第8話 それはまるで運命のように
――翌朝。
それなりに人通りのある通学路を歩きながら、控えめにシャツの前をばたばたとあおぐ。
(蒸れるなぁ……)
今朝は空気がじめじめとしていて蒸し暑く、爽やかさの欠片もない。
それでもこれまでならただ暑いだけで特に気にもならなかったのだが、今の一路は制服の下にさらし代わりの包帯を巻いている。巻かなくても、そこにあるはずのない膨らみがはっきりする訳ではないのだが、念のためだ。
しかしこの包帯のせいで蒸れるし息苦しいしで、朝から気分は冴えなかった。
こんな調子で今日一日やっていけるのかと不安になる。
(昨日はほとんど保健室だったからなぁ……。だけど、)
頑張らないと。気合を入れて顔を上げた。
すると、進行方向、まるで電柱の陰に隠れるような格好で、制服姿の女の子が佇んでいるのが見えた。
片目を隠すように長い前髪くらいしか印象に残らない、線の細い少女だ。高くも低くもない平均的な身長で、陽射しに透けそうなほど青白い肌している。顔立ちは可愛いらしい部類に入るものの、その前髪や憂いを帯びた表情、足元に落ちた視線がそれを損なっていた。
影に立っているせいかどことなく涼しげな印象があり、一路は思わず足を止めて少女を見つめる。
彼女はそんな一路に気付くと、小さく頭を下げた。
「……どうも。お、おはようございます」
ほのかに色づくその表情を見て、一路の胸もわずかに高鳴る。
――女の子と待ち合わせなんて、初めてだ。
それは昨日、
一路の隠れるベッド下を覗き込んだのは、意外な人物だった。
(どうして――)
なんの接点もないはずの、彼女が。
正座して床に手をついた格好で、前髪が流れ普段は隠れている右目が露わになっている。
その瞳と、目が合った。
覗き込んでいたのは、クラスメイトの少女だ。
一路の後ろの席に座る、けれども一度も口をきいた覚えのない、正直言って影の薄い女の子。一路はベッドの下の狭い空間でうつ伏せになりながら、首だけそちらに向けたままその顔を見つめる。
「ど、どうも……」
と、昏石伊遠は小さく呟いた。
なぜ、彼女が。
いやそれ以前に、どうしてここに、このタイミングで?
これではまるで、花与が連れてきたかのようではないか。
……まさか?
「イチロー、とりあえずそっから出てきなよ」
花与に言われて我に返り、一路はとりあえずベッドの下から出ることにした。もはや隠れていても仕方ない。
その最中、潜り込むときには気付かなかったが――
「?」
ベッドの底板の裏に、ノートが貼り付いていた。紐か何かで固定してあるようだ。簡単にとれる。
いかにも怪しいからすぐにも中身を確認したかったが、今は花与と昏石伊遠の方が先決だ。
ノートを回収しつつ一路がベッド下から這い出ると、正座していた伊遠が立ち上がって距離をとる。顔を上げれば、ちょうど目線の高さに伊遠のスカートがあった。薄く青白い太腿が伸びている――
「っ」
ばっとスカートを押さえる手。内股になる。一路は慌てて顔を背けた。
「な、ななな、なで、どうしてっ、その、昏石さんがここに?」
噛みながらもたずねると、伊遠はごにょごにょと口ごもってから――まるで助けを求めるように花与の方に視線を向けた。
得意げに胸を張るようにして、花与が口を開く。
「スカウトしてきたの! この子、私のこと視えるんだぜ」
「……やっぱり」
まさかとは思ったが、幽霊がいるのだ、視える人間がいても不思議じゃない。
ベラベラ勝手に語る花与が言うには、伊遠は今朝、教室で宙に浮いた花与が一路と話しているところを目撃していたらしい。それで花与も伊遠が自分を視ていることに気付いた。一路は気付かなかった。伊遠の席は一路の後ろにあるのだ。
しかし、それはそれとして――
「どうして昏石さんがここに……」
花与が一路の前から消えてまだそんなに経っていないにもかかわらず、こんなにもすぐにどうやって伊遠を見つけて連れて来たのか。
