第11話 それでも答えは闇の中
狭い浴槽の中でひざを突き合わせるようにして向かい合って座っている。
その絵面だけ見れば、姉妹が仲良く一緒にお風呂に入っているように映るだろう。
しかし生憎と、身体は完全に女性のそれであるものの、
(……どうしてこうなった……)
どうしたもこうしたも、全て一路が自ら招いた失態だ。
まつりや
そして、それを――きっとここ最近様子のおかしかった兄を心配していたのだろう。妹に見られてしまった。
上半身裸でいるところを、男の身体にはあり得ない膨らみを、ばっちり目撃されてしまったのだ。胴回りがスリムなぶん、その膨らみは一目瞭然で、もはや言い訳のしようがないくらい明らかだった。
いくら小学生とはいえ、遥も一路の身体の異状くらい分かるだろう。
現に、
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんだったの……?」
愕然とした様子でそう呟いていたくらいだ。
それからなぜか、一緒にお風呂に入ることになった。弱味を握られた一路には断りづらく、せめてお風呂で弁明して口止めしようと思った。
しかしいざ実際に浴槽で向かい合っていると、なんというかこう、微妙な気分になる。
「えーっと、とりあえず……お母さんたちに言っちゃダメだからね?」
遥は聞いているのかいないのか、珍しく難しい顔をして一路を――胸の辺りを凝視していた。
そしておもむろに手を伸ばす。
「ちょっ、つっつくな!」
「おっきい声出したら、お母さんにバレるよー?」
「くっ……」
無邪気な忠告がまるで脅迫に聞こえてくる。
一路は自分の立場がどんどん弱くなっていることを自覚した。
その頃。
「ただいまー」
一路と遥の父、来藤
「おかえりなさーい」
と、キッチンから返事をするのは妻の
リビングへ向かいながら日向は首を傾げる。普段なら一路か遥のどちらか、あるいはその両方の声も聞こえてくるはずなのだが。
なんとなく不思議に思いながら覗けば、案の定リビングに二人の姿がない。部屋にでもいるのだろうと特に気にしていなかった日向だったが、
「今日は早いのね。二人なら今お風呂よー」
料理をしながら言う妻の間延びした声に、日向は普通に頷きかけて、
「ん……?」
思わず固まる。
「お風呂、だと……?」
日向は自問するように呟いていた。
「それは……あり、なのか?」
「んー?」
女の子は年頃になると父親と一緒にお風呂に入らなくなるものらしい。娘はまだ小学生なのでタイミングが合えばたまに一緒に入ることもある。一路はもう高校生だから、さすがに普段から一緒に入ることはないが、以前家族で温泉旅行に行った際には一緒に入浴したりもした。家族仲は良好といえるだろう。健全だ。
ただ、その高校生の一路が、小学生の妹と一緒に入浴するというのは――いかがなものだろう。
自分の息子を疑うつもりはないものの……。
最近、一路はちょっと様子がおかしかった。独り言が目立つし、聞けばどうやら学校から帰宅するとすぐ部屋にこもり、夕飯や入浴の時くらいしか出てこない。
だから多少の懸念がある。
「そ、そうか、お風呂か……。そうだな。それならせっかくだし、たまには俺も一緒に入るかなー?」
「あら、そう? じゃあ今日は私も――」
「ん!?」
――そうして、来藤家の浴室でそれは起こった。
「イチロー緊急事態!!」
「ちょっ……、」
突如浴室に現れた
その時、脱衣所の方から声が聞こえてきた。
「え、まさ――」
一路の頭はその瞬間、パニックに陥っていた。
一路は現在素っ裸で、手近に身体を隠すものは何もない。浴室の出入り口は一つしかなく、脱衣所へと続くスモークガラスの向こうから聞こえる声は他でもない両親のものだ。そしてそのガラス戸がなぜか今にも開かれようとしている――
どうしようもない。絶体絶命だというのが分かっていたから、動けなかったのだ。
ただ祈るしかなかった。
しかし無情にも――
その夜――来藤家のリビングでは、気まずい空気が流れていた。
気まずい、というより、押すべきか引くべきか、押される側も引く方もそれが判然としないような――如何ともし難い、戸惑いに満ちた空気だ。
