第9話 夏休みの課題

「次、ボレー練習ー!」

「はーい!」

 ギラギラという音がしそうなくらいに強い夏の日差しの下で、新部長の高い声が響く。

 3年生が引退して少しだけ広く感じるようになったコートの中を何球もの黄色いボールが飛び交う。

 ネット際に構えたあたしに向かって一直線に飛んでくるボールを跳ね返す。

 次のボールはバックボレー。

 最後は弧を描いて空から落ちてくるボールをスマッシュ。

「ナイスー!」と声が上がる。

 コートを出ると、あたしはしたたり落ちる汗をタオルでぬぐいながら、脇に置いたスポーツドリンクを口に含んだ。


 暑いけど、練習は楽しい。

 そして今日という日が無条件に楽しい。

 だって今日は月曜日。

 午前中の部活の後、午後は実樹と一緒にいられるからだ。


 火曜日と金曜日はコートを有効に使えるように男女で練習時間が分かれているけれど、月曜日と木曜日は午前中の合同練習なんだ。

 だからあたしと実樹は月曜と木曜の午後をお互いの家を行き来して二人で勉強するということに決めた。

 週に2回は実樹と二人でいられる約束ができて嬉しい。

 それに夏休みは一花ちゃんが学校に来ていないから、実樹と一緒に登下校できるのが嬉しい。


 とにかく、夏休みは楽しい。


 2面隣りのコートで練習をしている実樹をちらりと見る。

 夏の日差しでだいぶ日焼けしたせいか、ラリーしながら楽しそうに笑う実樹の歯が白く目立つ。

 なんか、また身長伸びた?

 日焼けした手足のせいでより一層引き締まって見える。

 ショットを打つときの腕の筋肉にどきっとしてしまうな…。


「なに幼馴染みに見とれてんの?」

 図星を言い当てられてビクッとして横を向くと、新部長の奈央がニヤニヤしていた。

「や、違うよ!実樹、ラリーずいぶん続いてるなーって思って…」

「なぁんだ、やっぱり見とれてんじゃん。ほら、早く並ばないと晶の番がくるよ!」

 言い訳したつもりが言い訳になっていなくて、あたしは顔が熱くなった。

 けど、炎天下の練習ですでにのぼせてるから、きっと奈央にも気づかれなかったことだろう。

 午前の練習は休憩をはさんで2時間ほどで終わった。


 部室を出て南門へ急ぐと、もう実樹と駿汰は桜の木陰で待っていた。

 夏休みはこの3人でうちのマンションまで帰ることになっている。

 家の方向が違う駿汰がわざわざマンションまで来てくれることになったのには理由がある。


 ――――――


 夏休み最初の練習日。

 あたしを南門で待っていたのは駿汰だけだった。

「あれ?実樹、先に帰っちゃったの?」

 あたしは少しがっかりした。

 夏休みの部活なら、一花ちゃんがいないから一緒に帰れると期待していたからだった。

「実樹なら部室の鍵を職員室に返しに行った。

 先に帰ってていいって言われたけど、待つか?」


 駿汰の手前、なんとなく実樹と一緒に帰りたいって言いづらいけど、置いて帰るのも…って思ってあたしが迷っていると、駿汰がニッと笑った。

「聞いた俺が悪かったよ。

 どうせ帰るところは同じなんだし、待とうぜ」

「…うん」

 あたしの答えを先回りしてくれた駿汰に感謝した。


 門の脇に立つ桜の樹が作った木陰で待っていると実樹が走ってきた。

「なんだよー。先に帰っててって言ったじゃん」

「だって、どうせ同じマンションに帰るのに先に帰るのもって思って…」

 あたしがそう言うと、実樹は苦笑いした。

「いや。俺、電車で帰ろうと思ってたんだ」

 思ってもいなかった実樹の言葉にあたしは軽くショックを受けた。

 一花ちゃんがいなければ、実樹はふつうに歩いてマンションまで帰ると思ってたのに。

「電車って、お前定期は持ってないんだろ?電車賃もったいないじゃん」

 駿汰が言った。

「まあそうなんだけど…俺が歩いて帰ったらお前らのお邪魔になるから、さ」

 実樹は、笑顔を下に向けてつぶやくように言った。


「そんなことないよ。実樹だって遠慮するなって言ったじゃん。

 三人で帰ろうよ」

 実樹はなんとなくきまり悪そうだったけど、「行くぞ」と駿汰に声をかけられてあたし達と一緒に歩き出した。


 引寺川の橋のたもとで「じゃ、お疲れ」と駿汰が手をあげた。

「おい、ここで帰んのかよ?」実樹が驚く。

「へ?だって今日は実樹がいるだろ?俺が晶送る必要ないじゃん」

 飄々と駿汰が言う。

「だーかーらぁ。こうなるから俺は一緒に帰らないって言ったんだよっ」

 実樹にしては珍しく不機嫌さをあらわにして言った。

「俺、結局お前らの邪魔してんじゃん」


 なんなの――?

