笛吹無残 後編 魔笛の刻

 木立の隙間から見上げると、月がそろそろ天の頂点を回りそうだった。

 足元に生えていたキノコは苔に姿を変えた。森の中の道はだんだんぬかるんでくる。水の匂いが強くなる。川が近いんだ。

「お願いをする身でこういうことを言うのもなんだけど。獣物さん、無理はしないでね」

 心なしか駆け足で進むヒトに声をかける。返事は返ってこない。大丈夫なのかなあ。わたしの心配顔を見つけて、横を飛んでいた血みどろ星のヒトが小さく笑った。

「彼は格好つけたいんですよ」

 素早く飛んできた骨のしっぽをかわして、血みどろ星はまたほほ笑んだ。

「桃色もお似合いですよ、獣物どの」

 なんのことだろう? と首をかしげるわたしに、血みどろ星が指をさす。

 なに? しっぽのほう? あっ、しっぽの骨の隙間に薔薇が一本挿されてる。驚いて血みどろ星の額を確認すると、なるほど花冠に一本分の隙間が空いている。さっきしっぽを避けたついでに、魔法みたいな早業を仕掛けていたんだ。

「しっぽ可愛い……」

『そうか』

「うん!」

 力いっぱい伝えると、血みどろ星を追いかけまわしていた骨のしっぽがようやく定位置まで戻ってきた。ふふ、カワイイなあ。

『そろそろ川を越える』

 もうそんな距離まできたんだね。名残惜しいけどおしゃべりの時間はおしまいにしないと。

 頭上の梢が切れて、満天の星空が覗いた。森を抜けたんだ。

 骨のカラカラ鳴る音が、静かに水をかき分ける音にまぎれていく。わたしたちは川を渡りはじめた。天には夜の星の川。地にはわたしたちがかきわける水の道。水面を涼しい風が撫でている。さざなみが静かに歌を寄せる。なんて寒々しい夜だろう。まるで妖精の国中のヒトがいなくなってしまって、この世界にわたしたちだけになってしまったんじゃないかって、勘違いしてしまいそうになる。

 広い川の真ん中を、白い骨で渡ってゆく。

 この川は古い時代から〈三叉の川〉と呼ばれている。上流から流れてきた三本の川がひとつに流れ込んでいるから、皆がそう呼びはじめたんだ。〈三叉の川〉のヒトは、女王さまから、この川を見張る役目を与えられている。川を渡る者の、顔と名前と目的を聞くことが彼の役目。だから、川を渡りはじめてすぐに〈三叉の川〉のヒトが現れるのは、作戦通りなんだ。

 そのヒトは、川の向こう岸に立っていた。

 すらりと背の高い妖精だ。川のうねりのような薄青の髪を川風に吹き流して、水面で跳ねる白魚のような銀色の羽を広げて、わたしたちを待っていた。遠目にもわかる。〈三叉の川〉の肌は、手も足も凛々しいかんばせも、この世のものとは思えない、燃えるような薔薇色に染まっていた。彼は熱病だ。熱病の妖精だ。

 頭蓋骨の喉の奥から妹と弟が押し出されてくる。獣物さんは大切な宝物を取り出すように、優しくしっぽで巻き取って、わたしの頭の後ろにふたりをそっと乗せてくれた。

「行きましょう、スズラン」

 血みどろ星のヒトがわたしの身体を抱っこして、背骨の峰から離陸する。

「獣物さん」

 作戦開始の前に、もう一回だけ、言っておかないと。

「無茶しないでね」

 しっぽが水面を叩いて返事した。うん。わたしも頑張るから。

 血みどろ星に合図を出して、身体をもっと上空に持ちあげてもらう。わたしたちが地上と上空の二手に分かれたことに気がついて、〈三叉の川〉が唸り声をあげた。ツタが内臓みたいに蠢いた次の瞬間、眼下で飛沫が飛び散った。月に輝く白骨が、流星みたいに一直線に〈三叉の川〉に向かって疾駆する。

 獣物さんが熱病の妖精を足止めしている隙に、わたしと血みどろ星は恋人を探しに行く。〈三叉の川〉が追いつくまでに恋人を見つけられたらわたしの勝ち。見つける前に追いつかれたら、わたしの負け。ウバユリが逃げられなかったように、わたしも砕かれてしまうだろう。これは、そういう作戦なんだ。

