アナルとアナール

「貴方の名前はアナールなのね」


「その通り。20世紀の歴史学を刷新したフェルナン・ブローデルの血が流れているのさ」


「歴史学なんて興味がないわ。過去なんて消え去ったもの。私は今の快楽を追いかけるだけ」


「それにしても、君の名はアナルだ。よく役所が受理したもんだ」


「そう? 私はこの名前、気に入ってるのよ。変態以外の男は近づいてこないし。すぐに覚えてもらえるし。ただ、忘れてもらえないのが面倒な時もあるけど」


この二人の出会いはSNSだ。コンピュータのアルゴリズムが、勝手に二人を結びつけた。暇を持て余している老人と、同じく暇を持て余しているマダム。知り合って1ケ月。二人は今日初めて会い、コーヒーを飲んでいる。


アナールは今年で80歳になる。妻は3年前に亡くなり、子供はいない。それでも背筋は伸びているし、顔は艶やかに光っている。美しい白髪と銀縁の眼鏡。地味ながらも趣味の良いブレザー。絵に描いたようなインテリの空気の中に、なんとも言えない妖しさがある。アナルはその妖しさの正体を知りたいと思った。


「毎日、何をしているの?」


アナルは足を組み、煙草の煙を吹きかけるようにして投げやりに言った。


「まず、朝はインプットだ。決められた情報をインターネットから集めてくる。それをテキストマイニングのソフトで解析する。そうして得られた色々なグラフを整理してファイリングし、コメントを加えて研究所に送る。仕事はそれだけだ。あとは、散歩と趣味の気象予測、入浴。まあ、そんなところだ。


「研究所って、お仕事?」


「そうだね」


「どこの研究所? お給料はいいの?」


「うむ。それは言えない」


「どうして」


「守秘義務契約が存在する。それに言いたくもない」


アナルはアナールの品の無い一瞬の笑いを見逃さない。


「要は、相当に悪い奴なのね」


「はて、良いとか悪いとかは誰が判断するのかな。世の中がそんなに単純なものでないことくらい、お嬢さんならよくお分かりだろうに」


「お嬢さん!!」


アナルは、飲んでいたコーヒーを本当に吹きだした。


「ちょっと」


アナルは店員を呼び、濡れた机と床を拭くように言う。


赤いスーツに派手な化粧。誰が見ても一般人ではない。歳も40を超えている。お嬢さんなどと呼ばれたのは、生まれて初めてだ。そんな気安い女ではないのだ。


「お嬢さん・・・」


アナルは自分でそう口にすると、声を出して笑い出した。周りの客の視線がアナルに集まる。


「女王様、いや、アナル様と呼んでくださる?」


「ほー。では、アナル様」


アナールが少し大きい声になる。周りの客の視線が、今度はアナールに集まる。


「よろしい。アナール、これからどこへ連れて行ってくれるの?」


「そうですね。六角山の山頂にあるホテルのレストランはいかがでしょう」


「六角山にホテルなんてあったかしら。墓地なら知ってるけど」


「ありますよ。隠れ家のような超一流のホテルが」


アナールはまた一瞬、嫌味な笑いを浮かべた。アナルは不愉快に思った。私の知らない超一流ホテルというのが気に入らない。いや、この男が気に入らない。アナルはすぐに謀略を思いついた。


「わかったわ。じゃあ、2時間後にもう一度ここに来てくれる」


「ええ」


アナルは席を立ち駐車場に行った。アナールの乗るジャガーに小型の爆弾を仕掛けてから、自分のベンツに乗って走り去った。爆弾は1時間後に爆発する。アナールは死ぬ。そう思うと気分は大いに高揚した。


アナルは六角山に向かって車を走らせた。本当にホテルがあるのかどうか、この目で確かめたかったからだ。


曲がりくねった細い道を登って行くと、霧が濃くなり、視界が失われて行く。これでは運転できない。アナルは車を止めて、煙草に火をつけた。そして、突然の睡魔に襲われ眠った。


アナルが目を覚ますと、そこにはアナールがいた。30畳ほどの殺風景な部屋。中央にテーブルと椅子が置かれている。窓の外は森のようだ。


「ご気分はいかがですか?」


アナールは、また嫌味な笑顔を浮かべてそう言った。


「画期的ね」


「それはなによりです」


まるで想像もしていなかった状況にアナルは興奮していた。驚きや不安など無い。生まれてから一度もそういう感情を味わったことのない人間なのだ。そう、人間なのだ。


「ところで、爆発はなかった?」


「ありましたよ。よく御存じで」


「被害者は?」


「おおお。ふふふ。それは貴方です」


「今日の主食ですから・・・」


「主食?」


「はい。私には歴史学者の血だけでなく、人喰い人種の血も流れておりまして・・・」


「なにそれ。人を食った話じゃない」


「いえいえ、人を喰う話です」


「面白そう、煮るなり、焼くなり、好きにしてね」


アナルは心から嬉しかった。こんな経験は珍しいから。

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