学校にいたならともかく、今は放課後だし彼女も帰宅するなりしていたはずで、仮に学校にいたとしてもこの家まではそれなりに距離がある。
そして、いったいどんな魔法を使えば、赤の他人である伊遠を家に上げることが出来るのか。
「えっと……」
見ていると、伊遠はもじもじしながら胸の前で指を組んでいる。こんな可愛らしい反応をする女の子は初めだ。現実にいたのかと少し呆然となる。
一路と伊遠の背丈は同じか一路が少し高いくらいなのだが、彼女は猫背気味で本来より小さくなっていた。なんだかいじめているみたいで罪悪感が湧きかけたのだが、
「学校から……、」
伊遠が頬を染めながら、消え入りそうな声で呟く。
「
そうかそれでその辺にいた彼女を花与が見つけて、こんなにもすぐに呼び出すことが出来た訳だ――じゃない。
「え」
それってつまりスト――
一路が思わず声を出しかけた、その時だった。
がちゃり。
と、部屋のドアが開いた。
「ここで何してるの」
ぼそっと低い声に、一路は時間が止まったのかと錯覚した。
……動けない。
部屋の外でジト目をこちらに向けている女の子の顔を直視できない。
ぎぎぎ、と。
ぎこちなく首を回せば、そこに彼女は立っていた。
中学生にしてはすらりと背が高く、一路や伊遠、そして姉である花与よりも長身の女の子。その体型によく似合った腰まである長い黒髪。どこかの誰かと違ってとても女の子らしい彼女は――
「の、ののののんちゃん……」
花与の妹、
これからどこかに出かけるのか、部屋着にしては可憐な私服姿の彼女は、不審げな視線を一路にジッと注いでから、怪訝そうに、その顔を伊遠に向けた。花穏には二人の間に立っている姉の姿はやはり見えていないようだ。
「誰」
「あ、いや、のんちゃん、えっと、この子は……」
いろいろと焦る。きちんと玄関から入ってきた伊遠はいいとして、一路は窓から侵入した身だ。それに、伊遠のこともどう説明すればいいのか分からない。
一路が戸惑っていると、視界の端で何やら花与が伊遠に耳打ちし始めた。伊遠が硬い表情になりながら、口を開く。
「わた、私は未田先輩の後輩で、今日は先輩に貸してた本を受け取りにきたんです。返してもらう前に、亡くなってしまったので。……ああえっと、この本です。」
まるで棒読みだった。花与に言われるままを口にして、命じられるままロボットのように本棚へ体を向ける。花穏の訝しげな視線に晒されながら、本棚から小説らしき本を取り出してぎこちなく微笑む。
……なるほど。一路は納得する。学校でまつり相手に一路にそうしたように、どうやらこうして花与の母をやり過ごして家に上がることが出来たようだ。大根役者にもほどがあるが。
ともあれ、花穏は特に追及することなく頷いてくれた。伊遠の手に取った本が花与の読まなそうな、この本棚の中でも異質な一冊だったのも功を奏したのだろう。
「……そう。で、イチ兄は?」
水を向けられ、一路はとっさに話を合わせる。
「僕は昏石さんの付き添いで……ほら、家には来たことないって言うから。あ、僕たち同じクラスなんだよ」
「ふうん?」
と、一路は花穏の視線が自分の手元に向けられていることに気付く。
ベッド下で見つけたノートだ。
「あっ、それ私の――、」
「それ、姉ちゃんの日記」
花穏のじっとりとした視線が絡みつく。一路の表情は引きつった。
(そうかもとは思ってたけど、こっちがのんちゃんが見たっていう日記か……)
そんなものを持っている現状をどう釈明しようか。平静を装いながらも必死に頭を働かせる一路に、花穏は無言のまま手を差し出した。寄越せ、ということだろう。
「た、たまたま見つけたんだよね……」
「プライベート」
「……どうぞ」
ようやく見つけた手がかりがいともあっさりと。