 自分は一花ちゃんのことであたしに”遠慮するな”って言っといて、自分は変な気ばっかり遣って…。


 あたしはなんだか急に腹立たしくなってきた。


「そんなにあたしと帰るの嫌なら、もういいよっ!

 あたし一人で帰るからっ!」


 珍しく怒ったあたしに、実樹も駿汰も口をぽかんと開けていた。

 ずんずん歩くあたしを慌てて二人が追いかけてくる。

「なあ。そんな怒ることじゃないだろ?俺はただ…」

「実樹に変な気を回されるのが嫌なの!」

「…ごめん。でも俺がいたら駿汰はマンションまで行かねーし」

 安楽坂の手前の信号が赤だったからあたしが立ち止まった。

 そこで駿汰も追いついた。


「わかった!じゃあ、俺もマンションまで行くから、3人で帰ろ。な?」

 いつも涼しい顔をしている駿汰が珍しくやれやれといった苦笑いをした。

 実樹はあたしの顔色をうかがいながら、「晶もそれでいい?」と聞いてきた。

 あたしは口をとがらせたまま無言でコクンとうなずいた。

 駿汰の提案に心の中で感謝しながら。


 こうして夏休み中は3人で部活に通うことになったのだ。


 ――――――

「今日も暑いなー。早くシャワー浴びてぇ」

 安楽坂を上りながら実樹がつぶやく。

 あたしはその後ろ姿を見ながら「夏は余計にこの坂きついよね」と弱音を吐く。

 あたしの後ろからは「トレーニングだと思って上ろうぜ」と駿汰の声が聞こえる。

 上りきると、三人そろって「ふぅ~っ」って息を吐いて笑った。


「今日午後俺んちで晶と勉強すんだけど、駿汰もくる?」

 マンションに着く手前で、実樹が駿汰を誘った。

「そうだよ!駿汰も一緒に課題やろうよ」

 あたしもそれがいいって思った。

「あー…。今日はうちの母ちゃん仕事の日なんだ。

 菜摘が家にいるから、俺が外出するわけにはいかねーわ」

 駿汰は飄々と言った。


 駿汰の家は4人きょうだいで、駿汰が一番上のお兄さん。

 中2と小6に弟がいて、菜摘ちゃんは小2の妹なんだ。

 駿汰は弟や妹の面倒をけっこうよく見てる優しいお兄ちゃんだ。


「そっか。じゃあまた声かけるわ」と実樹が言う。

「おう。じゃ、またな」駿汰が片手をあげる。

「わざわざ来てくれてありがとね」

「おう」駿汰はニッと笑って、さっき来た道を戻っていった。


「…こないだはごめん。俺、変な気を回しすぎてたよな」

 エントランスの中に入ってバイバイしようとした時に実樹が言った。

「ううん。いいよ、もう。3人で部活行けるの楽しいし」

「だな」

「うん」

 実樹が前歯をこぼすように笑ってくれて安心する。

 少なくとも夏休みの間は3人の関係は変わらないんだって安心するんだ。


「じゃあ、お昼食べたら1時過ぎに実樹んち行くね」

「おう」

 実樹が肩まで右手をあげるバイバイのポーズを見届けてから、あたしは反対側のエレベーターに向かった。


 ――――


 ピンポーン。

 実樹の家のチャイムを押すと、インターホン越しの声もなく、いきなりドアがガチャッと開いた。

「どうぞー」と実樹が顔を出す。

「お邪魔しまーす」

 突き当りのリビングまで届くように声をかけたけど、いつものみっくんママの「いらっしゃーい」が聞こえてこない。

「あれ?みっくんママいないの?」

「ああ。買い物行くって出てったな」

「ふぅん」

 あたしは玄関を入ってすぐ横にある実樹の部屋に入った。


 あたしの部屋に実樹の定位置があるように、実樹の部屋にもあたしの定位置がある。

 実樹の部屋では、実樹のベッドと折り畳み式テーブルの間があたしの定位置だ。

 いつものようにあたしはベッドとテーブルにはさまるように座った。

「さて、今日は何からやろっか?」

「こないだ数学と英語やっただろ?今日は国語やっといた方がいいな」

「そういえばまだ漢文の課題に手をつけてないよね」

「じゃあそれからやるか。麦茶持ってくるから待ってて」

「うん」


 実樹が部屋を出ている間、あたしは実樹の部屋を見まわした。

 自分の部屋と同じくらい実樹の部屋は落ち着く。

 小学生のときは男子の好きなゲームキャラのフィギュアとかが本棚に飾ってあったけど、今はその場所も辞書や参考書で埋められている。

 ふと、勉強机の隅に置かれた小さな箱に目が留まった。

 若者向けのブランドのロゴがプリントされている。

 大きさ的にはお財布かな…。


 そういえば、とあたしは思う。

 7月16日は実樹の誕生日だった。

 あれはきっと一花ちゃんからのバースデープレゼントだ。


 実樹とあたしは、小さい頃はお互いの誕生日に折り紙や便せんにつたない字で”おめでとう”って書いて渡したりしていた。

 けれど、携帯を持つようになってからはメールやLINEで"おたおめ"のメッセージを送り合う程度になっている。

 プレゼントを贈り合うのはカレカノの特権のような気がして、今年もあたしからは簡単なメッセージとスタンプを送るだけにした。

