過疎と亡国の時代

お姫さまのお婿さま

 時刻は正午を少し回った頃合い。円形闘技場にはギラギラとした日差しが降りそそがれていた。

 砂地にぶざまに転がっていた少女が、涙目のまま顔をあげて、サッと手を振り上げる。その途端、カンカンカンカン! と鐘が打ち鳴らされて、ヒョードルはうんざりした。またかよ。

 円形闘技場に詰めかけた数万の群衆も、さすがに三度目の「待て」がかかればブーイングも凄まじかった。たとえヒョードルの対峙する相手がかのご高名な〈海神の娘〉、〈戦姫〉、〈ドラッソの槍〉……さまざまな異名を持ち、海王国中の敬愛を集めるうら若き乙女であったとしてもだ。

「今度はなんだいお姫さま」

 ことさらバカにした口調でヒョードルは言った。だが少女は怒った様子もなく「おぬし、右手を使ったな? それは反則であるぞ」などとのたまった。もしかすると、観衆のブーイングがうるさすぎて、ヒョードルの皮肉が耳に届いていないのかもしれない。

「そうかあ右手を使っちゃダメだったのか知らなかったなあ」と返して、ヒョードルは右の手をひっこめた。つい数十秒前に、目の前の少女の頬をひっぱたいた右手だった。白い頬っぺたは柔らかかった。それに対して彼の手のひらは申し訳なるくらいに硬すぎた。

 この日は快晴で、薄曇りと長雨が交互に続く海王国にはとても珍しい一日だった。雨の日には波打ち際から黒い怪物たちが這い上がり、王国の土地を削って波間に引き込もうとしてくるので、その防衛に忙しいのだが、怪物たちは太陽の光には弱いようで、こういった晴れ日にはピタリと浸食が止む。

 そんな貴重な日を、彼は王の肝いりのご提案である「王女の婿選び闘技大会」とやらで浪費しつつあった。前述に挙げた数々の異名のとおり、王女さまははねっかえりのおてんば娘なのだった。王の子どもは七人いたが、娘はたった一人で、わがまま放題に育てられたという背景もあったかもしれない。だがヒョードルにとっては王女さまの生い立ちなど知ったことではなかった。王様がノリノリなのに当の王女は大反対で、まだまだ結婚なんてしたくないと喚き散らしていると門衛から聞いたときも、自分には関係のない話だと思っていた。王女さまが闘技大会を勝ち抜いた勝者と一騎打ちをして、それで敗れたならば諦めて結婚するつもりらしい、という話を、雇われ傭兵連中とメシをかっくらっているときに聞いたときも、ヘエそうですかという感じだった。何も関係がなかった。王女さまの持参金が天地がひっくり返ってたまげるほどの金額だと聞かされる前までは。

 ヒョードルはそんなに大した腕のある傭兵ではなかった。生まれも海王国の外で、王国が黒い怪物に領土を侵食されているという噂を聞きつけてはせ参じた純粋な金の亡者だった。曰くこいつは金になる匂いがする……。仲間内で声を掛け合って、正規の応募者を闇討ちして、彼の手のものを潜り込ませて八百長させたのだから、王女のもとまで勝ち上がるところまでは簡単だった。なにせ、勝ちさえすれば有り余るほどの金が返ってくる。問題は王女さまご本人の戦闘能力だったが、海王国王家の本領は水中で発揮されるので、地上の彼女はお話にもならなかった。円形闘技場の真ん中に、大槍をかついでよろよろと進み出た少女を見たとき、ヒョードルは計画の成功を確信したのだった。王女さまがよくわからないルールを持ち出してくるまでは。

