第5話 手の平に収まるだけの罪




 ――は重い。


 生命が重いというのは今更いうようなことでもないが、〝死の重さ〟は経験したり関わるようなことがなければなかなか実感することが出来ないものだろう。


 ひとは――友人など、学校・社会といった関係を持ち、車や家といった財産を持ち、恋人や子供、あるいは孫といった家族を持つ。


 故人は命を落とせばそれらを失うが、個人の死後もそれらは残るのだ。


 会社であれば故人の欠けた穴を埋めるために人材を補充する必要が出るだろう。

 故人の借金に苦しんだり、財産を巡って親族間で争われる展開はドラマの定番だ。

 そして残された家族は悲しみ――いや、悲しみ気持ちを整理する余裕もないほどに、様々な対応に追われることとなる。


 状況にもよるが、まずは葬儀だ。

 葬儀社や故人の関係者への連絡、そうしながら並行して公的な機関への死亡届や保険関係の手続き、親族間で遺産分配や遺品の整理など話し合うこともあるだろう。

 動くのは親族だけではない。大きな葬儀であれば葬儀社も会場の確保をしなければならないし、関係者によっては献花や電報等の手配をする必要も出てくる。そうでなくても、葬式のために予定を空けなければならない。


 警察が出てくることもあるだろう。無縁仏でも、それを供養する寺が要る。


 孤独死という言葉もあるが、たとえ一人で死んだとしても、それが自殺であったとしても、個人の死にはそうやって多くの人が関わることになるのだ。


 死は重い。


 昨今では葬儀も簡易的に済まされることが多いものの――古くからのそうした慣例をきちんとこなそうと思えば、時間も手間も費用もかかる。


 自然界に生きる動植物が息絶えれば、葬儀など無論おこなわれることはなく、それこそ自然に、他の生き物の糧となったり、土に帰り新たな命の糧となる――そう考えれば人間の葬儀は無駄ばかりだ。

 ただ、きちんとした葬式を行えば、これまで疎遠だった親族同士が再会したり、故人を通して新たな付き合いが生まれることもあるだろう。

 そうして社会・経済が回るのだ。


 何より――悲しみを清算し、その死を通して今の自分の〝これから〟と向き合うきっかけとなる。それはいつか、生産的な未来へつながるはずだ。


 死は重く、心にのしかかり、小さくても波紋を残す。


 どんなにつらいことがあったとしても、迂闊には死ねないと――あの日、来藤一路は思ったのだ。

 ただ誰かを悲しませるだけの死なんて、ご免だと。


 未練というならそれは、死者よりも――遺されたものたちにこそ、重く圧し掛かると知ったから。




「……うあ……?」


 目を覚ました一路いちろは、自分がベッドに寝かされていると気付いた。

 前後の記憶が判然とせず、ぱちぱちと目を瞬かせていれば、


「ようやくお目覚めですかっ! イチローくん!」


 がばっと花与はなよが眼前に身を乗り出してくるも、それが気にならないくらい、何か、重大な過失を犯したような気がしていた。


「もう、あんまり心配させないでよねー。死んじゃったかと思ったじゃん」


 軽い調子で言ってくれるが、


「……そう易々と死んでられないよ」


 たとえ不慮の事故に遭ったとしても、迂闊には死ねない。一言にまとめれば〝他人の迷惑になる〟からだが、迷惑になるだけの死はご免だ。

 どうせいずれ死ぬのなら、意味のある、誰の未練も残らない最期を迎えたい。


(誰かさんみたいに、ひとを悩ませたくはないし)


 今死ねば、きっと周囲の人たちの心に悲しみ以外の何かを残してしまう。花与の一件があって落ち込んでいた一路の姿は予期せぬ波紋を生んでいた。今朝など、普段話すこともないクラスメイトから心配されたくらいだ。思い悩んでいたのに気付いてあげられなかった……みたいな良心の呵責を、彼女たちには味わってほしくない。


(今朝……?)


