼を失った日の翌朝、可哀想なキアを埋めたのはシスだった。あの日井戸の周りで南の国の噂話に花を咲かせていた三人と、監視のための下男一人で、街はずれの共同墓地にキアのための穴を掘りに行ったのだ。
「ばかな子だ」
土をかけるときにナンナが言った。
「逃げたって仕方がないって、自分でも言っていたろうに」
キアの顔はめちゃくちゃで、体中が紫色になって腫れあがっていた。あの夜、キアは〈ドーマリオ〉の会計室から金をくすねて、門をくぐって出て行こうとした、ということになっていた。〈ドーマリオ〉から下働きが逃げ出すだけならばよくあることだった。逃げ切ればそのままで、捕まれば折檻を受けるが、死の理由にはまだ遠い。下働きが死ぬためには〈ドーマリオ〉の金に手をつけるくらいでないと釣り合わない。
(本当にキアが金を盗ったって思っているの?)
最後の土をかぶせ終えたとき、シスは喉元まで喚き声がせりあがってきたことを感じていた。だが衝動はそのまま凍り付いて、腹の底にゆっくりと下り、重石のように沈んだ。狼は迷わない。狼ならば……
(わたしは狼じゃない)
人間の小娘は進んで身を危険にさらそうとしないものだ。シスも自分に与えられた役割のとおり、顔を伏せ、口をつぐんで、身の上を通り過ぎる事物に耐えることにした。引き換えに、夜の夢は救いではなく単なる悪夢に成り下がった。それだけのことだった。
狼がいなくなってしばらくが過ぎた。
その日は朝から商会〈ドーマリオ〉が慌ただしかった。
「地下迷宮の最下層にたどり着いた冒険者がいるんですって。そこの戦利品をうちだけじゃなくて、王室にも持ち込んだものだから、朝からオローさまがピリピリしていらっしゃるの」
「王さま相手じゃあ〈ドーマリオ〉も分が悪いんじゃないかしら」
以前も海の民の噂をささやいていた女が、このときもまた井戸端でシーツを洗いながら、仕入れたばかりの噂を披露していた。噂話が好きなのだ。
「それが少し事情があるみたいなのよ。どうやったのか知らないけどさ、オローさまはその冒険者たちが迷宮に潜る前に密約を交わしていたとかで、本当なら戦利品のすべてを〈ドーマリオ〉に卸す予定だったんだ。だけど、冒険者の中に裏切り者がいて……」
聞くとはなしに女たちの声を耳に入れながら、シスは無心にシーツを洗っていた。季節は夏の盛りを過ぎ、朝晩は冷え込む時節だった。洗い物で荒れた手指の先に冷えた井戸の水が沁み入った。
これも狼がいなくなってしまってからだ。以前のシスは、小さな傷など気にしなかった。現実でどんなに痛めつけられても、夜の王者になればすべてを忘れることができた。実際、狼でいる間に身繕いに勤しんでいれば傷の治りも早かった。いまは指先ひとつの傷にさえひるんでいるというのに。
「女ども、そこにガキはいるか!」
水音と女たちのささやき声の中に、低い男の声が割って入ってきた。その場にいた者の中で「ガキ」と呼びつけられる年頃の子どもはシスだけだった。洗い途中のシーツをかごに放り込む。
振り返った先にいたのは、オロー・マガシュの傍控えの男だった。彼はオローの個人的な制裁や汚れ仕事を引き受けており、下働きたちは男のことを影で犬と呼んでいる。犬がシスの姿を認めて、ついてこい、と顎をしゃくって合図する。女たちに洗濯の続きを任せて、シスは男の痩せた背中を追った。中庭に出るときにも使った、裏手にある使用人専用の出入り口から館の中に入る。朝のまぶしい陽光の中から暗い室内に入ったので、一瞬、鳥目のように目がくらむ。男は階段を上がり、シスを館の奥へ奥へと導いていく。先の見えない案内は、やがて、〈ドーマリオ〉最上階の奥まった一室の扉の前で止まった。
シスが通されたのはオロー・マガシュの私室だった。