その空気をぎこちないながらも破ったのは、一家の家長である来藤日向だった。
「……夢か?」
これが夢ならどれだけ良かったろうと一路は思う。
「父さんはいつから夢を見ていたんだろうな……」
父が遠い目になっているが、現実逃避したいのはこちらだ。一路はため息をこぼした。
「いつから……なの?」
と、母が現実的な質問をくれたので、一路もようやく説明できそうだった。
「ハナ姉のお葬式の日から……。朝、気付いたら」
一路が答えると、何か思い当たることでもあったのか、隣に座っていた妹が「あー」と声をもらした。
「お前、何か、その……悪魔の実でも食ったのか?」
「……そんな実は知らないよ……」
「水を被ると女の子になる、とか……」
「僕はお湯に浸かってたんだけど……」
「父さんはパンダにならなくちゃいけないな……」
「あれは遺伝的なものではないと思うけど……」
ここからが重要なのだが、そこからが一番話しづらいし、信じてもらえない内容になるものだから、一路はなかなか言い出せなかった。父の現実感が未だにふわふわしているのもその一因だ。
打ち明けなくてもいいかもしれないとも思ったが、これで病院などに連れていかれて事態がより大事になっても困る。一路は思い切って、それを告げた。
「実は……信じられないとは思うけど――僕はこれが、ハナ姉の幽霊にとり憑かれたせいじゃないかって考えてる」
ちらりと、まるでこの家族会議に参加しているかのようにお誕生日席的な位置に浮かんでいる花与を見やってから、
「お葬式の日から、ハナ姉の幽霊が視えるんだよ」
対面のソファに座る両親が、困惑したように顔を見合わせる。
「身体がこうなったその直後に現れたから……関係ないとは思えないんだよね」
息子の身体が女性化していることは、実際に目撃してしまった以上、それが現実だと理解せざるを得ないだろう。
しかし、花与の幽霊が視えるという話まではさすがに受け入れられないかもしれない。どちらもありえないこととはいえ、ありえないことが立て続けに起こったからといってその全てを呑み込めるとは限らない。
特に花与の場合、一路には視えても、両親や妹にはその姿が見えないのだ。
だから、現実的な根拠を求める。
「クイズです」
母が唐突に言った。
「昔、花与ちゃんが窓から落ちて骨折して入院した時、お母さんがお見舞いに持っていったお花はなんでしょう?」
きっと花与しか知らないだろう質問を投げかけ、その回答で花与の存在を確かめようということらしい。
一路は花与に目をやる。骨折した件はつい最近も話題に上がったからか、そう時間をかけることなく、花与は答えた。一路は戸惑いつつもそれをそのまま口にする。
「花はもらってない……って」
その回答に、父が母の顔色を窺う。妹も何か期待するような目で母を見ていた。僅かな沈黙の後、
「ぴんぽーん。お花より食べ物の方がいいかなって思ったのよね」
初っ端から引っ掛け問題だった。花与がちゃんと憶えていたことに一路はほっと胸を撫で下ろす。
――が。
「じゃあ第二問」
「第二問っ?」
「二年前の、花与ちゃんのお母さんの誕生日のことです。私は花与ちゃんから何をプレゼントしたらいいかと相談を受けました。さて、そのとき花与ちゃんが送ったお花はなんでしょうか?」
一路が花与の方を見やると、父と妹もつられるようにそちらへ顔を向けた。花与は腕組みして頭を捻っている。
さすがに二年前だ、すぐには思い出せないのだろう。しかしわざわざ『二年前』と言うからには、何か特別なことがあったはずだ。そして、プレゼントはたぶん花ではない。しかしあるいは、今度こそ本当に花だったりするのかもしれない。一路には分からない。
(まあ僕が考えても仕方ないか……)
花与の答えを待つ。
「高校生になったから何かいい物あげたいって思って……えっと……少なくとも花は送ってない……。あ、そうだ。鞄だ。普通にハンドバッグあげたんだ」
わざわざ問題に出すくらいだから何か変わったものを上げたという先入観でもあったのだろう。一路は花与のその答えを伝える――
「…………」