 漠然とそんな言葉が浮かんだが、はて、今はいったい……?


「そろそろお昼だよ。イチロー、ずっと寝てたんだからね?」


 たしかに昨日は「明日学校だどうしよう」と思い悩んで寝付けなかったが……まさか授業中に居眠りして、おまけに誰かが気を利かせて保健室に運んでくれたのか?


「痛っ、」


 ベッドから身を起こそうとすると、後頭部が鈍い痛みを発した。触ってたしかめてみると、小さなこぶが出来ているようだ。


「……僕の身にいったい何が……。これ以上面倒なことはご勘弁願いたいんだけど」


「うーん……忘れてるなら、思い出さない方がイチローの精神衛生上よろしいかもしれないとお姉ちゃんは言っておくね」


「…………、」


 後頭部のこぶの硬い感触と痛みが、手の平に柔らかな感触を蘇らせる。


「あ――、」


 そして一路は思い出した。




 ――要約すると、当たって砕けろ、と花与は言った。


「お姉ちゃんの秘策、それは……身体は女の子でもガールズトークの出来ないイチローに代わって、むこうが何か言ってきたらお姉ちゃんがそれに返事する、というものです」


「……見えない聞こえない幽霊なのをいいことに、僕に耳打ちアドバイスしてくれるってこと?」


「yes! そゆこと」


 ぐっと親指を立てる花与。朝の教室の中心でこうも騒いでいれば人目につくはずだが、そこは幽霊、いくらハイテンションで喚き散らそうと、誰も見向きさえしない。


 一方、生きた人間である一路は周囲の目を気にして受け答えに注意しながら、


「でもそれって、僕がちゃんと会話できたらの話だよね。話す以前に口ごもってうまく喋れなかったら?」


「そこは自信もとうよ! さっきは普通に喋れてたじゃん」


「というか、ハナ姉の秘策ってさっき話してたまんまじゃないか。まあ、さっきよりはマシっていうか、アリかなぁって思わなくもないけど」


「じゃあ早速!」


「でも……」


「あぁもう! 動かなくちゃ始まんないんだよ!?」


 花与らしい思考だが――ふと思う。


「……自分はどうなのさ」


「はい?」


「ハナ姉は、自分が好きな人にもそうやって粉砕覚悟で突っ込める?」


 顔を上げ、中空に浮かぶ花与の反応を窺う。花与はこちらの意図が読めていないのか、きょとんと小首をかしげていた。


「うーん……その時になってみないと?」


 少しの間をはさんでから出てきた答えは、ひとにアドリブを提案する花与らしいものだった。


(……ハナ姉らしいというか、本気で考えてそう)


 長年の付き合いだから分かる。この反応は、これまで特にそうした経験をしていないということだ。つまり〝その時〟になったことがない。


(僕の思い過ごしだったのか……。でもそうなると……)