「スズラン、人間の子の居場所は?」

 川を渡りきったところで血みどろ星のヒトが背後を振り返る。獣物さんはまだ〈三叉の川〉と取っ組み合いの大暴れの最中だ。こっちも早く恋人を見つけないと。大丈夫、笛吹は耳が良いんだ。耳を澄ませて人間の気配を探る。滝つぼのように騒ぐ水音と、きしむ骨の音をなんとか締め出して、遥か遠くの風の音を拾いあげる。違う、あれはただの誰かの羽の音。あれは誰かの鼻歌。あれは鍋を煮込む音。そしてあれは、誰かの帰りを心配そうに待つ鼓動の音……。

「いた! あっちにいる!」

「川上ですね」

 ウバユリほどではないけれど、血みどろ星も羽が早い。すばやく転回すると、上流を目指してぐんぐん飛翔の速度が上がる。

 川沿いに、小さな灯りが見えてきたのは、ほんのすぐあとのことだった。

 近づいてみると灯りは木造の一軒家の窓から漏れ出している。ここだ。恋人はこの家の中にいるんだ。血みどろ星と頷きあって、地面に降り立つ。小さな可愛らしい丸太のお家には、お似合いの小さな花壇もあった。そこにはウバユリの下半身が無造作に捨てられていて、ツユクサの身体が半分埋まっていたけれど、右手の魔笛を握りしめて、声をのみこんだ。玄関の前に立つ。こぶしを振り上げて、扉を叩こうとした、そのとき。

「お花の良い匂いがするわ」

 女の人の声とともに扉は勝手に開いた。

 わたしは上げていた手を下ろした。扉の向こう側は明るい家庭の景色があった。このヒトは……この人は、〈三叉の川〉のヒトの帰りを待って、温かいスープを作っていたんだね。長く煮込んだ良い匂いがするよ。

 女の人は、わたしよりもちょっと背が高くて、でも血みどろ星よりは小さくて、ふわふわした優しい甘いクリーム色の肌をしていて、とっても柔らかそうな……とっても驚いた顔をしている。

「あら、私ったら、ごめんなさい。てっきりサンサが戻ってきたものかと思って」と、早口で言ったあと、不安そうに眉を下げた。「あなた、どなた?」

 川向うから、太い骨が真っ二つに割れる音が聞こえてきたけれど、わたしは言った。

「笛吹だよ」

 一歩、小屋の中に入り込んで、手の中の小さな笛を女の人に向けて投げつける。届くかな、届かないかな、見届けることはできなくて、あとはもう飲み込んでくれたと信じることしかできない。笛吹は特別に耳が良いんだ。涙が出そうだった。耳が特別じゃなくったって、あんなに怖い羽音が近づいてくるんだもの、聞こえないふりなんてできるわけがないんだ。最初に、右肩が。それから、左の腰にかけて。背中から斜めにギザギザの切れ込みが入って、わたしは床にへたり込んだ。頭の後ろから妹と弟がコロコロとこぼれ落ちていく。だけどわたしには拾い上げる力がもう残っていない。

「なにをしてるの、サンサ!」

「僕の恋人、僕のアンゲリカ。おかえりって言っておくれよ。ねえ大丈夫? 僕がいない間になにもされてない? ご覧、こいつは笛吹だ。前にきたあいつらと同じだよ。僕らを引き裂く悪魔の手先だ」

 わたしの上をまたいで、丁寧に弟妹を踏みつけたあと、〈三叉の川〉は驚く女の人を抱きしめた。

「だからって、こんな……」

「怖がらせてしまったのならごめんよ。だけど、こんな思いは今夜きりさ。笛吹の追手は三人だから、次に女王が怒りだすまで、しばらくは誰も来ない」

「だけど……、まあサンサ! あなた、怪我をしているじゃない!」

「変な骨の魔物に絡まれただけさ。たいした傷じゃないよ。だけど、それでも心配をしてくれるというならば、君が優しく舐めて慰めてくれるかい。さあおいで、愛しのアンゲリカ」

 わたしはのろのろと首を動かした。分かっていたことだったけれど、自分の身体が斜めに裂けていることを目の当たりにして、泣きそうになった。〈三叉の川〉に引き裂かれた傷は少しずつ広がっていく。切断面は凍りつき、凍った身体は砕けて、床にこぼれて散らばった。四周はいつの間にかずいぶん暗い。灯りが落ちた部屋の中で、人と妖精の息遣いだけが聞こえてくる。やがてほっぺがカサカサに乾きはじめて、眼がコロンと転がり落ちた。

 そういえば、〈血みどろ星〉はどこに行ったんだろう?

