第18話 最後に、嘘




 ほんの少しのあいだだけ――放課後の教室で、一路いちろはまつりと二人きりになった。


 終始にこにこ……というよりにやにやに近い笑みを浮かべているまつりはまるで、何かいたずらを考えている子供のようで可愛らしかったが、いったい何を企んでいるのだろうと不安にもなる。


 思えば、不思議なものだ。


(これまで……ほんっと、まったく関わりがなくて、つい最近なんて冷たくされて……)


 今がこれなもんだから、人生というのは何があるか分からない。


 一路にとってまつりは、好きな人というよりは〝気になる人〟……うまく言い表せない感情を抱かせる相手だった。

 知り合ったきっかけはなんてことのない、もしかするとまつりもロクに憶えていないかもしれないような、些細なものだ。


 高校生になって、中学からの知り合いもほとんどいないというか、いたとしても他の友人たちと一緒になっていて一路には構いもしないような――まだまだ全然、うまく馴染めていなかった、そんな時期。

 教室を移動しようとしていたのだったか。一路がうっかり落とした消しゴムに気付き、近くにいたまつりが何気なく拾って渡してくれたのだ。


『あ、ありがとう……、えっと――』


 思い返せば、お礼を口に出来ただけでも、当時の自分はじゅうぶん偉かったと思う。


『わたし、多牧たまきまつり。よろしくね』


『あ、うん……僕は――』


 それがきっかけで、お互いの名前を知った。

 そういえばその時、まつりは一路の名前を聞いて何か気になったかのように、しばらくきょとんと一路を見つめていたのだ。


 その表情に――見つめられて、不意を衝かれたというか、不覚をとったというか。


(高校生になって、僕にもなんか起こるのではと……)


 期待したりもしたのだが、つい最近まで特に何事もなく――平穏無事に、クラスメイトとも打ち解けたり敵視されたり、いろいろあった。


 そうして今、これである。


(まあ、多牧さんの中で僕は完全に〝女の子〟みたいだけど……)


 この心境を一言で表すなら、「とほほ……」という感じ。


(はあ……)


 内心ため息をついていると――教室に伊遠いおんと、花与はなよがやってきた。


「あれ……? 昏石くらいしさん?」


「あ、僕が呼んだんだ……。ほら、あれだから」


「あれ……? あぁ、あれね……!」


 適当に言ったのだが、何か伝わったのかうんうん頷いてくれる。


 まつりからは特に何も聞かされていないが、今日のこの〝集まり〟は学園祭の劇の件だろうことは想像に難くない。

 そして、一路が呼ばれたのは、一路の身体にある秘密が関係しているだろうことも。

 伊遠もまたその秘密を知っていることはまつりにも伝わっているので、何かしら納得してくれたのだろう。


「こ、こんにちは……」


 と、緊張している様子の伊遠――どこに例の人物がいるのかと、一目見れば他に誰もいないと分かる教室に視線を走らせるくらいには緊張している彼女と打って変わって、


(なんか、またにやにやしてるな……)


 その後ろから現れた花与は一路を見てにやにやと、まるでいたずらっ子めいた笑みを浮かべている。

 何か言ってやりたいし、伊遠にも確認したいことがあったが、花与の存在を知らないまつりの前でそれを口にするのは躊躇われる。


 花与のそれは単純に一路がまつりと二人きりだったことを揶揄しているのかもしれないし――あるいは、ようやく捜していた人物に会えることが楽しみで仕方ないのかもしれない。


(もしかしたら、今朝からぜんぶ知ってたのかもだけど……)


 一路はまじまじと伊遠を見つめる。


「昏石さん……」


「え? あ、はい……?」


「あれ……だよね?」


 もしかすると昨日の時点でもう、伊遠が花与に全て話していたのではないか。


「あ、あれですね! はい、ちゃんと説明しました……」


 ……だとしたら、花与に対して「ショックを受けるかも」などと変に気遣っていたことが知られている訳で……今朝のあの「にやにや」にも納得がいき、とてもじゃないが気恥ずかしくて花与を直視できない。


(まあ……とにかく。今日ここに飛張とばりくんが来るってことは、ハナ姉も了解済みって訳だ……)


 あとは、その時を待つのみ――


 と。


(来たのでは……!)


