魔人埋没の時代
花嫁泥棒の歌 前編
ホロスト山腹には、三つの集落が点在している。〈草の王〉シャンダ率いるアソクの民、〈弓引き〉エラフィム率いるクシャの郎党、〈黒の金床〉ティティ率いるデーンの民。
狩人たちの集落クシャ、そこで暮らす歳の離れた姉と弟、二人は仲良し。
姉は平穏で穏やかな日々がいつまでも続くことを一番に願い、弟は狭い集落から出て南へ行くことを夢見ていた。
ある日〈さすらい人〉が南の帝国の不穏な話を聞きつけてくる。巨大な怪物が帝国の地下から掘り返され、帝王様はそいつを使ってあちこちの町を踏み潰しているらしい。なんでそんなことを? それは誰にも分からない、暇つぶしなのかもしれないし、よその国に攻め入る準備なのかも分からない。でも、二人きりのきょうだいには関係のないこと。姉は相変わらず狩りをしたり、山頂におわす氷の女神に平穏無事の感謝をささげたり。弟は三日の後におとずれる儀式を前に胸を焦がしたり。
いつもの暮らしのはずだった。
「待って。ちょっと最後の話がよくわからなかった。花嫁がなんだって?」
「だから次の遠出で花嫁を盗みに行くと言ったんだ。二人か、三人か。いや、やはり五人は欲しいなあ。おまえの分もとっておきたいし。花嫁欲しいだろ?」
「欲しいとか、欲しくないとか、そういう問題じゃない!」
弟の怒声を、姉はほほえみで退けた。
「南の情勢が気になるし、別の心配事もある。花嫁はいるに越したことはないよ」
姉は幼い頃から〈さすらい人〉の父親に付き従い荒野をさまよう日々を送ったせいか、集落で暮らしてきた弟とは、たびたび感性の衝突を起こしている。
弟の怒りをまったく理解できない姉は「それにね」と、続ける。
「これをうまく盗めたら、〈さすらい人〉を辞めたいと首長どのにお願いするのさ。私もいいかげん、自分の帰る家を、落ち着く場所を守りたいからね」
姉はかまどの火にあたりながら淡々と告白する。
幼少の頃から集落の女たちの中でも抜きんでて背が高く、体も厚く、長弓を軽々と引いていた姉は、十一を数えた頃から父に付き従ってずっと集落とホロスト山とその外側にあるという帝国を旅する流浪の生活を送っている。父が亡くなってからも、相手を〈梟〉に変えて今日の日までその役目を続けている。前の遠出を終えてから、天を駆けるノーザンとサウザンが一巡りしようとしていた。次の出発はまもなくで、弟の成人を見届けたらすぐにでも発つ予定のはずだった。
その姉が、家に入って穏やかな暮らしを送りたいと言っている。弟は疑いの眼を向けた。〈さすらい人〉は集落の狩人ならば誰であれ憧れを抱く役目だ。氷雪に閉ざされたホロスト山を出て、外界から食料と情報をかき集め、集落の命をつなぐ。選ばれた者だけが勤め上げることができる名誉ある大役。外界を渡り、世界のすべてを見ることができる……それをわざわざ投げて捨てるという。
「もしかして、〈梟〉以外の将来を誓い合ったヤツでもできた?」
「そうだったらどんなに面白かったろうねえ」
姉は真剣な様子ではなかった。かまどから離れて、背負いっぱなしになっていた荷を部屋の隅に下ろして、弟に座るよう顎をしゃくって合図した。そう、二人は狩りの戻りからずっと家の上り口で口論していたのだった。身を針のように刺す冷気さえ無視して。
「正直に言うと」弟の対面に座るなり姉は言った。「近いうちに隧道が埋まっちまう気がしている」
姉が言う〈隧道〉とは、すり鉢状のホロスト山の外輪山を抜けて外界――南の帝国へ行くための唯一の道を指している。クシャの一族がはるか昔にこの凍える山に根を下ろした時からずっとそこにあったという、その隧道のことだ。
屋根から雪が滑り落ちる音がした。弟は姉が告げた内容をよくよく斟酌して、ぞっと身震いした。
「隧道が埋まる?」
「うん。土の匂いがね、通るたびに増しているんだ。あれはどこか亀裂が入っているに違いない。亀裂がこすれあって、匂いが漏れている。もう二年くらい前からかなあ。十日後か、十年後か、百年後かはわからないが、崩落は近いと思うんだよね。いったいいつまで〈さすらい人〉ができるものやら」
まるで深刻でないような口調だった。あくびをひとつして、姉は席を立った。荷から縄を取り出して、床に落ちていた鉈を拾って「薪とってくる」と言って外へ向かう。外はすっかり夜の景色に覆われていた。ずいぶん長いこと上り口で時間をつぶしていた。姉はかじかむ指先をこすりあわせる。
「一族の開祖は、こうするだけで火を起こせたと言うが」