 ぴし。ぴし。

 虎眼石みたいに縦にひびが走って、世界が左右に分断される。左側の世界では恋人たちがベッドの上で抱き合っている。右側の世界では、壁の後ろに〈血みどろ星〉のヒトがいる。思わず声を上げそうになったけれど、〈血みどろ星〉が内緒話をするみたいに口に指先をあててみせた。静かに、スズラン。そんな声が聞こえてきそうだった。だからわたしも、もしもまだ魔笛を聞きたいって思っているならもっと近づかないとだめだよ、とまばたきで教えてあげた。血みどろ星はなるほどと頷いて、世界の狭間から少しだけ身を乗り出した。

「ああ、サンサ」

 つぼみが花開く。ふたつの肉が跳ねて踊る。女の人は幸せそうな声で歌う。

 わたしと血みどろ星はそのときがくるのを待っている。

「サンサ、サンサ……サンサ……!」

 喉がきゅっと締まる音がして、恋を醒ます笛が高らかに鳴り響く。薔薇色の〈三叉の川〉があっという間に青ざめて、まるで魔法でも見ているみたいだった。そう、熱病は突然に冷めるんだ。喉笛に仕込んだ魔笛が鳴ったのを、〈血みどろ星〉は聴きとげることができたかな?

 女の人をベッドから突き落として、目覚めた妖精が「誰だおまえは」と呻いた。窓枠に片足をかけ、いまにも飛び立とうという姿勢で、もう一度だけ室内を振り返る。女の人は震えてる。だけど病の癒えた妖精にはもう何もわからない。「おまえは誰だ?」と、悲しそうな顔で尋ねることしかできない。

 その窓枠に立つ妖精の首に、白くて長いしっぽが巻き付いて、ぽき、と折り取った。〈三叉の川〉のヒトの首が窓の外に転がり落ちて、身体はベッドの上で粉々に砕け散った。

 夜の風と一緒になって、ひびだらけの獣物さんが小屋の中に滑り込んできた。網目が幾重にも入ってしまった頭蓋骨が左右に揺れている。もしかして、わたしを探してくれているのかな? ここだよ、ここ。なかなか気づいてくれない獣物さんに代わって、壁の後ろから滑り出た〈血みどろ星〉がわたしの眼を拾いあげてくれた。

「獣物どの。スズランはこっちですよ」

 もうこんな見た目になっちゃったけどね。

 ぴし。ぴし。

 こんどは世界が上下に割れた。四つの世界のすべてに獣物さんが映ってる。四人になった獣物さんが、八つの眼でわたしを見ている。四つの胴体の内側で、八倍のツタがざわめいた。ざわざわ、ざわざわと、震える音は、まるで音楽みたい。そうだね。いつもの八倍もツタが生えていたら、妹と弟がいなくても、声が出せるかもしれないね。

『小さな笛吹よ』

 世界がひび割れる。だけど割れるほど、ますます声がはっきり聞こえてくる。

『私はまだおまえに借りを返していない』

 借りってなんだっけ? ああ、また千々に裂けていく。

『私に声を貸してくれた。私を温めてくれた』

 そんなこともあったねえ。わあ、獣物さんが百人見えるよ。

『小さな笛吹よ、どうすれば返せるのだ?』

 そのとき、窓から夜の風が吹き込んで、わたしは〈血みどろ星〉の手のひらから飛び立った。生まれたときからずっと羽がなかったけれど、わたしはそのときはじめて空を飛んだんだ。夜風とワルツを踊りながら、月に至る道を昇っていく。これから寒くて冷たいところで眠らなくてはいけないのは悲しいけれど、眠りに就くまで空を飛べるのは素敵なことだ。

『笛吹よ、教えてくれ。おまえの望みはなんだ?』

 獣物さんの声がまだ聞こえてくる。望みかあ……。スズランって呼んでほしかったんだけどな。照れ屋さんには難しかったかな。なんてね。

 ねえ、わたしは笛吹なんだよ。笛吹にできることはひとつだけ。笛吹の望みもひとつだけ。あなたのお歌が聞きたいな。あなたと一緒に歌いたいな。わたしは笛吹スズランだから。歌は何でもいいんだ。知っている歌があるなら歌ってよ。わたしも勝手に合わせるからさ。

 ああ、聴こえる。悲しい歌が聴こえる。すべての命の芽を摘み取ってしまいそうな寂しい歌だ。月から見下ろしているとよくわかるよ。川辺が腐って、森がしおれていく。生臭い風に乗って、遥か夜光貝の王宮までも届いて……ああ、あんなにきれいだった妖精国がくすんでしまう……。

 獣物さんたら、こんなに寂しい歌をいったい誰に教わったんだろう。それとも、自分で作ったのかな。

 それって、なんていうか。なんていうのか……寂しいね……。

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