第8話 不機嫌の理由

 楽しかった林間学校が終わった。

 林間学校の後も、駿汰は今までと同じように登下校を一緒にしてくれてるし、態度も会話の内容も以前とまったく変わらない。


 それでも、駿汰があたしの実樹への想いを知ってるっていう事実があたしに心の安定を与えてくれている。

 駿汰は、あたしがこの想いを抱えたままでもいい、無理をしなくていいって言ってくれた。

 無理をしないで、いつか自然に駿汰の気持ちに応えられるようになるといいなと思ってるし、それはできないことではないような気もしてる。


 林間学校が終わるともうすぐ夏休みだ。

 今日は終業式前日で授業は午前中だけだったから、部活が終わってマンションに着いたのは夕方というには早いくらいの時間だった。


 駿汰とマンションのエントランスでバイバイしようとしたとき、

「あら、あーちゃん!」とあたしを呼ぶ声がした。

「みっくんママ!久しぶり!」

 買い物帰りの実樹のお母さんだった。


 あたしは小学校低学年まで、実樹のことを"みっくん"って呼んでた。

 実樹のママのことはずっと"みっくんママ"って呼んでいて、彼を"実樹"って呼ぶようになってからも、ママの呼び方はなんとなく変えられていない。

 それは実樹も同じで、あのでかい図体であたしの母親のことを未だに"あーちゃんママ"って呼んでる。


「部活の帰り?まあ、駿汰君も一緒だったの」

「こんちは」

 中学の時から駿汰は実樹の親友だから、みっくんママは駿汰のことも知っている。

「じゃあ実樹ももう帰ってきてるのかしら」

「実樹はまだだと思うな。一花ちゃん送ってると思うから」

「ああ、こないだ来たガールフレンドの子ね」

 この前の雨の日に一花ちゃん実樹の家に遊びに行ってたもんね。

 みっくんママも公認の仲ってことだよね…。


「じゃ、俺帰ります。晶、また明日な」

「うん。またね」

「駿汰君また遊びに来てね」

 駿汰に軽く手を振って、みっくんママとエントランスの中へ入る。


「ねえね、二人で帰ってきたってことは、あーちゃんは駿汰君と付き合ってるの?」

 さばさばしてるみっくんママらしく、単刀直入に聞いてきた。

「あー…どうかな。付き合ってるっていうのとも違うような…」


 あたしは駿汰の気持ちを知ってる。

 今はまだそれに応えられないけど、いつかはって気持ちがある。

 イエス・ノーで答えられない曖昧な関係。


 でも否定しなかったことで、みっくんママの中ではイエスと消化されてしまったみたい。

「実樹はこないだガールフレンド連れて来たし。あなた達幼馴染みでいつも一緒だったのに、やっぱりそれぞれに相手ができるものなのねぇ」

 みっくんママは少し寂しそうに言った。

 あたしだって、ずっと実樹といられればどんなにいいかって思ってるよ?

 でもそれは今の関係ではできないことなんだ。

 外したいのに外すことができない足枷のような関係でいる限り――


「あ、でもあーちゃん、夏休みはまたいつもみたいに一緒に勉強するんでしょ?

 実樹、こないだも国語の点数悪かったから、あーちゃん教えてあげてくれる?」

「…実樹さえよければ、あたしはいつでも」

 小学校の時から、夏休みの宿題プリントはだいたいどちらかの家に行って一緒にやっていた。

 あたしは実樹から数学を教わって、代わりに実樹に国語を教えてた。

 今年はどうするんだろう?

 一花ちゃんと勉強するのかな…


 考えるとやっぱり辛くなるけれど、あの星の降る夜に駿汰に言葉をもらってからはだいぶ気持ちが軽くなった。

 駿汰のおかげでその辛さを否定しなくてもいいんだって思えてる。


 家に帰ってしばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアを開けた母の声で、「あら!みっくん!」と聞こえてきた。