そういう古い伝承があるのだった。ひょっとしたら、先祖をたどらなくとも、あの魔法使いの〈白き瞳〉ならばあるいは……だが〈白き瞳〉はもうおらず、姉はただの〈さすらい人〉だ。夜に慣れた眼は白い吐息を映しても、炎の尻尾はとらえない。
顔をあげると、ホロストの白く輝く夜が見える。万年雪に覆われた地肌がわずかな星明りさえも反射し、ほの白い灰色の世界を作り上げている。そして今夜は白黒の大地を二つ月のノーザンとサウザンが冴え冴えと照らし出している。放浪を続けていたので、姉は人生の半分以下しかホロストで暮らしていないが、いつ戻ってきてもこの景色は変わらなかった。この景色が未来永劫に続けばいいのだが、そうはいかないのだった。去る者は多く、偉大な魔法使い〈白き瞳〉は倒れ、姉弟の祖父だっていなくなった。冬の風が吹いて、命は吹き散らされる。凍土の下で悪魔と一緒に眠りに就く日はいつだろう? 外への唯一の道さえもじきに断たれる。それとは別に、同い年の〈双子姫〉は一月後、婚礼を挙げる。相手は数少ない仲間の〈さすらい人〉の一人、〈梟〉だ。その話を聞いてから、体の中を冷たい風が吹いている。姉だけが変わらない日々にとどまろうとしても、まわりは変化し、人は流れてゆく。小屋の裏手から薪を引き上げながら、姉はぼんやりと弟のことを考えた。歳の離れた弟。小さかった弟。それもあと三日の後には大人の仲間入りだ。
あたりまえだ、みな生きているのだから。
ここはひとりだけの世界ではない。
姉は両手に薪を抱えて小屋に戻る。ふさがった腕の代わりに毛皮のブーツで戸を叩いて、弟に扉を開かせる。今日は暖かくして寝ようかなあと笑う。
翌朝が訪れるよりも少し早い時間、弟はなにかを感じて目が覚めた。眠る前にくべた暖炉の薪を見る。まだ燃え差しが残っている。部屋を暖めている。ここは十分に暖かいのに、間仕切りの向こうを覗くと、姉の寝床はもぬけのからだった。こういうことはよくあることだった。弟がいまより幼かった頃から、姉は少しでも目を離すと、すぐにいなくなる。ただし、それは姉のせいばかりとはいえない。姉が姿を消すときは、その左手がたいていの場合、ある男につながっているのだった。そして弟の右手も、その男につながっているはずだった。
弟は自分の右手を開いた。狩人になろうとしている十五歳の少年の手のひらが見える。弟は眼を閉じる。まぶたの闇のなかで、その手が柔らかい子どもの手に変わる。子どもの右手が、大きな男の手を握って、弟は一緒に連れていってくれとお願いして、大きな腕にすがって、腕が抜けて、しりもちをついた。反対の腕は姉を捕まえて、姉を外へ引きずっていく。弟が握りしめていた太くたくましい片腕はみるみる干からびて、痩せた疲れた男の腕になり、「すまなかった」という声が聞こえてくる。子どもは怒りの声をあげる。許さないぞ。姉は泣いていたのに。連れていってほしいのは、僕だったのに……。
弟はもう一度目を覚ます。暖炉の薪は燃え尽きており、小屋の隙間から朝日が差して、今度こそ本当の朝が来ていた。弟は間仕切りの向こうに声をかけた。
「姉さん」姉は獣のような唸り声で答えた。機嫌が悪い。「父さんが僕を連れて行かなかったのは、僕が母さんを殺したからなのかな」
唸り声がぴたりと止んで、不思議そうな表情を浮かべた姉が顔を出してきた。
「まだそんなこと言っているのか。違うと教えたじゃないか。だいたい、母さんは殺されてなんかないよ。あの人は氷の女王のもとへ召されただけさ。ホロスト山で倒れたものは皆すべからく氷の女王のもとへ招かれる」
「でも、父さんは……」
「あの人は適当なことを言っていただけだよ。私は知っている。そしておまえは赤ん坊だったから知らない」
「でも……」
「でも?」
姉は聞き分けのない子どもを相手にするような様子で微笑んでいるのだった。そのふるまいをどんなに眼を凝らして見つめても、弟への憎しみや憤りを感じることができなかった。それは、弟からすると、理屈に合わない、不思議なことだと思われた。
なぜならば、彼らの父親が、その態度でしてもって伝えた物語がこうだからだ。
きょうだいの母親は、〈さすらい人〉である父親が外界に出た折に見出した花嫁で、すったもんだの挙句にどうにか山へと連れ帰り、結ばれた運命の相手である。だが薄弱の身上に生まれついていた母親は、姉を産み、それから歳の離れた弟を産んだとき、身体が耐えきれず、ついにこの世を去った。父親はいたく嘆き悲しみ、母親の命の炎を消した弟を疎み、家に寄り付かなくなった。常ならば男が担う〈さすらい人〉の役目でさえも、姉に仕込んで、弟には何一つ伝えなかった……。
だがこの物語が正しいならば、なぜ夢の中の男は姉を泣かせて、弟に謝るのだろう?