一路からノートを受け取ると、花穏は室内に入ってきて、花与の机に近付く。何をするのかと思ってその動向を追った一路は再び固まった。
(しまった……。昏石さんに気を取られて……)
花与のノートパソコンが開きっ放しだ。時間経過で画面は暗くなっているものの、電源が点いてることは明白である。
花穏は一路を振り返って、
「プライベート」
パソコンを閉じ、日記をその上に置いた。
「…………」
年下の、それこそ妹のような女の子の放つ謎の威圧感に負け、一路はこくりと頷く他なかった。
これはさすがに、取れない。
花穏はその後何も追及することなく部屋を出て行ったが、一路にはそれを持ち帰る度胸はなかったし、花与のいる前でそれを覗くことも躊躇われた。
「……私まで緊張しちゃったよ……」
花与が大袈裟なため息をつく。伊遠は今にも座り込みそうな様子だった。一路もなんだかどっと疲れた。
花穏に対して秘密を抱えている後ろめたさのせいもある。無理をして隠すほどではなくても、打ち明けづらい。
一路はため息をつく。その秘密を、伊遠に伝えるべきなのだろうか。
告白すれば少しは肩の荷も下りるかもしれない。
なんにしても。
「とりあえず……場所変えようか……」
――そうして、一路は窓から自分の部屋に戻り、伊遠は花与の母親に挨拶し玄関から外に出る。
再び落ち合ったのは一路の自室だった。
(……て、その場の流れでこうなったけど……)
〝女の子〟を家に、それも自分の部屋に招くのは初めてで、今更だが一路は緊張してしまう。
ただ、連れてくるにあたって花与があらかた説明したらしいので、一路の方はあまり話すことがなく――自分以上に、伊遠の方がガチガチに固まっていたのもあって、一路の緊張はすぐに緩んでいった。
「じゃあ、あの時、ハナ姉が僕を突き飛ばしたの見てたんだ」
伊遠はどうやら、まつりとのトラブルの発端となった一連の出来事を目撃していたらしい。花与とのやりとりはもちろん、クラスの不和を招く原因となったそれも。
だから、大丈夫だと。私は知ってると言ってくれたのだ。
クラスの男子たちは一路が事故に見せかけて意図的にまつりの胸を触ったと思っているようなので、真実を知っている人間の存在は一路にとってちょっとした救いだった。
けれども。
「それで僕はハナ姉を成仏させるために、そのヒントを探してハナ姉の部屋に入ったんだけど……」
「ご、ごめんなさい……そうとは知らなくて」
「ひとのパソコン覗こうとするようなヤツに謝らなくていいんだよ!」
まあ、彼女に非はないのだ。今回は花与の方が一枚上手だったと諦めるしかない。どのみち、ベッドの下に入らなければ日記を見つけることもかなわなかったのだから。
(一応、収穫はあったし……)
ひとのベッドに座る花与をちらりと窺えば、
「そういえば昏石ちゃんは、なんで都合よくうちの前にいたの?」
もう一つ、気になっていたことを代わりに訊いてくれた。
……正直、一番訊きづらかったやつだ。
「え、えっと、それは……、」
今度は伊遠がちらりと一路の顔色を窺う。目が合うとすぐに視線を伏せた。
(まさかほんとにスト――……)
「私、自分の他に、幽霊が視える人……初めてだったから。気になって、思わず」
「な、なんだ……良かった」
「? ……えっと、それで、何か……力になれることがあれば、と思って。別に幽霊が視えるだけで、お祓いとかそういうことが出来る訳じゃないけど、その……多牧さんとのこと、とか。私は、来藤くんが悪い訳じゃないって、知ってるから」
緊張がほどけてきたのか、徐々に伊遠の口調も滑らかになってくる。
見た目の印象から人見知りで根暗なイメージを抱いていたが、かなり良い子だと一路は思った。ありがたい。
「ほら……クラスの空気、今最悪だし……」
「そ、そうだね……」
無関係な彼女にもその空気は飛び火しているらしい。なんとかしたいと思って当然だった。