 廊下から足音が聞こえてきて、一路の心臓は緊張に激しく脈打ち始める。


 教室に、入ってくる――


「……!」


 花与が声にならない声を上げた。

 現れたのだ。


「ま、まさか一路のクラスのあのクール系美人さんがヒメちゃんだったの……!?」


「ちっ、違います違います……っ」


 クール系美人かと言われれば見た目は確かにそうかもしれないが、彼女が常に浮かべている何か悪だくみしていそうな笑みが、最近の一路に余計な偏見を与えていた。


「そういえば下の名前きいてなかった……まさかこれが伏線だったなんて……!」


「この人はうちのクラスの委員長で……ヒメちゃんさんは隣のクラスの――」


 ……伊遠には申し訳なかったが、というかむしろこの局面でフォローできる彼女に驚かされたが、一路は拍子抜けしすぎて頭が真っ白になっていて何も言えなかった。


(いや、まあ、来るってのは聞いてたんだけど……それで多牧さんと待ってたんだし)


 現れたのは、冴枝さえださんだった。

 紛らわしすぎて文句の一つでも言いたかったが、冴枝さんにはなんの非もない。


「……昏石さんどうしちゃったの……?」


「あ、うん、気にしないで……冴枝さんに驚いただけだから、うん」


「心外だね?」


 顔を真っ赤にして今にも消えてしまいそうなほど小さくなる伊遠にはほんとに申し訳ないことをしたと思う。

 しかし、そちらをフォローする間は与えられなかった。



「ごめん、お待たせー」



 唐突だった。



「――――」



 冴枝の後に続いて、ごく自然に。

 隣のクラス、という垣根もあっさりと乗り越えて。


 彼女が、姿を現したのだ。


 緊張から弛緩し、また緊張に襲われた一路も、

 恥ずかしさから泣き出しそうになっていた伊遠も。


 ただ、その一瞬に呼吸を止めた。

 息が出来なくなるくらい――他からすればなんでもないその瞬間が、特別だったのだ。


 永遠にも思えるような、その邂逅は――



「さぷらーいず!」



 と。


「じゃじゃん!」


 ……と。


「……うん?」


 声を上げ、両手を広げて満面の笑みを浮かべる多牧まつりを、その場の全員が黙って見つめていた。


 沈黙する他なかった。

 声も出なかった。

 突然だったのだ。

 訳が分からなかったのだ。


「あれ……?」


 笑顔のまま不思議そうに首をかしげるまつりである。


「えーっと……」


 と、その沈黙を破ったのは冴枝さんだ。


「多牧さん? 急に……どうしたのかな?」


 さすがの冴枝さんも戸惑った様子だったが、その場の全員の気持ちを的確に代弁してくれた。


「えっと、驚かない?」


「驚いたよ、多牧さんにね?」


「…………」


 まつりが一路に顔を向ける。目が合う。しかし気持ちは伝わらない。

 それからまつりの視線は飛張の方に向き、


「ほらとばりん! 〝イチローくん〟だよ?」


「うん……?」


 きょとんとする飛張である。こちらにもその意図は伝わっていないようだ。


「ほらっ、運命の再会! あっ、もしかして気付いてない?」


「いや、まあ……」


 飛張がこちらを見る。お互いに顔を見合わせるが、なんとも言えない。


「昨日会ったし。……ねえ?」


 水を向けられ、一路は「そうだね」と頷くことしかできない。

 まだちょっと、理解が追い付いていない。


「え……?」


「昨日の打ち合わせの時、ボクもあの場にいたからね。……もしかして、聞いてない? まあ言うほどのことでもないけど……」


「…………」


