第1話 彼女を送る朝に




 ことの始まりは、あの日の放課後だったと思う――


 友達と少し遊んで遅くなった帰り道、自宅のある住宅街へ向かう途中でばったりと出くわしたのだ。


「はっ、ハナ姉……っ」


「なぜに身構える……?」


 つい身構えてしまったのは条件反射というやつだ。


 別に遭遇した相手は人相の凶悪な不審者でもなければ、山から人里に降りてきた獣の類でもない。

 ただの女子高生だ。

 それも知らない相手ではない。


 来藤くどう一路いちろが角を折れてばったり顔をあわせたのは、近所に住む幼馴染みだった。


 赤みがかった髪をショートにしたボーイッシュな印象を受ける顔立ち。一方で、二つ年上にもかかわらず可憐な少女の面影が色濃く、髪でも伸ばせば年相応に女の子らしくなるように思う。

 背丈は最近になってようやく一路の方が高くなってきたが、なぜだか未だに頭が上がらない。


「イチローはいま帰り?」


「……そ、そうだけど……?」


「なぜに距離をとる……」


 それとなく迂回しようとしたら睨まれた。


 なんとなく不機嫌そうに見えたのだ。この幼馴染みは昔からすぐに手が出るから、少しでもその予兆があれば避難しようとするのは一路に染みついた防衛本能のようなものだ。


 一路は小柄な体格で気も小さく、おまけに女の子みたいな顔立ちのせいでいじめられてきた過去がある。

 そんな一路にとってこの幼馴染みはヒーローのようでもあったが、同時にこちらの都合など一切構わずひとを連れ回す暴君でもあった。実際気に喰わないことがあると手が出るのだから、〝暴君〟という表現は我ながら適切だと一路は思うものの、思うだけで決して口にはしない。


 しかし、いつまでも怯えてばかりではいられない。一路も高校生だ。幼馴染みを睨み返し、堂々と横を抜ける。


「じゃ、じゃあ、僕は帰るから」

「あ、うん」

「……?」


 なんだか妙にあっさり抜けられたことに違和感を覚えつつも、内心ひどく緊張していたものだから横を抜けると知らず早足になっていた。

 自宅が見えてくるとなりふり構わず駆け込んで、閉じたドアに背中を預けたらどっと汗が噴き出してくる。


「いや、なにビビってんだか……」


 足から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。

 恐れている、というのとは少し違う。そういう感情ではない。


 この心の内を表現する言葉を探すなら――気まずい、か。


(こんなに口きいたの、どれくらいぶりかな……)


 家が近所だし今年からは同じ高校に通っているからすれ違ったりすることはあっても、一路はなるべく彼女と出くわさないよう努めてきた。さっきは唐突だったから思わず反応してしまったが、もう一年近く彼女とはまともに顔をあわせていないし、当然口もきいていない。


(……ハナ姉が真面目に謝ってくるまでは……まあ、そんなの想像できないけど)


 ふと思うのは、いざ真面目に謝られたとして、自分は以前のような態度で幼馴染みと付き合うことが出来るのか、ということだ。

 そういうのもあって、会うのはなんだか気まずかった。


(自分で言うのもあれだけど、身体は多少大きくなっても気は小さいままだな……)


 ため息を一つ。いつまでもこうしていられないからと腰を上げれば、


「一路? 帰ったのっ?」


 母親が慌てた様子でやってくる。


「ただいま……」

「大変なの、花与はなよちゃんがっ」

「ハナ姉……? さっき――、」


 会ったけど。


「事故に遭って、病院に運ばれたって……!」




 あれがなんだったのかは分からない。

 母・はじめの話を聞く限りだと、あの時間、未田いまだ花与は救急車で搬送されていたはずで、だからつまり、あの場所で一路と出くわすことなんてなかったわけで。


 一年近くぶりに言葉を交わせるわけもなくて。

 最期にちゃんと顔をあわせて話す奇跡なんて、起こるはずもないわけで。


 唐突すぎて、そしてその直前に起こった〝起こりえないはずの出来事〟もあって訳が分からなくて。

 その現実を受け入れられないまま、一路は彼女との別れの日を迎えることになった。




 なんでも――なくない朝を迎える。


 混乱が収まると頭の中が空っぽになって、何もかもが手につかず、ほとんど上の空で気付いたら一日が終わっているという有様だった。

 妙に気怠い身体を引きずって登校すると友人からは「お前はゾンビかよ」と言われる始末で、情けないことに娘を亡くしたばかりの幼馴染みの両親にさえ心配をかけたようだった。


 このままではいけないと感じつつもまだ意識を切り替えることが出来なくて、不謹慎かもしれないが、この日が――未田花与の葬式が、新たなスタートを切るきっかけになればいいと心のどこかで漠然と思っていた。


 もやがかったようにぼんやりした頭のまま機械的に習慣を消化する。部屋を出て、洗面所で顔を洗って、トイレで、


「……は?」


 そこにあるべきはずのものがないことに気が付いて、思考が止まった。


 動き出した、ともいえるかもしれない。


 一路の視線はしばらく〝そこ〟に固定されていて、目を疑うとか見たものを信じられないという以前に、何も考えられない空白の時間が続いた。

 遠ざけていた現実がゆっくりと、心へ染み込んでいく。


「……………………」


 コンコンと背後からノックの音。


「おにいちゃーん、まーだー?」


 小学生の妹の声にハッと我に返った。


「!」


「わっ、」


 慌ててトイレを飛び出して階段を駆け上がり自室に入ってドアに鍵をかけた。

 そしてズボンの前を引っ張って〝中〟を再確認する。


 夢なら覚めてほしい……のかどうかもよく分からない。


「これは……、」


 顔を俯けたことで新たな違和感に気付く。

 何かこう、シャツが盛り上がっているような……何かが胸のあたりをシャツの中から押し上げているような……。


「し、深呼吸しよう」


 意識を切り替えるようにそう声に出してから、片手を胸の真ん中に押し当てた。


(す、凄まじい違和感……! なんだこの弾力は……!?)


 普段ならそう厚くない胸板の硬さを感じるはずなのに、なぜかクッションめいた弾力があって、それは適度に柔らかく、胸に押し当てた手の平が不自然な谷間をとらえるくらいに明らかな異物が存在していた。


「これはまさか、いわゆる〝おぱーい〟というやつなのでは……いやまさか、そんな……ねえ?」


 鏡の代わりになるものを探して室内に視線を巡らせ、その向こうに幼馴染みの部屋を望める窓へ近づいて、


「部屋でこそこそ自分の胸を揉んだりして……」


 ――今度こそ目を疑った。



「イチロー……何してんの?」



 窓の外に、死んだはずの少女が浮かんでいた。



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