「親父、連れて戻りました」
「入れ」
部屋に入ったとき、シスは違和感を覚えた。なんだろう、と考えて、じきに気が付いた。視線がうまく動かせない。ここはオロー・マガシュの私室で、部屋の奥まった位置に、向かい合う一対の長椅子がある。入口から遠い上座のほうに、オローがゆったりと腰かけている。隣に会計係を従えて、何事かを伝えて、会計係が一礼をして、シスたちと入れ替わるようにして部屋から退出していく。シスは入室の挨拶をするべきだった。オロー・マガシュを見て、頭を下げなければいけないはずだった。
だが眼が離せない。心臓が早鐘を打った。
(あのひとだ)
オローと反対の長椅子に腰かけている、小柄なそのひとの後ろ姿に見覚えがあった。視線が釘付けになる。
(迎えに来てくれた)
幻覚のような緑の夢が立ちのぼる。深い森のほとり。草木の匂いにみちた小さな小屋で、女とシスは二人で暮らしていた。そこがシスの帰る場所だった。狂おしい郷愁の念が眼に涙をにじませる。
(やっと、迎えに来てくれた)
あのひとはシスになんでも教えてくれた。歩きかた、走りかた、飛びかた。本の読みかた、人との話しかた。名前の呼びかた……。
そのひとの名を呼ぼうとして、シスは彼女の名前を知らないことに気が付いた。突然、なにかとんでもない間違いを犯しているような、身のすくむ恐怖が芽生えた。
「こちらに来なさい」
その場の誰もシスの動揺を気にしなかった。〈ドーマリオ〉の主はいつになく丁寧な口調でシスを呼んだ。シスはふらふらと進み出た。
「貴方さまがお探しの者は、この者でしょうか?」
長椅子に腰かけていた女がシスを見た。二十歳ほどの若く美しい女だった。室内だというのに暗褐色の外套に身を包んだままで、露出しているのは白い顔と手だけだった。女はその整った造作を少しも緩ませず、冷たい硬質な眼がシスを一瞥した。現実の世界に重なるように、半透明の白い腕が女から差し伸べられる。白い腕はシスの内側を残酷な早さで通り抜けた。手は泥を掬うようなお椀の形を作っており、女がシスの中に何かが残っていないか探しているのだと分かった。指先は、小石にこすれるくらいの抵抗を感じたかもしれないが、それだけだった。シスの中には砂利以外の何もなかった。
「この者ではない」と女が言った。
オロー・マガシュは一つ頷いて、「連れていけ」と犬に命じた。棒立ちしていたシスの腕をつかみ、男はほとんど引きずるようにシスを扉の外へ押し出した。
「もういい。仕事に戻れ」
男が後ろ手で扉を閉める。シスは閉ざされた扉から男に視線を移した。黒々とした感情の読めない眼がシスを見返した。言葉は出口を失い喉の奥でさまよっていた。こんなの間違ってる。あのひとはわたしを迎えに来たんだ。シスはもう一度扉のほうを見た。言えば、分かるはずだ。あのひとにはわたしが必要なんだ。
「俺に同じことを言わせる気か?」
男が舌打ちし、動かないシスを引っ張った。階段まできてなおもシスが足を動かそうとしなかったので、男は二、三段引きずったあと、諦めるようにしてシスを踊り場に放り投げた。シスはただ転がり落ちた。手足を突っ張って衝撃を受け止め、背中を丸めて痛みに耐える。誰かの「ほどほどにしておけよぉ」という声が聞こえてくる。口の中を切ったのか、金臭いいやな臭いが呼吸に混じってこみ上げた。
そのとき、シスは悟った。
(狼がいないから)
あのひとは狼を探していたに違いない。
そして、シスは、狼をみすみす失った。まぶたを閉じてシスは自分の身体を抱きしめた。自分がもうどこにも帰ることができないと気が付いてしまった。
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