 彼女の未練はやはり、一路のことが心配だから……ということになるのだろうか。


「…………、」


 まだ、自分の心は決まらないけれども。


「……分かったよ。当たって砕ける覚悟で、とりあえず声だけでもかけてみる」


 大事なのは結果じゃない。こうして勇気をもって前進することだ。一路のそんな成長を見届ければ、花与もきっと安心して成仏できることだろう――


「でもちゃんとサポートしてよ!?」


 しかしむざむざ砕け散ることだけは避けたかった。


 そうして――勇気を振り絞って、絞り抜いて、最後の一滴まで絞り切った一路は、思い切って多牧たまきまつりへ声をかけたのだ。


「た、多牧さん」


 まつりは黒板前で日直の名前を書きかえているところだった。どうやら今日の当番は彼女らしい。

 振り返ったまつりの短い髪が揺れる。さらりと指通りのよさそうな黒髪は肩のあたりで切り揃えており、それが彼女の子供っぽい印象を深めていた。

 小柄な体格に相応しくさえ感じる童顔が一路の方に向く。眠たげに見える垂れ目が彼女の表情を柔和なものにしていた。


「? 何? どうかした、来藤くどうくん」


「え、えっと……、」


 ――緊張がピークに達したせいか、あるいは夢うつつだったのか、それからの記憶は曖昧で、自分が何を言ったのかもロクに憶えていない。

 花与が耳元でささやいた言葉をそのまま口に出し、それで会話がうまく成立したようにも、途中から脱線したようにも思える。


 ただ――


「ええいまどろっこしいなぁ!」


「うわっ、」


 突然後ろから花与に突き飛ばされ、一路はよろめき膝が折れ、思わず伸ばした手が黒板に突けばよかったのだが――


(この、手のひらに伝わる今やおなじみとなった柔らかな感覚はいったい……)


 伸ばした手はあろうことかまつりの小さなふくらみを鷲掴みにしていたのだ。

 慌てて引っ込めても、時すでに遅く、


「うわぁああああああーん……!」


 膝からくずおれ、座り込んだまつりが子供のような大声で泣き出すと、教室中の視線が何事かとこちらに集中するのが分かった。そして、一路はパニックになりながらもなんとか弁明しようと彼女に近付いたのだ。


「こないで変態!」


「ちょっ、」


 突然まつりの小さな手が一路の顔面に襲い掛かってきた。

 そしてものすごい力で突き飛ばされ――




「後ろにあった机に頭ぶつけて、そのまま気絶しちゃったんだよ」


「…………、」


「もう、どがっしゃーんってすごい音がして、しかも突き飛ばされた時、顔やられてたから首とか変な角度に曲がっててさ、鼻血もどばどば出てたし。とりあえず保健室にってことになったけど、先生はあとで病院で診てもらった方がいいとか話してたよ? いやぁ、マジで死んだかと思ったよ」


「……誰のせいだと思ってるんだよ……」


「わ、私は壁ドンみたいになればって思ったんだけどね? 失敗しちゃった☆」


「失敗しちゃった☆ ――じゃないよ! なんてことしてくれたんだよ!」


 思わず怒鳴ってから、カーテンに仕切られた向こう側に人の気配を感じて心臓が止まりそうになった。


「来藤くん? 目が覚めたの?」


 養護教諭の声だ。一路はふと自分の現状を思い出し、とっさに身体を確認した。

 そして愕然とした。


(着替えてる……!?)


 制服を着ていたはずが、いつの間にかシャツを脱がされ、Tシャツとジャージの上着という格好になっている。Tシャツはもともと制服のシャツの下から着ていたものだからいいとしても……。


(さっきハナ姉が、鼻血がどうとか……。それで服が汚れて……?)


 これは由々しき事態だ。誰かに着替えてもらったということは、その誰かは一路の身体の秘密に気付いたかもしれない。

 しかし動揺を収める余裕も与えられないまま、カーテンが開かれ、養護教諭が姿を現す。


 こちらを心配する先生に受け答えしながら、一路は視線で花与に説明を求めた。

 

「保健室に運んだ時は男子が二人がかりで、たぶん気付かれてないと思うけど……」


 保健室の先生の視線が、こころなしか自分の胸元を行き来しているような気がしてならない。


「着替えは保健の先生がやって……Tシャツはそんなに汚れてなかったから脱がされてないし……。でもちょっと胸がふくらんでいたのが気付かれたかも……、」


 胸を触った罪は胸で裁かれるのかと一路は慄然とする。


(この場合どうなるんだ!? 僕は男の格好して学校に通ってる女子みたいな扱いを受けるのか? 何か怒られる? いやそれ以前に、学校から家に連絡が……?)


