第10話 君の目に映る全てが その2
「……こんなところに連れてきて……」
なるべくなら二人きりで話したかったから、あまり人のこない屋上前を選んだのだが、
「わたしに、何するつもり……っ」
まつりは完全に警戒モードで、
「えっ、いやっ、ちがっ、何も……僕はただ、謝りたくて……」
「……それなら別に、教室でだっていいじゃない」
「それは、その……」
今の教室で謝ると、それはそれで別の波風を起こしそうな気がしたからだ。
それに、まつりは一路のことを避けるくらいあのことを気にしている。人前で謝って、また蒸し返すようなことはしたくないと思った。
だけどそんな配慮が裏目に出たのか、今のまつりはまるで怯える子猫のようだ。小柄な体をさらに小さくするようにしながら、一路が少しでも変な動きをしようものなら脱兎のごとく逃げ出しそうな気配をまとっている。顔はこちらに向いているものの決して目を合わせようとはせず、表情は硬く強張り、これ以上ないくらいの不信感を露わにしていた。
(これはなんていうか、もう……絶望的だな……)
仲直りなんて夢のまた夢、謝ってどうにかなる問題ではなさそうだ。
謝って許してもらおうとは思っていなかった。とにかく自分の気持ちを彼女に伝えたかった。もちろん叶うなら許してもらい、仲直りできたら最高だが、そもそも仲直りなんて言うほど、もともと親しかった訳じゃない。
ただ、一路が一方的にまつりのことを気にしていただけだ。
入学したばかりの頃、緊張やら何やらで戸惑っていた一路に、最初に声をかけ優しくしてくれたのが彼女だった。
それから特に何かあった訳ではないものの、その一件は一路にとって、雛鳥が初めて目にしたものを親だと認識するような、そういう類の感情を植え付ける出来事だったのだ。
「……
そんな相手が今、ハリネズミのように鋭くちくちくとした空気をまとっている。
すぐにでも逃げ出したいような心境だった。
だけど、と。
気合を入れ、勇気を振り絞り、意を決して、顔を上げる。
自分のため、そして頭を下げてまでこの機会をつくってくれた
「……
頭を下げる。そうされても、まつりにとっては迷惑かもしれない、こちらの気持ちを押し付けるばかりかもしれない。
しかし、こうする他に思い浮かばないのだ。
事故と言えばそうだし、悪気もなかったとはいえ、それで彼女を大泣きさせるほど心に傷を残したというのなら、一路に出来るのは誠心誠意謝ることしかない。
「なんて言えばいいか……嫌な気持ちにさせて、ほんとに、ごめんなさい」
何か出来ることがあるならしたいものの、なんでもするから許してほしいというのは即物的なようで、表面上だけの謝意しか伝わないような気がした。
土下座しろと言われたらそうするつもりだし、それが少しでも彼女の心を満足させるなら、プライドでもなんでもかなぐり捨てる。
それだけのことをしたのだと――それだけ大きな罪を犯したのだと、そう思うから。
女の子の胸を触るということが、どれほど罪深いことか、今日一日、まつりの態度を見ていてそれを心の底から深く理解したからこそ。
だから今はとにかく、頭を下げる。
「もう……、」
ため息混じりの呟きが聞こえ、一瞬息が詰まり、心臓が、時間が止まったような緊張に襲われた。
「……いいよ。顔上げてよ」
言われて、少し躊躇ってから顔を上げると――案の定、まつりは困ったような、気まずそうな顔で視線を逸らした。罪悪感で胸の奥がちりちりと焦げるようだ。
呼吸が戻り、動き出した心臓が激しく脈を打ち、痛みが広がる。
いっそ何もしない方が、お互いのためだったのかもしれない。時間が流れるに任せて、そのまま――二度と口もきかずに。
だけど、何かしたかった。何もしないではいられなかった。
せめてただのクラスメイトでいいから、挨拶くらい出来るような間柄に戻れたらと、そう思って――そう思うのはやはり自分のエゴだったのか。
暗い感情が渦巻き、そのループに囚われ闇の奥深くに引きずり込まれそうになる。
「わたしも……悪かったって、思ってるから」
「……え」
「嫌な態度とって……。悪気がないのは分かってるんだけど、でも、なんか……その……ごめん」
まつりはそう言って、小さく頭を下げた。
「い、いや、謝らないでよ。僕が悪いんだから……」
「だけど、」
まつりはまるで自嘲するように唇を歪めた。そしてふて腐れるみたいに、
「悪いって、気の毒にさせるくらい……むしろ謝るくらい、わたしの胸が貧相だったってことだよね」
「えっ、いや、何を、」
「……いいよ。自分でも分かってるもん。どうせ、ね……。ふふ……。だけど、こればかりはわたしも、許せないから」
上目遣いに、キッと一路を睨む。久々に目が合うも、その暗い瞳に気圧された一路は思わず目を逸らした。
「初めて、他人に……男の子に触られて……しかもみんなの前で……恥ずかしくて、生きてけないよ……」
「う……」
さすがにお嫁にいけないとまでは言わなかったが、場合によってはむしろそれより深刻なダメージを負っているのかもしれなかった。