 一花ちゃんと実樹が付き合い出してからは実樹が家に来ることなんてなかったから、あたしは嬉しさと戸惑いとでおそるおそる玄関に出た。

「よお」と、母の背中越しに実樹が挨拶する。

「どしたの?急に」あたしが尋ねると、実樹がきまり悪そうな顔をした。

「母さんがさ…晶と夏休みの勉強の予定決めてこいってうるさいんだよ。ほら、毎年やってるだろ?」

「さっきみっくんママと会ってその話したからだね、きっと」

 うちの母が、「みっくん、家に上がって話したら?」と実樹に中に入るよう促した。


 あたしの部屋に久しぶりに実樹が入る。

 あたしが自分の勉強机の椅子に座って、実樹が赤いビーズクッションの上に座る。二人でいるときの定位置だ。

「部活の夏休み中のスケジュールも出てるし、あたしは予定決めるの構わないけど…。

 実樹は一花ちゃんとも予定あるんじゃないの?」できるだけ事務的にそう尋ねた。

「まあ、夏休みも遊ぼうな、くらいは約束したけどさ。勉強はやっぱお前とやった方がはかどる気がするんだよな」

「ふふっ。一花ちゃんと二人きりで勉強だとエロいこと考えちゃって身が入らないとか」

 表面上でもこんな冗談が言えてる自分自身に少し驚く。

「そんなんじゃねーよ」と実樹はふくれて言った。

 それから、ふくれたままの顔でこう言った。

「…お前こそ、駿汰といろいろ予定あるんじゃねーの」

 実樹に聞かれてドキッとする。

 駿汰とは特に夏休みに会おうとか話はしてない。けど…

「まあ、うちらも具体的な予定はまだ立ててないけど」

 思わせぶりな言い方をしてしまった。

 それを聞いた実樹の顔が少し曇る。


「お前、駿汰とマジで付き合ってんの?」


 あたしの鼓動が早くなる。

「え?なんで?」

「母さんに付き合ってるって言ったんだって?…それに、最近お前ら、俺抜きでほんとに楽しそうだし」

 それってヤキモチやいてくれてるの――?


「俺抜きって、一花ちゃんと付き合うために抜けたのは実樹の方でしょーが」

 実樹の本心がわからないまま、とりあえずツッコミを入れてみる。

「それはそーなんだけど…。お前らが付き合ってるかどうかって話だよ」


「…付き合ってないよ。今のところは」


 また思わせぶりな言い方をした。

 けど、これは嘘じゃない。


 実樹は、あたしの言葉をどう解釈していいかわからないような様子で沈黙した。

「…駿汰いいヤツだし。お前、男を見る目あると思うよ」

 そう言った実樹の表情をあたしは読んでしまう。

 なんだか不機嫌になっているみたい。

 どうしてそんな顔をするの?


 人当たりのいい実樹は、めったに不機嫌な顔を見せない。

 けど、それはいつも機嫌がいいということではなく、不機嫌なのを隠しているだけなんだ。

 長年一緒にいるあたしは、実樹が不機嫌になってるとすぐにわかる。


 あたしが好きなのは実樹なんだよ、とも言えるわけない。

 この話題を続けたくなくて、あたしは鞄から部活のスケジュール表を取り出した。

「さっさと決めちゃお」

「……」


 夏休みは部活が午前中にある月曜日と木曜日に、午後どちらかの家で一緒に勉強することに決めた。

 夏休み中実樹と二人で会える時間が確保できたことはすごく嬉しかった。

 けど、話をしている最中も実樹はなんだか機嫌が悪かった。


「…あたし、なんか怒らせるようなことした?」

 とうとうあたしは実樹に尋ねた。

 せっかく久しぶりに二人でいるのに、実樹がそんなんじゃ嬉しくない。

「えっ…?なんで?」

 実樹がきょとんとして聞き返した。

「さっきからずっと不機嫌そうだよ?」

「そんなこと、ないはずだけど…勉強の話だから憂鬱になってるのかも。

 それとも腹減ってるせいかな」

 自分が不機嫌になってる理由を一生懸命探してる実樹が可愛くて、あたしは不機嫌の理由なんてどうでもよくなってしまった。

「自覚ないならいいよ、もう」

「いや、俺が納得いかねー。そんな不機嫌っぽかった?」

「まあ、あたしがわかる程度にはね」

「俺にもわかんないのにお前にわかるって、お前すげーな」

 実樹の前歯のこぼれる笑い方で、機嫌が直ったのがわかった。

「お腹減ってるならなんかお菓子持ってくるよ」

「サンキュー」


 それからはポテチをつまみながら、本当に久しぶりに実樹と二人でいろいろ話した。

 とりとめもない雑談ばっかりだったけど、すごく久しぶりで嬉しかった。

 今まであたり前に存在していた二人の時間が、こんなにも貴重で幸せなものだったんだって思い知らされた。

 ごめんね、駿汰。あたしが足枷を外して歩き出すの、まだまだ先になりそうだよ――

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