 まつりが崩れ落ちるように座り込む。

 うぅううう……、と。いつか聞いたようなうめき声が上がった。


「わたしこれ、恥ずかしいやつ……」


 膝に顔をうずめた彼女は、耳まで真っ赤になっていた。


「……まつりちゃん、どうしちゃったの?」


 なんて、花与までが首をかしげる始末。


「急に喜んだり、落ち込んだり……」

「言わないであげて、可哀想だから……」


 言いながらも、そんな姿も可愛いと思う一路である。


「多牧さん? ちょっと説明してもらえると我々も助かるんだがね?」


 そういうことを聞けるのはきっと、この場では冴枝さんくらいだったろう。

 彼女の質問に、しばらくうめき声をあげていたまつりだったが、やがてぽつぽつと語り出した。


「ほら……とばりん、あれ……むかし言ってたじゃない……」


 静まり返った教室に、まつりの泣きそうな声だけが響く。


「中学の時……とばりん転校してきて、割とすぐだったかなぁ……。わたしに訊いたでしょ……? 『イチローって子、知らない?』って――」


「そういえば、きいたことあったね……」


 飛張がちらりとこちらを見るが、一路にはとてもじゃないがそちらを気にしている心の余裕はなかった。


 思いがけず――


「わたしもね、忘れてたんだけど……。高校生なって、来藤くどうくんと同じクラスなってね、名前聞いて――あっ、もしかしてって、思ったの。ふと思い出したんだけど……でも、とばりんから聞いてたイメージと違ってたから」


 気になってはいても、特に報告はしなかった。

 ただ、気になり続けてはいた。

 それもいつの間にか忘れていたけれど――気になっていたから、一路の〝変化〟にも最初に気が付いた。


「変だなって――」


 思い出すのは、花与の葬式が終わって、初の登校日。

 女体化した身体を周囲に気付かれまいと気を張っていた一路に、不意に声をかけてきた冴枝さん。

 あのとき彼女は確か、こう言っていなかったか。

 まつりが気にしていた、と。


(あっ、ちょっ、待っ――)


 この流れだとうっかりあの〝秘密〟を口走ってしまうのではないか――そう焦る一路だったが、まつりは寸前で言葉をにごしてくれた。


「えっと、それでね、昨日……来藤くんからもね、『ヒメって女の子を知らないか』って訊かれて――今度こそ、『もしかして』って思ったん、だよぉ……。すぐには思い出せなかったんだけどね……」


 こうなるんなら思い出さなければ良かったんだけどね――


「とばりんの言ってた『イチローくん』は、やっぱり来藤くんだったんだ、て――そう思って、さぁ……運命だって、さあ……思ったんだよぉ……」


 最後の方はもう泣き声にうずもれてしまって、何を言っているか聞き取れなかったけれど――


 図らずも、彼女が全てを繋いでくれた。


「でもさ、」


 と、飛張が口を開く。



「ボク、言わなかったっけ……? そのイチローくんは男の子っぽかったけど、もしかしたら――女の子だったかもしれない、て」



 ――――――――、



「だからね……! そこなんだよぉ……! ……! それでわたし――」


「多牧さんストップ! はいこの話ここで終わり! もう終わり! 解散しよ!!」


「……そうだね、もう終わろ。解散、解散……」


「いやいやいや、今日は劇の話をしにきたのでは? というか来藤くん? 何か訳アリなのかなその反応――」


 思わぬ展開に一路が気が気でなくなる中――視界の端で、花与が何やら必死に身振り手振りで伊遠に訴えているが、残念ながら伊遠も状況についていけていないようで、加えていえば花与に伊遠はさわれない。