きっとまつりは
もしかしたら今頃、まつりは自宅で引きこもっていた恐れもある。一路は自分ならそうしていると思う。今こうしてまつりが学校にいるのはあるいは、一路が保健室で寝込んでいる間なんかにクラスの女子たちが励ましてくれたからだろうか。女子たちによる男子ヘイトもそれが一因で、全てはまつりのためなのかもしれない。
「
「そこまで……!?」
それほどまでに、まつりの、乙女の純情を踏みにじってしまったのか……。
これは死をもって償う他ないのかもしれない。
状況が違うとはいえ、一路も現在身体は女の子のそれだ。もしもこの事実が露見したらと思うと、相手を始末するか自分が消えるかしなければという強迫観念に囚われるだろう。
保健室の時は深く考えていなかったものの、他人にバレるのはいろいろと問題だ。どうやら花与は伊遠にこの件に関しては教えていないらしい。あの花与が黙っているくらいなのだから、直感的にも知られるべきことではないと思う。
男に胸を触られるということは、まつりにとってそれくらいの大ごとなのではないかと、自分に置き換えて、彼女の気持ちを想像していて――ふと、思った。
それはあまりに突飛で、今後の自分たちの関係に大きく影響を及ぼしかねない発想ではあったが――
「多牧さん」
「……なに?」
普段と打って変わって強く硬い口調だったからか、まつりは少しびくりとしてから一路を見上げた。
「これで多牧さんの傷が癒えるとは思わないけど……」
せめてもの慰めになれば、と。
「実は僕、今……か、身体は、女の子、なんだ」
だから〝男に触られた訳じゃない〟なんて、それこそ即物的な、屁理屈めいた言い訳になるだろうか。
「……なにを、言ってるの」
まつりの表情が険しくなる。どうしてこのタイミングでそんな見え透いた嘘を、下らない冗談を言うのか。なんのつもりなのか。まるでそう咎めるような目。
「信じられないとは思う。けど……」
「……確かに来藤くんは女の子みたいな感じだけど……」
一路は自分の制服の内側に手を入れる。胸を覆い締め付けていた包帯を無理に引き剥がし、少し胸を反らすようにすれば――制服のシャツを押し上げるように、男の身体にはありえない膨らみがはっきりする。
「なんていうか、まあ、事情は後で説明するけど……」
してもいいのか、いいんじゃないかな、多牧さんのことよく知ってる訳ではないけれど、彼女なら他言しないだろうし――それなりにいろいろ考えて、打ち明けることにした。
危機感はあるが、別に人を殺した訳じゃない。自分に何か非があるような秘密ではないし、一時的な問題で、いずれは解決するはずのものだ。
まつりになら、打ち明けてもいい。
それが誠意ってものだと思えばこそ。
ただ、
「中に何か入れてるんじゃないの……?」
信じてもらえるかは別の話だ。まつりのその反応に苦笑と、少しの安心を覚える。仮にまつりが誰かに話しても、普通はそういう反応をする。そう思えば多少気持ちも軽くなる。
「なんなら、触って確認してもらっても――」
軽い気持ちで言ってしまって、急に恥ずかしくなった。
まるで自分の身体じゃない、いわば付属品みたいな感覚でいたけれど、シャツを中から押し上げるこの膨らみは紛れもなく自分の身体の一部だ。触られるということはつまり、
「っ」
「あ、ほんとだ……」
おずおずと、それでいてさっと手を伸ばしたまつりは、その指先に返ってきた感触に驚いたように自身の手を見つめていた。
「え? え? えっと……? 来藤くんって、男子……だよね? 制服……。いやでも……。もう一回、触っていい?」
「えっと……」
どうぞ、と言うしかない。自ら招いた事態とはいえ、今の一路の立場は弱い。
「…………」
まつりの手が伸びてくる。その小さな手が広がり、一路がそうしたように、一路の胸を覆うように押し当てられ、もみもみと指が動く。制服越しに彼女の指が肌に、胸に触れる。押し込み、食い込む。手の平の体温が伝わり、汗ばんでくる。
(~~~っ、す、すごく、変な感じがする……っ)
くすぐったいような、少し痛いような。自分のものじゃない誰かの手が、自分の予想しない動きで自分の身体に触れている。撫でるようになぞり、かと思えば摘まむように二本の指が左右から挟み込む――
「もっ、もういいよねっ!?」
いてもたってもいられず、一路は飛び退るようにまつりから離れた。
顔が熱い。まつりを直視できず、片腕で口元を覆うようにしながら顔を背ける。まつりは一路の胸の感触を確かめるみたいに、にぎにぎと自身の手を握ったり開いたりしてから、ほんのりと赤く染まった顔で、じっとりと熱っぽい視線を注ぎながら、
「まだ、分かんない、かなぁ……?」
にやけるような、それを堪えるかのような、柔らかさと硬さを備えた微妙な表情でそんなことを言いながら、まつりは一路ににじりよる。
「た、多牧さん……? な、なんで背後に回ろうとするのかな……?」
「正直、正面から触ってもよく分かんないっていうかー……自分の触る時だって、普通は今みたいな触り方しないし……」