お馴染みの鬱屈の感じが弟の眼の中でくすぶった。
姉はその眼に見とれていた。ホロスト山の中でも外でもめったに見ることができないこの色合いはいったいどこからやってきたのだろう、などとのんきに考えている。この姉はまるで弟に似ていないのだった。気性も体格も顔つきも、愛するものも憎しみを向けるものも、育った環境も何一つ共有しないままここまでやってきた。そしてもうすぐさすらいを終えて定住を決めようとしているにもかかわらず、直に人生さえも別れてしまうような予感がする。だから姉はついつい弟の真剣さをごまかしてしまうのだった。
「朝ごはんにしようか」
姉が誘うと、弟も素直に頷いた。昨日姉がとってきた薪の残りをかまどに入れる。鍋の中にカチコチに凍ったトナカイ肉のぶつ切りと買い付けてきた葉物を入れて温める。
「首長さまに昨日の隧道の話はもうした?」
「いや、していない。その話は〈梟〉から伝えるそうだよ」少しだけ言いよどんで、姉は結局続きを口にした。「たぶん〈双子姫〉の顔を見る口実なのかなあ」
弟はそのとき姉が浮かべた表情を盗み見て、当てが外れた。姉はなんだかお気に入りの靴を片方失くしてしまったとか、大事にしていた弓弦が切れてしまったとか、そういうときに見せたものと同じ顔をしていた。
「姉さんは本当に〈梟〉と夫婦になるつもりだったの?」とてもそうは見えないけど、と弟は続けた。
「そうだよ。次の遠出でお願いしようと思っていたんだ。ところが先手を取られてしまったというわけ。クシャに戻ったとたんに話をされてしまっては、私から言い出すわけにもいかないしなあ。〈梟〉と〈双子姫〉は縁付いて、〈白き瞳〉は氷の女王に召され、かわいい弟はもうじき成人だ。しかも、弟はクシャで一番の狩人になれる。昨日の狩りで私がどれほど驚いたか、おまえにはわからないだろうなあ。首長殿は花嫁を盗んでこいとうるさいし、隧道は長くはもたないし、なんだか突然いろいろなことがどうでもよくなってきて、……そうだなあ、もうこんなの辞めてやるって思ったんだ。〈さすらい人〉なんて辞めてやるってね。ああ、影のない大砂漠、図々しい南の帝国、そして海をもう見ることができないのは残念だけど」
南の地方には巨大な水溜りがあり、姉はその水たまりを海と呼んでいるのだった。氷の大地の下を走る氷河が溶けて最後にたどり着く場所。弟は首を傾げた。姉の顔は、〈梟〉の話より、南のことを話しているときのほうが、よほど恋しい眼をしている。弟が自分の顔を見ていることに気が付いた姉は、頬を掻いて、
「少し出てくる。鍋が煮えることには戻るよ」
と、小屋を抜け出した。外はわずかに降雪を始めていた。
弟に余計なことを言ってしまったなあと反省しながら、姉は集落に隣接する雪の森の中をうろついた。少なくとも〈さすらい人〉を辞める理由について、隧道以外の話は必要なかった。ところが弟が嫌なところを――姉にとって一番触れてほしくなかった〈梟〉の話を持ち出してきたものだから、常日頃の不満をうっかりこぼしてしまった。
反省しながら夜の雪を踏む。
森の気配がおかしいなと姉が気がついたのは、頭も十分冷えてきた頃合いだった。今夜は森の誰も姉の様子を伺っていなかった。ホロストに生きる獣たちはその大小を問わず、人間たちの動向を伺うのが常だった。特に氷の女王が〈しるし〉を付けた人間には、獣たちの物言わぬ眼を逃れるすべはない。闇の中でも赤く光る双眸は女王の眷属の証で、彼らは女王のお眼鏡にかなった栄誉ある人間を付け回す……はずだが、今夜は誰もいなかった。姉は足を止め耳を澄ませてみた。
誰の息遣いも聞こえない。
雪が梢を滑り落ちる音もない。
雪片は無音の世界に降り積もる。
姉はきびすを返して集落へと一目散に駆けだした。〈さすらい人〉を十年以上も続けたその体が警告を発していた。突然、周囲の音が耳に戻ってくる。その音は遠く南のほうからやってきた。音は徐々に集落のほうへと近づいていくようだった。木の裂ける音、地面を氷ごと砕く音、不吉な地響きさえも携えて。
焦燥に潜んで、不意に激しい怒りが姉の身の内で目覚めた。私の平穏を乱すもの! ただ毎日獣を狩って、弟と他愛のない会話をして、〈双子姫〉といろりを囲んで飾り刀を彫って、〈梟〉が持ち帰った土産話を聞く、ホロスト山を終の棲家と定めて暮らす平穏の日々……私が欲しいもの。それをなぜ、壊すのだ! だが姉の激情は目覚めと同様、突然に鎮火した。今はそんな場合ではないのだった。どうやら得体の知れない何某よりも、姉のほうが集落への位置が近かった。
ならば駆け抜けるしかない。一刻も早く危機を集落に伝えなくてはならないのだった。
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