「でもどうするの? イチローのこと、みんな痴漢野郎だって思ってるみたいで印象最悪だし、あの男子のお前は貧乳発言で男女間戦争勃発だよ?」
「貧乳発言って……。まあ、そういう風にもとれるけどさ……別に小さくは――」
「…………」
唯一の味方の視線が一瞬冷たくなった。
「と、とりあえず――昏石さんには、その、
笑って、ごまかすしかなかった。
――ともあれ。
(昏石さんの協力は本当にありがたいよ……)
翌日、一路は一応まつりに声をかけてみたのだが、昨日と変わらずツンと澄ました横顔を拝むのがせいぜいで、話をする機会には恵まれなかった。
ついでに言えば、クラスの誰も口をきいてくれなかった。
一路をきっかけに男女間の関係がこじれて、男子と仲良くすれば女子同士でも空気が悪くなりそうだし、女子と話しているのが見つかれば男子間での嫉妬が渦巻く。伊遠がなんとかしなければと感じたのも頷ける有様だった。
空気は最悪。にもかかわらず、その日の四時間目の授業はニクラス合同の体育。
更衣室で他の男子に囲まれるのには難があってトイレでこそこそ着替えると、そこから出たところを男子たちにからかわれた。
――何お前女子みたいなことしてるんだよ。本当は女なんじゃねえの。
ただからかわれただけならいいのだが、彼らの目にもそういう風に映りつつある現状が問題なのだ。
昔もそうやって馬鹿にされたが、今は本格的に身体が女性化しているからこそ。
そして――体育館という建物の中で、何か良からぬものが空気感染しそうな悪い予感に、一路は苛まれる。
一見すると男女合同で、なぜか男子チームと女子チームとに分かれて試合をしていたりと仲睦まじく思えるのだが、両者の間にあるのは――「女子どもめ、馬鹿にしやがって!」「このサルどもに制裁を!」という剥き出しの敵意である。
(状況が酷くならなければいいんだけど……)
たとえば、この空気が他所に伝播してしまうとか。
ただえさえ一路がやらかしたという噂は広がっているというのに、クラスメイトたちと接することで他所のクラスの生徒たちにまで悪い印象を抱かれるのではないか。
むしろ、噂でしか事情を知らない他所のクラスの方が、より酷い攻撃をしてくるのでは――
「来藤ー、ボールー」
ダン、とボールが肩にぶつかる。
試合には参加せず適当なグループに紛れ込んでボール投げをしながら、体育館の反対側でまつりに声をかけようとしている伊遠を見ていたら、早速いじめを予感させる出来事に見舞われた。
「おい、なに女子の方見てんだよー」
はははは、と笑いが起こる。
冗談交じりであればいいのだが、そうだとしても、その声を聞いた女子たちの冷たい視線が一路に一斉砲火される。
そんな中、まつりは本当に一瞥もくれなかった。完全無視だ。
「はあ……」
そうやってため息をつきながらボールを拾う姿に、何を思ったのか。
「何があったのかわかんないけどさ、いじめは良くないんじゃない?」
――と、知らない生徒が一路たちのグループに声をかけたのだ。
背の高い、端整な顔立ちの……少年、だった。
「い、いじめじゃねえよ。なあ?」
「まあ……」
彼らにその気はないのかもしれないが、そういう軽い気持ちが結果的にいじめに繋がるものである。曖昧に頷く一路に、その少年は困ったような顔を向けた。
「そう? なら、いいんだけど。君が浮かない顔してたから。だけど、もし何かあったら、そうだね、えっと――いつでも助けてあげるよ」
隣のクラスだよね、
そう言って、少年は微笑を浮かべた。
(な、なんだこのイケメン……!?)
心に滑り込んでくるような言葉に、不覚にもドキリとしてしまう。
同性相手にときめいてしまうなんて、これはもうほとんど末期だ。
いや――
同性、なんだろうか?
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