「っ……」
まつりが自身の胸を触っている姿を想像して、一路は卒倒しそうになった。額に汗が浮かんでいるだけなのだが、沸騰しすぎて脳が沸いて何か溢れてきたのではないかと錯覚する。
「他の人の触ったこともないから……。ほら、ただの脂肪かもしれないでしょ? お相撲さんだって、今くらいあると思う……」
お、お相撲さん……。その表現に和やかな気持ちになりかけるが、たぶん今、自分は貞操の危機に晒されている。一路は自分の背後をとろうとするまつりから背中を守るためにその場を回った。目が回りそうだ。
「後ろから触って、確認してみたら……よく分かると思うんだけど……?」
「今ので充分じゃないかな……!?」
「なんなら、生で、直に……」
「生!? 直!?」
「えへへへ……。いいでしょ? いいよね? 来藤くんだってわたしの、触ったんだから」
「う……っ」
卑怯だ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから……。ね……?」
そう言ってまつりは一路の背後に回り込むと、脇の下から腕を通し、一路の胸を下から掬い上げるように持ち上げる。
彼女の指がさっきよりもぴったりと寄り添うような感覚。それほど大きい訳ではないものの、まつりの手が小さいからか、四本の指がしっかり一路の胸の下に入り込んだ。
その四本それぞれがまるで違う意思でも持っているかのように、ゆっくりと、しかし遠慮なく動く。
「すごい……わたしのよりあるかも……」
確かにあると思う。なんて思っている余裕はなかった。
胸を襲う感覚もそうだが、何より、まつりが背中に密着しているのだ。彼女の髪が一路のうなじをくすぐる。
背伸びでもしているのか、全体重が圧し掛かる。重いというほどではなくても、いろいろ押し付けられて堪らない。
……熱い!
「ほんとに、女の子なんだ……」
「分かって、く、くれた……? なら――」
「下は、どうなってるのかなー、なんて……」
「ばっ、」
「やっぱり、そこを確認した方が……ほら、ね? 一番手っ取り早いっていうか……」
「多牧さん!」
さすがに声を荒げた。
「えへへ……冗談だよぉ」
悪戯っぽい笑い声。一路は頭がおかしくなりそうだった。可愛すぎて、もう。
そんな沸騰しかけた頭に冷や水を浴びせるように、
「……なにしてるの、来藤くん……」
いつの間にかそこにいた伊遠が、冷めた目で二人を見つめていた。
――ともあれ、どうにかまつりの機嫌を直すことには成功したようだった。
「ほんとに女の子だったんだね……。でもなんで? 男装?」
「いやこれには事情があって……」
伊遠にも説明していないことだから、状況が込み入っている中、話すのは難しかった。それに、話せるような精神的余裕もなく。
「わたし、そういうシチュエーション大好きなんだ! 男装して男子校で過ごす女の子とか、女装する男の子とか! 好きな男子に近付くために男装したり! 男装なら百合もいけるよ! 周囲に隠しながら過ごすとかスリルがあっていいよね! 普通の恋愛よりよっぽど萌えるよ! それで、ルームメイトなんかに正体がバレたりして……秘密を共有したり! いいよね!」
興奮気味に語るまつりの話をただ聞いているしかなかった。
とりあえずまつりが心の傷も忘れて喜んでいるようなので、一路としては何よりという気分だったのだが、伊遠がもの言いたげに睨んでいたから素直に喜べなかった。
「もしかして来藤くんも好きな男の子がいるの!? 女の子!? わたしどっちでもいけるよ応援するよ!!」
なぜか恋愛の話になっていて戸惑ったりもしたが、伊遠も交えて、一路はきちんと自分の現状を説明した。
そうして――帰りが遅くなり、一路はぐったりしながら自分の部屋に辿り着いた。
「おかえりー」
と、昨夜話してからというもの、今日一日姿を見せなかった花与が普段と変わらない調子で出迎えてくれる。一路はベッドでごろごろしているその姿を見て、自分でも大袈裟だと思うため息をついた。
「はあ……」
「なんだよ人の顔見るなり」
「いろいろあったんだよ……。具体的にはハナ姉の配慮が無駄になった」
話しながらシャツを脱ぐ。花与がいることは気にならなかった。念のため学校を出る前に縛り直した胸の包帯が蒸れているし、呼吸が苦しい。とりあえずシャワーを浴びたい――
「ハナ姉は何してたのさ……」
なんとなしに訊ねれば、
「……んー、まあ……野暮用? それよりほんと、何あったの? 私の葬式の時よりぐったりしてるけど、まさか私が活動するたびに生気吸われてるとかそういう――、うっ!?」
「ん……?」
花与が変な声を上げたのでそちらを見れば、何やら口を開けたまま固まっている。それでもしきりに視線が何かを伝えようとしていて、一路は首を傾げながら、彼女の促す背後を振り返った。
「おにい、ちゃん……?」
あんぐりと口を開け、妹が固まっていた。
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