 一花ちゃんは形として残るプレゼントをあげたんだね――。

 彼女としては当然のことだけど、あたしにはできないことだと思うと悲しくなる。


「お待たせー」

 実樹がグラスを二つ持って部屋に入ってきたから、あたしは慌てて座りなおした。

 あたしの動揺を知られないように、急いでレッスンバッグから漢文のテキストを出す。

「さっ、ちゃっちゃと進めて他の教科もやろ」

「だな」


「晶。ここって書き下し文どうなんの?」

「あ、これはさ、一・ニ点を上・下点がはさんでるでしょ。だから…」

 実樹はあたしより勉強ができるけど、文系科目はちょっと苦手だ。

 だから国語や英語なんかはあたしが実樹に教えてあげたりしている。

 人に教えるってことは、自分の頭の中の整理にもなったりする。

 実樹には代わりに数学を教えてもらえるし、二人で勉強するのは楽しいだけじゃなくてすごくメリットがあるんだ。

 すぐに話が脱線して雑談してしまうのがデメリットだけど。


「あー!もうほんと漢文めんどくせー」

 1時間も経たないうちに実樹が音を上げた。

「ほらぁ。まだあと3行、現代語訳が残ってるよ」

「あとで晶がやったの見せて」

「だーめ!それじゃ休み明けのテストで点数取れないよっ」

「ちょい気分転換しよ。ポテチかなんか持ってくる」

 実樹はそう言って立ち上がり、部屋を出ていった。


 午前中に部活をやってきたせいか、私も少しけだるい。

 ふうっと息を吐いて、後ろにある実樹のベッドにもたれかかった。

 腰を前へずらして、上を見上げるように頭をベッドの上に乗せる。

 気持ちよくてこのまま眠ってしまいそう…。


「晶ー。のり塩でいい?」

 ポテチの袋を手に持った実樹が戻ってきた。

「うん…」

 少し首をもたげて薄目を開けて返事をした瞬間


「うわっ!!」


 実樹が自分で床に置いた漢和辞典につっかかった!


 バランスを崩して倒れ込んでくる…


 ドサッ



 目を開けると、あたしに実樹が覆いかぶさっていた。


「…った。ごめ…」


 実樹はあたしの頭のすぐ上に肘をついていて、体は左半分くらい重なっている。

 実樹の体からふんわりと石鹸の匂いがする。

 実樹の声はあたしの耳たぶに息がかかるくらいのところから聞こえた。


 どうしよ…


 全身がこわばって心臓がバクバクいっている。

 耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。


 あたしよりも一瞬遅れて実樹がその状況に気がついた。

「わっ!ごめ…」

 慌てて顔を上げたから、顔が向かい合ってものすごく近くなった。


 実樹の瞳に自分が写ってるのがはっきりわかる。

 心臓が口から飛び出しそう。


「晶……」


 頬を赤らめた実樹の瞳が潤んでる。


 ドクン、ドクン、ドクン、


「手…」


「…えっ⁉︎」


 ハッと意識が正常に戻った。

 気がついたら、あたしは実樹が重なってない方の右手を実樹の背中に回して、実樹のTシャツをぎゅっと掴んでいたのだった。


 無意識の自分の行動にあたし自身がめちゃくちゃびっくりして、「きゃーっ!」と実樹の体を押し戻した。

「うわっ」

 不意打ちをくらって実樹がよろける。

「あっ!ごめん」

 あたしは顔を真っ赤にして謝った。


 実樹が大きく前歯を見せてハハッて笑いながら体を起こした。

「いや、悪い悪い。驚かせたよな」

「もう…ほんとびっくりしたぁ」

 あたしも体を起こして座り直した。

 まだ心臓が痛いくらいに強く動いてる。


「そんなとこに辞書置いたりするからだよ、もぉ」

 自分の無意識の行動が恥ずかしすぎて、実樹をなじってしまった。

「晶寝てんのかと思って気を取られてたんだよ」

 実樹が決まり悪そうに言う。


「はー、でもよかった」と実樹が苦笑い。

「え、何が?」

「いや…。お前が手を俺の背中に回しただろ?

 お前の髪、シャンプーのいい匂いするし、

 俺ドキドキして、幼馴染みに間違い起こすとこだったわ」


「な、な、なに…!」

 あたしはまた顔から火が出るくらい熱くなった。


「冗談冗談」

 って実樹が笑った。


 たとえ冗談でも、実樹の言葉は夏の日焼けみたいに、あたしの心にずっとチリチリと焦げるような跡を残した。


 実樹があたしにドキドキした。

 実樹があたしにドキドキした。

 実樹が…



 結局その日はお互いどこかぎこちないままで、課題にも全然身が入らなかった。

 翌日になって、漢文の最後の三行の現代語訳がめちゃくちゃだったことに気がついた。


 次の実樹との勉強までに平常心を取り戻すことがあたしの当面の最重要課題になった。

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