 開始早々、鐘が鳴り短剣を取り上げられ(刃物は反則であるぞ)、小盾も取り上げられ(盾は反則であるぞ)、そして右手もダメというわけだ。

「覚悟ぉ!」

 王女が幾度目かの突進を仕掛けてくる。例のクソでかくて重い槍〈ドラッソ〉を正面に構えて、子どもでもひらりと避けられるような、なまくらの突進を披露されて、ヒョードルは苦笑した。チョーシ狂うなあ。群衆の応援も、なんだか子どもの遊戯大会でも見守るような、暖かい拍手すら入り混じっているようである。これがひとたび水辺に陣取れば無敵の戦士になるのだから、貴種の血というのはわからない。あるいは、各地に根を張る王族たちが実は妖精の血を引いているというのは、本当なのかもしれない――と、考え事をする余裕すらある。二、三回だけ突進をお義理で避けたあと、ヒョードルはとりあえず王女のおみ足を払った。

「あっ」王女さまは転んだ。ズザーと砂地で顔面にやすりをかけている。さぞひどい流血具合だろうとヒョードルは思ったのだが、ぱっと振り返った王女の顔は軽いかすり傷しかないようだった。

「王家の方々はご尊顔というだけはある。面の皮の厚さも一般の民草と違うようだ」

「そのとおりだ、王家の威光がわかったら降参するがよい、勇敢なる傭兵隊長よ。おぬしが畏れ入ったと尻尾を巻いて逃げたとて、ここまで勝ち残った武勇が消えるわけではないぞ。それはそれとして」と、王女はまた手をサッと振り上げた。カンカンカンカン! 鐘が打ち鳴らされて、ヒョードルはうんざりした。

「今度はなんですか?」

「足払いは反則だ!」

「知りませんでしたなあ」

 はははと笑って、ヒョードルは少し考えた。剣と盾と手と足。そのうちヒョードルは身動きすらできない状況に陥るだろう。その前に、このバカげた茶番をさっさと終幕させねばならない。

「王女さまはおれと結婚するのがそんなにイヤですか?」

 まずは下手に出てみる。王女は吟遊詩人たちに歌われる英雄の槍〈ドラッソ〉を杖替わりに立ち上がり、観衆の拍手喝さいを浴びたあと、

「おぬしが嫌なのではない。結婚が嫌なのだ」と叫んだ。ヒョードルは勝ち戦だ、と思った。

「なぜイヤなのです?」

「傭兵隊長ならわかっているはずだ。海王国は異形たちの手で領土を海に割られ、遠からず沈むだろう。皆希望が持てなくなっている。だから、こんなバカバカしい娯楽のために、万の観衆が集まってくる。慰めを求めて」

「おやおや、茶番とわかってらっしゃいましたか」

 ヒュウと口笛を吹くと、王女さまは面白いくらいにいきり立った。

「あたりまえだ!」

「そうでしょうか? さておき、王国の崩壊は、昨今は他もどこもそんな感じらしいですがね……。知ってます、王女さま? あの東の果ての大樹の国も、国中が石になっちまったそうですよ。大勢の騎士が守っていた古王国も、明けない夜に飲み込まれたそうですよ。だからおれも他所を諦めてこっちに流れてきたわけですが」

「うん、そこは他国に感謝しなくてはな」

 王女さまは冗談のわかるクチらしい。ヒョードルは機嫌がよくなった。そして、気が付いた。いつの間にか円形闘技場は静まり返っていた。数万の国民が、彼ら二人の話を、一挙手一投足を、耳を澄ませて、目を凝らしていた。

「我が父の代でこの国は沈むかもしれない」声は万の群衆に届いていた。不安と怯えのざわめきが、円形闘技場の底におしよせる。そのさざめき声を、王女は凛とした叫びで切り裂き跳ね返した。

「だが私は戦うぞ! 死ぬるためでなく生き残るためにな!」

 わっと観衆が沸いた。王女の名が叫ばれる。何度も、何度も、この世の終わりまでその合唱は続くかと思われるほどだった。だからそのあとの小さなつぶやきは、きっとヒョードルにしか届かなかった。「沈みゆく国の姿より、平和を取り戻したあとの姿を子どもたちに見せたい。だから結婚はもうちょっと先にするんだ」という声は。

「王女さま」とヒョードルは言った。「結婚しても、別に子どもが生まれるわけじゃないんですよ」と。そしてびっくりしている王女さまに、すばやくキスをした。戦に勝ったら捕虜には優しくしないと、とヒョードルは考えていた。捕虜はじたばたしていた。

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