母が真面目な顔をする。微妙な沈黙が流れた。
「――……正解」
嫌な間を空けないでほしかった。
「ということは……?」
父が再び母の顔色を窺うと、母は深く頷いた。どうやら花与の存在を認めてくれるらしい。
父は花与のいる方を、そしてその向こう、花与の実家の方を見やってから、
「そ、そうか……。じゃあ、その、なんだ……? 一路、お前、花与ちゃんに何か恨まれることでもしたのか?」
不思議とその発想はなかった。自分が恨むならともかく、花与に恨まれる覚えなど皆無だった。試しに花与に訊いてみるが――まあ、返ってきたのは下らない答えばかりなので一路は割愛することにした。
「一応、僕が考えてるのは――」
花与はなんらかの未練から成仏することが出来ず、この身体の異変はその未練を解消するために起こったのではないか。
根拠はないが、花与とこの異変が無関係だとは思えない。
そのため、とりあえず一路は花与のこの世への未練について調べている。未練については――花与にも自覚がないため分からない、と説明することにしておいた。
状況を聞いた両親は、何かあれば協力すると言ってくれた。なんならしばらく学校を休んでもいい、と。学校に関しては甘えたい気持ちもあったが、ようやくまつりとも和解できたし、クラスの空気を改善する糸口も見えてきたところで、ここで逃げるのは躊躇われた。たとえ自分に出来ることが何もないとしても、この問題には多少なりとも責任を感じている。
花与の未練については未だ判然としないし、こちらは解決の糸口さえ見つかっていないものの――抱えていた秘密を家族に打ち明けられたことは、ほんの僅かだけれど、前進に繋がるような気がした。
――その夜。
「とはいえ、ちょっと大ごとになっちゃった感もある……」
「だよねー……」
明かりを消した自室のどこからか花与の声が聞こえてくるが、ベッドの上で寝る態勢になっている一路にはそちらを振り返ることも億劫だった。
なんだか今日はとっても疲れている。
普段はお風呂でゆっくりするのだが、その入浴タイムも妹と過ごし、直後のあれである。一通り話し合った後に夕飯を食べながらこれまでの苦労話を愚痴のように語った。心はすっきりしたものの、思い出すたびにその時々の疲れが蘇るような気分だった。
(だから大人はお酒飲みながら愚痴るんだな……)
そんなことを漠然と思う。
それから。
「…………」
打ち明けたことで家の中では過ごしやすくなったものの――
冗談で言ったのだろうが、母の「孫の顔が見れなくなるわね……」という言葉が、やけに頭に残っている。
(考えもしなかったけど――このままだったらどうしよう……)
もしも、ずっと、一生、解決しなかったら。
孫の顔は、たぶん見せられると思う。恐らく身体は正真正銘女性のものになっているはずだから、子供は出来るだろう。
その気になれば、だが。
その気というのはつまり、女性として生きていく覚悟を決める、ということだ。
なんとなくだが、LGBTと呼ばれる人たちの気持ちが分かるような気がする。
心と身体の性別が合わない。まさしく今の一路の状態そのものだ。
こういうことを考えていると、今日知り合った
(う……)
なんか、好かれている。明らかにナンパされていたように思うが、自意識過剰だと思い込みたかった。
気持ち悪い、というのは相手にも失礼だし、この心の内を表すのに適切な言葉ではないだろう。
(……なんというか……受け付けないっていうか……)
違う、と感じる。少なくとも一路にとって彼は〝同性〟で、恋愛対象ではない。
……そう思いたい。
(これからどうなるんだろう――)
不安が心を覆う。寝返りを打ってみれば、花与の姿が見当たらなかった。
「……夜遊びですかいいですねハナ姉は」
――部屋に戻る間際、母が言っていた。
花与が成仏できないのは未練があるかもしれないが――……一路が、花与ちゃんに消えてほしくないって思ってるんじゃないのかしら。
どうなのだろう。
……答えは見えない。
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