 そのためか、


「っ」


 ぐしぐし、と。

 こちらにやってきた花与が何か言いたそうな顔をしながら、興奮したような――照れ隠しのような暴力を振るってくる。


 言いたいことはなんとなく分かるし、それを代弁するのが一路の役目なのだが――


「一つ……」


 消え入りそうな声で、伊遠が先に口を開いた。

 その場の全員の視線が彼女に集まり、気圧されたように伊遠が一歩後ずさる。


 それでも、彼女は先を続けた。


「あの……飛張さんに、聞きたいんですけど――」


「ボク……?」


「飛張さんは、その……『イチロー』という人を、さがしてたんですか……?」


「まあ……、うん。この際だから言うけど――昔ね、ちょっとの間だけだけど、一緒に遊んだ子がいて。家の事情でボクが引っ越してから、それっきりだったんだけどさ……」


 飛張は少し気恥ずかしそうに頬をかきながら、


「またこの街に戻ってきて、会いたいなって思ってたんだけどさ。まあ、そうそう見つかる訳もなく……まつりちゃんとか、いろいろ人に聞いてみたりしてたんだけど」


 それから、彼女は一路に目を向けて、


「この前さ、体育の時……偶然、イチローくん――ややこしいから、来藤くんとしておくけど――来藤くんを見つけて、〝もしかして〟って思ったんだよね」


「……僕が、その『イチローくん』だと……?」


「うん……。なんというか、雰囲気――うまく言えないんだけど、こう、ピンと来るものがあった。誰かが名前で呼んでるのがたまたま聞こえたのかもしれないけどさ……」


 まあ、違うんでしょ? と飛張は笑う。

 少し、残念そうに。


「うん、僕は――飛張くんの捜してた『イチロー』じゃないよ」


「そうだよね。名前が一緒だったってだけ――あ、いや、まつりちゃんを責めてはないからね? 思い出したように泣かないでって」


 再びぐずり出すまつりに駆け寄る飛張。

 一路はそんな彼女に訊ねた。


 聞かなければならないことがある。


「飛張くんにとってさ――」


「うん……?」


「その『イチローくん』は――どういう人、だったの……?」


「どういう人、かぁ……。そうだな――」


 これまで騒然としていたのがまるで嘘のように、教室は静かで、どこから運動部の掛け声が聞こえてくる。

 心は落ち着いて、その時を待っている。


「憧れ、かなぁ……。今のボクがあるのも、あの時イチローくんに出逢ったからで――ああいう風になりたいなって、そう思える人だったんだ」


 こういうのはなんか照れるなぁ、とわずかに頬を染める。

 脚本のネタになるかもだから続けて、と冴枝さんが促すと、まつりが激しく同意した。

 ネタにしないでよ、と軽く笑って。



「会いたいって思ったのは、今のボクが、彼にどんな風に見えるのか――それが、知りたかったんだと思う」



 凪いだ水面に雫が落ちるような――そんな、不快ではないざわめきが胸の内に広がった。


 それが、答えだと告げるように。


「まあ、再三言うようだけど、そんな偶然ないよね。ほんのいっときだったんだ、むこうだってボクのことなんか忘れてるだろうし――」


 運命的な再会なんて、そんなロマンチックなことは――

 瞳に涙を浮かべるまつりに気付いて、飛張はそこで言葉を止めようとした。



「――忘れてないです……っ」



 突然上がった声に、きっと一番驚いていたのは口を開いた当の本人だろう。


「忘れて、ないです。きっと、憶えてる……」


「……そうかな? まあ、だとしても――」


「その証拠に……っ」


 と、伊遠は落ち着きのない手つきで、慌てて鞄から何かを取り出した。

 それを、飛張に押し付けるように差し出す。


 それは、一冊の小説――児童書だ。


 これ――と、一路と飛張の声が重なる。


 それは、花与の部屋にあった――


「あの――、あの……、あの……っ」


 何かを必死に伝えようとして、伊遠の目に涙が浮かぶ。

 彼女は必死に、勇気を振り絞っていた。


 きっと、何も知らない人からすれば、おかしな女の子に見えるだろう。

 それでも――


「……これさ」


 本を握ったまま渡しきれずにいる伊遠の手に手を重ね、一路はそれを引き継いだ。


 たぶん、きっと――


「ある……卒業した先輩から、預かったものなんだけど」


 それを、飛張に渡す。


「いつか、君に会えたら、返してほしいって」



 ――きっと、今はこれでいい。



 ……いいよね?



(ハナ姉……?)



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