 身体が女体化していることで具体的に何がどうなるかは想像つかないが、とにかくこれまでの人生から激変するだろうと思った。


(……あ。でも、これを機に先生に相談できるかも……やっぱそういうことは保健の先生が一番……)


 そんな希望と不安とがないまぜとなって、もうどうにでもなれという当たって砕けろ精神、あるいは投げやりな思いで顔を上げると、ちょうど先生が口を開くところだった。



「来藤くんはちょっと運動した方がいいんじゃないかしら」



(ただの脂肪だと思われたー! まあそれが当然の反応だけど! だけども!)


「?」


 ひとり一喜一憂する一路を見て、保健室の先生は不思議そうに首をかしげた。




 ――とはいえ。


「……僕の学園生活じんせいはもうおしまいだ……」


 身体の秘密こそ露見しなかったものの、やらかしてしまった事実は消えない。たとえそれが不慮の事故だったとしても、保健室から戻る途中に立ち寄った職員室で担任教師に注意を受け、教室へ向かう道中にもすれ違う生徒たちから好奇の眼差しを向けられた。


 どうやら、今朝の一件は噂になっているらしい。

 ……死にたい気分だった。


 教室へ帰ることが躊躇われたが、すぐに午後の授業が始まってしまうし、まつりと話して誤解を解かなければ――許しをもらわなければ、一路はこのさき不登校になるかもしれない。


(それもいいかも……)


 と思いかけて、いやいやと首を振る。


(それじゃあいつまで経ってもハナ姉だって安心できない。それに、引きこもってもどうせハナ姉がいて自由に生活できないんだ)


 頑張らないと。竦む足に気合を入れて、一歩踏み出す。


(大丈夫。多牧さんならきっと、何かの間違いだって、単なる事故だって許してくれる。ちゃんと話して、謝りさえすれば……)


 昼休みも終わりに近づき、辿り着いた教室にはクラスメイトがほとんど揃っていた。

 一路が教室に足を踏み入れると、それに気づいた誰かが隣の誰かに耳打ちし、あっという間に一路の帰還は教室全体に知れ渡る。誰もがこちらを振り返り、その――冷え冷えとした視線を向けていた。


(あ、あれ……? こころなしか、体感温度が低いんだけど……)


 特に女子の視線がつららのようだ。

 しかも、それだけじゃない。

 男子たちでさえ、一路を見る目に変化があった。

 一路が戸惑っていると、ある男子が目の前にやってきた。


「来藤……お前に言っておくことがある」


「な、なに……?」


 真剣な眼差しに気圧され、一路は思わず一歩後ずさっていた。



「お前がさわったものは小さくてもな! お前の犯した罪は大きいんだよ!」



 これが俺たち男子の総意だ破廉恥野郎! うらやましいとか思わないぞこの性犯罪者め!


「…………、」


 心のどこかで彼らは無条件に味方してくれると思っていた。

 しかし今やクラスの男子の大半が一路に牙を剥く。女子たちは冷たく、そして今の発言はセクハラだと、男子たちに対する抗議を始めた。教室は混沌としていった。


 そして。


「多牧さ……、」


 多牧まつりは一瞥こそ寄越してくれたが、一路は以降ツンとした横顔しか拝むことを許されなかった。それを恐可愛こわかわいいと思ってしまうあたり、自分はマゾなのかもしれないと一路は思った。


 ――そのまま、最悪の空気が払拭されないまま午後の授業を迎えようとした時、


「……来藤くん」


 と、自分の席に腰掛け鬱屈としていた一路に、消え入りそうな声がかかった。

 背後、後ろの席からだ。


「……大丈夫、だから。わたし、知ってるから」


「え……?」


 今のは――


 振り返ろうとすると、勢いよく教室の扉が開き、一路の視線は思わずそちらに向いてしまう。やってきたのは教師で、そのまま授業が始まった。


昏石くらいし……さん?)


 ――いったい、彼女はどういうつもりで、そんなことを。


 疑問を覚えつつもそれは結局解消されないまま、一路は放課後を迎えた。



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